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『建築と日常』編集者日記

11月17日(金)

わりと混んだ電車の中。イヤホンから流れてくる音量が大きくて、すこし小さくしたほうがいいかと思いつつ、その動作をするには体勢が若干窮屈だった。イヤホンは耳の穴をすっぽりふさぐタイプだから、まあ音漏れは大丈夫だろうと思ってそのまま音楽を聴きつづけた。フィッシュマンズの最後のライヴを収録したアルバム『98.12.28 男達の別れ』(1999)。8曲目の「IN THE FLIGHT」の高音で伸びるところで不意に忌野清志郎(例えば同じく歌詞に「空」という言葉を含む「ヒッピーに捧ぐ」もしくは「うわの空」)を感じた。仮にその直感が確かなものだとして、清志郎からの影響があるのだとすると、その影響がフィッシュマンズ(佐藤伸治)にとってのキャリアの初期にではなく、すでにバンドとしての確固たるオリジナリティを獲得した最後期に表れているのが興味深い。あるいは清志郎の音楽がそれだけ根本にあったのか、あるいはその時期にあらためて必要とされたのか、あるいはあるいはと、考えるに足る問題だ。

11月16日(木)

以前この日記(10月10日)ですこし触れましたが、世界各地のインディペンデントな建築系出版物を集めた展覧会「A Print Stockholm」に『建築と日常』を出展しました。今日11月16日から12月3日まで、スウェーデンはストックホルムのArkDesで開催されています。

『建築と日常』は、No.2、別冊『窓の観察』、号外『建築と日常の写真』の3冊を発送しましたが、おそらく『窓の観察』が展示されているはずです。qpさんの窓写真がどう見られるか期待しています。

※追記 どうも3冊とも展示されているようでした。

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11月15日(水)

ホン・サンスの監督作『よく知りもしないくせに』(2009)、『教授とわたし、そして映画』(2010)、『ハハハ』(2010)、『次の朝は他人』(2011)を、ここ最近DVDで続けて観た。おそらく2013年の6月から7月にかけてレンタルが開始された4作品で、当時「旧作になったら借りよう」と思っていたのがいつのまにか4年以上も経っていた。しかしこのうち『教授とわたし、そして映画』はどうも見覚えがあるなと思ったら、3年ほど前に東京藝大のオープンシアターで観ていたのだった(2014年12月14日)。

これ以降日本で一般公開された4作品『3人のアンヌ』『ソニはご機嫌ななめ』『ヘウォンの恋愛日記』『自由が丘で』はいずれも映画館で観ているけれど、下のサイトなどによれば、ホン・サンスはその後もコンスタントに作品を制作しているようなので、また日本で公開されるのが待ち遠しい。

僕にとってホン・サンスはフィッシュマンズとともに、門外漢ながら遠い未来にまとまった文章を書いてみたいと思わせる作家だ。書いてみたいというか、書けるようになっていたいというか。いま安易に中途半端なことを書くと、そこで可能性が固まってしまうような気がする。時間とともに作品に対する認識が深まっていき、他のさまざまな人生の経験と反応して熟成していけば嬉しい。

11月14日(火)

千の扉

柴崎友香『千の扉』(中央公論新社、2017年)を読んだ。新宿区の巨大な都営団地(戸山ハイツがモデル)を舞台に、戦後の各時代をたどる長編小説。同じ場所での異なる時間(時代)を重ね合わせるような書き方がされている。それぞれの時代は必ずしも章や節ごとに明快に書き分けられているわけではなく、細かく混じり合いながら1行分の空白を隔てて連続する。たとえば映画においてこうした構成をとる場合、異なる時代のシーンはその画面の内容によって一目で判別しやすいけれど(登場人物の年齢や服装、背景の様子などによって。あるいは古い時代をモノクロやセピア色の映像によって示すようなこともできる)、文字で成り立つ小説の場合はそうはいかない。読者を過度に混乱させないよう、各時代の時代性をさりげなく示すような工夫がところどころに感じられる。そのような時間の連続と分節のバランスや混じり合わせ方の具合が、この小説の体験を左右するひとつの鍵になっていると思う。

