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中谷礼仁『国学・明治・建築家』2007 WEB公開 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-11-28 ノリのような建築

[]ノリのような建築

1960年のある講演会で丹下は次のように言っている。

…別の角度の問題として、次のような点をまた考慮してみたいと思います。私達の時代のマスコミュニケーションやマスプロダクションが、私たちの生活にもたらしてきている影響でありまして、私たち現代の人間は物資とともにますます普遍的なものに、また匿名的なものになりつつあります。例えば1950年の電気掃除機と1960年の電気掃除機は、非常にちがっておりますけれども、1960年の電気掃除機と同じ年のタイプライターは非常に似ております。またこれが病院であるのか、あるいは教会であるのかわからないような建築が非常にたくさん出てまいりました。…しかし、自分自身の固有性を示そうとする欲求は、人間にとって本質的なものであります。「技術と人間」1960年*1

匿名性の建築」、「空気のように完結しない」、「ノリのような建築」を前に、その対応に苦慮している丹下の姿を想像してほしい。丹下はその匿名性に対処しのりこえてゆくための、自己変革宣言とでもいうべき決意めいた言葉をそこで述べている。

建築家、あるいはデザイナーという人たちは、テクノロジーとヒューマニティのあいだに依存している唯一の人間であります。…建築家、あるいはデザイナーはますます創造的になっていかなければならないということであります。こういうふうに技術が急速に進歩し、文明形態を大きく変貌させつつある現在、20世紀前半に考えられたデザインのいろいろな考え方や建築のイメージが、現在ますます大きくなりつつある矛盾を解決するにあたって、不十分であり、役にたたなくなってきておりますし、また不適当になってきております。そうして私は現在こそ、建築、あるいはデザインがその内部から変革されていかなければならない時期にきているというふうに考えております。(前掲に同じ)*2

丹下は同講演会で、現代都市の特質が「モビリティ=流動性」にあるといい、その問題を「時間」という軸の中で考えてゆくと、二つの傾向がある、という。

一つは、商業主義の下に、毎年そのライフ・サイクルを急速に短くしつつある、「生活用品」「自動車」というような「私達の生活そのもの」、あるいはそれを容れるための「住居」であり、「住居」でさえ、本当の役に立つのは5年あるいは10年にすぎない(!)とする。そしてもう一つは、「ダム」「ハイウェイ」などの、資本の蓄積にもとづくオペレーション・スケールでつくられた、「非常に大きな構造体」であり、このような「構造」は、長期のサイクルに耐え、時代のシステムを決定しつつある、という。

この二つの傾向は、…ちょうど生命、あるいは有機体が、変わってゆくものと変わらないものとによって構成されてゆくように、あるいは常に細胞新陳代謝しながら、その全体は一つの安定した形をもっているように、私達の都市について考えてみましても、流行現象のような変わってゆく要素と、時代を性格づけるような変わらない要素との矛盾の統一というふうなことについて、私達は考慮していかなければならない時代になってきたと思っております。(前掲に同じ)*3

いささかハギレのわるい説明だが、一見して、この時期に特徴的な思考方法の基調にあるものが、「変わるもの」と「変わらないもの」の二元論だとわかる。

「住宅」をも「変わるもの」として流行現象と同一視する姿勢は、先の「弥生vs縄文」という近代的誤謬を含んだカテゴライズによって獲得された概念ともとれる。そして同時に、「外部―都市」的要素を「変わらないもの」と認識する二分法によって、自らがよって立つところであったはずの「内部―個別性としての建築」が、自動的に「変わるもの」として対象化されてしまったことを見のがすべきではないだろう。つまりコア・システムにおいてその萌芽がみられた、「統一」から「並存」への構想力の後退が、さらに進んで「個別性としての建築」に対する「外部―都市」を発見させた、ということができるから。そしてその「外部」に対応しようとしたとき、表れた方法についてさらに検証せねばならないだろう。

■「自然―進化」観の流入…「構想力」の相対化

丹下は現代に対する現実認識として、第一に「ダイナミックな流動性」を挙げたうえ、建築家が行うべき方向づけを次のように表現する。

ではどういう方向に成長してゆくでしょうか。第二の側面として、次のような文明史的状況を私は心に描いております。それは、社会組織と、国土や都市の空間組織は、より高度に有機体化してゆきつつある、ということであります。…さらに植物・動物・人類といった自然進化の過程にたとえるならば、現代は、有機体内部に神経系統を整え、頭脳を生みだしつつある段階、つまり人類誕生の段階にたとえてみることができます。「日本列島の将来像」1966年*4

オオブロシキは適切な広さにたたみ直すべきである。注目したいのは、丹下が現代の認識を「自然進化」と表現していることである。伊東忠太の「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」*5に表れた、美術派の惨落の様相を思いだしてほしい。あのとき伊東は建築表現の「作為性」から脱却するために援用した「自然―ありのまま」概念によって、みずから表現しえる世界への探訪を閉ざしてしまった。そのとき「様式」は彼の手を離れ、『自然』という判断中止の領域に封じ込められてしまったのである。おそらく丹下のいう「自然進化」の持つ「言葉」としてのはたらきも、忠太同様であったはずである。

