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中谷礼仁『国学・明治・建築家』2007 WEB公開 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-12-02 東京計画1960まで

[]東京計画1960

あの灰色の雲のようなもの。巨大な煙幕は急速にかたちを整えつつあった。紛れもなく何かが生まれつつあった。『メイコン・ハインツ』だ。*1

1960年6月23日、新安保条約が批准された。まれにみる動員力を誇った反対運動は新たな局面を迎えていた。9月には早々に福田恒存江藤淳らから反対運動に対する批判的な総括が提出されている。また運動の内部からも先の吉本のように積極的な乗り越えを標榜する指向も生まれ、〈戦後〉知識人の思想的な破産は目に見えていた。その惨落の様子は例えば建築思想においては『建築の滅亡』に端的に表れていたことは指摘した。

ただ丹下は以上のような状況からは遠いところにいた。なぜなら彼の「天才」論はそれら全てを当初からよせつけはしなかったから。

東京計画1960

翌年の1961年1月、「東京計画1960」プロジェクトが東大丹下健三研究室*2から発表され、同年2月その全貌を雑誌『新建築*3に現した。彼らは先の状況を生んだ母胎、東京そのものの改革を迫ったのである。発表主体は丹下健三研究室とされ、連名で丹下健三以下、神谷宏治、磯崎新、渡辺定夫、黒川紀章、康炳基らがクレジットされている。そのプロジェクト・ノートは学生達の綿密な研究をもとに、丹下健三研という密室の中で長期にわたってつみかさねられた、周到なシナリオによって構成されていた。

彼らの主張は現実の東京、混乱した都市への新しい認識を要請するところからはじまる。東京の混乱はその都市構造に源を発している。それは中世以来の東京の都市構造が現状の1000万人の人口を擁しえる器ではなくなっているからだ、という。

…そうして1000万に達した都市は、それが必要とする流動的活動と、この硬化した都市構造とのあいだに、決定的な矛盾を示しはじめた。この古い肉体は、新しい生命の活動には耐ええなくなったのである。閉ざされた中世都市社会の反映であった求心型都市構造は、20世紀、1000万都市の開いた組織とその流動性に対応しきれなくなったのである。

東京を混乱に導きいれた矛盾の根元はその求心型都市構造にある、と彼らは言う。東京を救う道は、東京が「本質的」「歴史的」に必要としている新しい都市の構造をつくりだすことである。彼らは次の3点を提案する。

1.求心型放射状システムから線形平行謝状システムへの改革

2.都市・交通・建築の有機的統一を可能にするシステム

3.現代文明社会の、その開かれた組織、その流動活動に対応する都市の空間体系の探究

そしてその3点に対し、具体的な建築的方策を提出することによってノートは完結する。ここで注目したいのは彼らが「線型平行謝状システム」と表現する建築的方策である。彼らはそのシステムとして東京湾上を東京から木更津へ直結する、「都市軸」とよばれるスーパースケールのハイウエイを提案する。このハイウェイこそが「東京計画1960」の骨格を構造的、視覚的にも決定している。彼らはそのハイウエイについて、脊椎動物の背骨の成長過程をひきあいに出しながら、こう説明する。

私たちは、都心という概念を否定して、都市軸という新しい概念を導入する。これは求心的パターンの「閉じた系」そのものを否定することである。そうして線型発展を可能にする「開いた系」の軸を設定することである。そうして私たちは東京の構造を求心型放射状から線型平行射状に変革してゆくことを提案する。

この言葉は丹下らの試みを端的に表している。それは東京改革の姿をかりながら、丹下が捨て去れなかった、「個別性の建築」という求心性を融解させて、対立した「外部―都市」の中に自らを開いていったことをも語っているのだから。

丹下健三研究室

前に述べたように以前から丹下は「天才」が「個別性」に回収されざるをえない限界を察知していた。60年代より彼は急速に「丹下」にとっての外部である「都市」のデザインに傾倒していった。その軌跡には丹下が「丹下」そのものを解体してゆこうとする意志さえ感じさせる。その到達点として「東京計画」を見るとき、未だ彼の構想力の鮮やかさが失われていないことに気づく。

その強度を支えた第一の要因として、彼の創造論そのものが日本的『自然』に決してうちとけない性質のものであったことがまず挙げられなければならないだろう。そのとき本居的『自然』のカラッポな世界から「胸はしり、火に心燃え、骨髄より火いでるばかり」*4の意志をもって逃走した篤胤の、痩せさらばえた姿に丹下の姿が重なって僕には見える。

そして丹下の後ろには丹下研究室があった。彼は終戦直後1946年より東大建築学科の助教授の職にもあった。「東京計画」のクレジットを繰り返すまでもなく、その研究室にはポスト丹下を作りだしてゆくことになるエリートたちがひしめいていた。「丹下」そのものを解体させる意志の裏に、ネクスト・ジェネレーションの営為があったことを僕は想像している。

■近代「日本国建築の系譜のはてで

当時「丹下」を通してその果てにまでのぼりつめた近代「日本国建築の系譜は、一つの大きな課題を内に宿していた。

それは「個別性vs都市」という対立であった。それは「天才」が「個別性」に回収されざるをえず、その途端に現れる圧倒的な外部としての「都市」をどう捉えるかという問題に還元できる。60年代を通じて、丹下健三あるいはメタボリストたちは「都市」を予測不能なもの―ありのまま―いわば新しい『自然』として捉えた。混乱の支配する東京こそが彼らのイメージする『都市-自然』そのものであったはずである。

以上のような推移はまた、本居的なモダニズムに対立する意図で把握された「自己」、その最終過程において獲得された「天才」という強固な二元性の片割れにおいて全世界を把握しようとする存在のもつ不可避的な論的変遷であった。

彼らは「東京」という象徴を、その課題を乗り越えるための標的にしていたように見える。一つは中世以来の東京の「求心性」という言葉で語られる「個別性」についての認識論として。もうひとつはハイウエイという具体的な装置によって語られる、「外部」としての『都市-自然』にいかにコネクトするかという実践的なテーマとして。そしてそれらこそが「丹下」の次に来る者達の課題だった。ハイウエイは対立するもの達への架橋であった。

1961年3月、齢30で磯崎新は丹下研究室を修了した。

ただ30年経った現在、あのハイウエイは存在していない。そして混乱に満ちた東京もその姿を保っている。彼らは「都市」を予測不能なもの-『自然』として扱ったが、その構えじたいが僕にとっては話をややこしくしているように思える。何故ならハイウエイが架橋であるかぎり二つの対立は残存したままだから。都市を『自然』と二重映しにする見方、「カオス」を前提とした都市論、建築論は批判され続けねばならないだろう。

『世界を表現されたものとして見る』、この前提に僕たちは再びたちかえらなければならない。僕たちは別のやり方を見つけなければならないから。

*1フィリップ・K・ディック「地図にない町」(原題"The Commuter"1953)から引用、仁賀克雄編訳『地図にない町 ディック幻想短編集』昭和51年早川書房、p.262、263

*21946年以来、丹下健三東京大学助教授でもあった。

*31961年3月号、p.100

*4:『玉だすき』を参照のこと。