例えば、丹下が日本の現状を「あるいは日本開闢神話の創世の状態にも比べられるほどの、大きな流動状態」*6と形容するとき、伊東が先の論で建築領域における現実認識を「暗黒時代」と称したことと、同一の認識放棄の意味あいがある。つまり当時の丹下のメイン・テーマでもあった「開かれた都市」というモチーフには、積極的な意味あい以外のものが、含まれていたように感じられるのだ。

それは丹下においては、「世界を表現されたものとして見る」意味を有していた「機能主義」を相対的に位置低下させた。開かれた社会組織である大都市地域に対する秩序づけの探求、つまり60年代より丹下が提唱し始める「構造主義」というテーマに関して、丹下は次のようにその作業を位置づける。

…この探求は既に、機能主義の限界をこえた領域のことがらである。ここでは一つの機能単位と他の機能単位との間にはなんら機能関係が存在してないのである。…そこにあるのは動態的な構造的関係なのである。こうした構造関係を明らかにし、さらにその新しい構造関連をつくりだしてゆくことこそ、私達の主要な課題となってきたのである。「現代の一般的状況」1961年*7

丹下は機能主義のテーゼである、特定の「目的―手段」についての関数関係、いってみれば彼の立脚する「個別性」を保証する基本的認識を、限界として感じはじめている。それは「外部―都市」を自らの内にひきこめられなかったときに表れた。そのとき「都市」もまた、『自然』的な貌をもってたち現れてきたのではなかったか。

例えばこの時期、丹下は、ルイ・カーンのフィラデルフィア中心地改造計画における、自動車交通と建築の結び目として規定された、「港」と呼ばれるコミュニケーションネットワークを評価しつつ、それを「人工自然」と形容している*8。しかし以前の、「天才」を基底におき、構想の端緒をあくまでそれ以外に求めなかった彼の方法論に、「自然」という言葉は本来的に不要であったはずだ。以上のような状況を、丹下における本居的な『自然』概念の導入期とまとめてしまってかまわないのだろうか?

もう1回くりかえそう。論の推移はあくまで可視的である。1960年当時、以前の「内部―自己―個別性」のサイクルの中で完結していた彼だけの「日本」に、不断なく乱入してくるノイズ―機能主義の限界を越えた領域―の存在に彼は対処しきれなくなっていた。「天才」の「構想力」だけでは世界はもはや語りつくせなくなってきたのである。そのとき彼は、「天才にとっての外部」を「都市」と命名した。そこに対処しようとしたときに、しかしなお彼が「天才」を創作方法論の根底に据えようとするかぎり、「外部としての都市」は「制御できない何物か」として認識せざるをえない。つまり「都市」は『ありのまま―自然』的な領域として定位させざるをえないのである。丹下はその「天才」の外部をとらえ続けようとした。しかし「天才」が彼の中にいすわり続けるかぎり、「都市」は本来的に彼に対立してしまう。そして60年代以降に繁出する彼らの合い言葉『新陳代謝―有機体―自然進化』でさえ、以上のような強固な二元論の幻想に産み落されたものなのではなかったか。

ただ一方で「もののあわれ」に対する徹底的な批判を繰り広げてきた丹下にとって、『自然としての都市』には屈服しようのない心情があったはずである。彼は当時注目され始めた「メタボリズム(新陳代謝)・グループ」という建築運動に対し、次のような忠告ともとれる見解を述べている。

しかし都市には、その間断ない持続的な、メタボリズムの過程をたどりながら大きなメタモルフォーゼの行われる時期、あるいは局所があるといえよう。「機能主義から構造主義へ」1961年*9

ここで丹下は、樹木の成長システムについて述べたアルドという学者の説を引用しながら、第一に、樹木が「年々その葉を更新させながら成長してゆく過程」―持続的成長―と、第二に、樹木に実った種が「新しい土壌から樹木に成長してゆく過程」―断絶的変化―とを区別する必要がある、という。

…第一の過程だけで都市を理解することは、都市の自然発展をそのまま肯定するような宿命論的立場におちてゆくものである。と同時に第一のメタボリックな過程を内在的にもつシステムを考えないならば、システムの変身という第二の過程もその発展する生命力を失うことになるだろう。*10

明言することは避けているが、「第一の過程だけで都市を理解する」人々とは、メタボリストたちを指しており、いつか花開く「断続的変身」に可能性をかけているのは、ほかならず丹下自身である。そしてまた彼の鋭いカンは、「メタボリズム(=新陳代謝)」という言葉から連想される、近代性をのりこえるものとしての生物的なイメージ、あるいは有機的な閉じた生態系のイメージとは対極のどうしようもない現状肯定の残滓を、メタボリストたちの方法の裏に嗅ぎとっていたのではないだろうか。

*1:NK、p.209

*2:NK、p.206

*3:NK、p.208、209

*4:KT、p.66、67

*5:『建築雑誌』265号、明治42年

*6:「東海道メガロポリスの形成」1965年、KT、p.68

*7:KT、p.44

*8:「機能主義から構造主義へ」1961年、KT、p.50

*9:KT、p.51

*10:KT、p.51