ところで本作ではタイトルにも現れているとおり、扉という建築の部位が象徴的な意味を持っている。

同じ形、同じ重さの扉。水色か薄い黄色の、新聞受けのついた金属の冷たい扉。その中には、誰かが住んでいる。家族か、誰かの家族だった人。家族と離れている人。家族を作ろうとした人。家族になった人。一人で過ごしている人。すぐそばにいるのに、どんな暮らしをしているのか、扉の向こうは見えない。(p.269)

一方、2012年の別冊『窓の観察』()の巻末の著者紹介では、柴崎さんと窓を関連づけて、下のように書いていた。

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我ながらいかにも建築関係者らしい我田引水という気もするけれど、ここで柴崎さんの作品に、窓から扉への変化という意味を読み取ってみることができるのではないだろうか。一般に窓は透明で視覚的に内外を繋ぐのに対し、扉は不透明で、内部の様子を外部に見せない。しかし窓には不可能である具体的な身体の行き来を可能にする。

書評を書かせてもらった()『パノララ』(講談社、2015年)でも感じたけれど、柴崎さんの小説において、社会や人間の負の側面が、以前と比べてよりはっきりと出てくるようになってきたと思う。キラキラした世界をありのままに眺めるという受動性とともに、ままならない世界に自ら関わっていくという能動性が、徐々にかたちとして表れてきている(キラキラした世界とままならない世界は決して別々の世界ではないし、必ずしも直線的な作風の変化ではなく作品ごとの偏差もあるにせよ)。こうした変化を窓と扉の比喩で考えるのはそれなりに妥当である気がしないでもない。下はジンメルの「橋と扉」(1909)より。

●扉はまさに開かれうるものでもあるがゆえに、それがいったん閉じられると、この空間のかなたにあるものすべてにたいして、たんなるのっぺりとした壁よりもいっそう強い遮断感を与える。壁は沈黙しているが、扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ、しかしあくまで、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ、これこそ人間の深層にとって本質的なことなのだ。

●扉を閉ざして家に引きこもるということは、たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから、ある部分を切り取ることを意味している。たしかに、扉によって形のない境界はひとつの形態となったが、しかし同時にこの境界は、扉の可動性が象徴しているもの、すなわちこの境界を超えて、いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて、その意味と尊厳を得るのだ。

  • ゲオルク・ジンメル「橋と扉」『ジンメル・コレクション』北川東子編訳、鈴木直訳、ちくま学芸文庫、1999年

11月12日(日)

テレビで放送していた庵野秀明&樋口真嗣『シン・ゴジラ』(2016)を観た。去年の大ヒット作。現代の日本に本当にゴジラが現れたらどういうことになるか、そのリアリズムを追求していると言えるだろうか。しかしそれによって物語の充実よりも思考実験的な態度が前面に出てきて、僕はどうも乗り切れなかった。ストレートなリアリズムというよりもメタレベルの遊戯性というか、悪く言えば社会風刺的な受け狙いの雰囲気が漂っている。ただしその一方で、石原さとみの登場シーンを妙に楽しみにしている自分もいた。日本人が演じる外国籍の胡散臭い人物というのは、ある種の日本映画の伝統を引き受けたものと言えるかもしれない。

11月10日(金)

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蟻鱒鳶ルで開催された「新しい骨董」(山下陽光・下道基行・影山裕樹)のトークショーを聴いた(僕の席からは右端の下道さんが見えなかった)。その後の打ち上げにも参加。十数人のうち岡さん以外は面識がないという、こういう飲み会に参加するのはずいぶん久しぶりだと思う。

11月09日(木)

日本工業大学大学院「建築文化リテラシー」第7回&第8回。映画を題材にした講義。桑沢の授業も含めてここ数年だいたい同じ映画を取り上げてきているので、そろそろ新陳代謝が必要な頃合いだろうか。その年の学生にとっては初めて聞く話でも、僕のほうが飽きていれば、その雰囲気は学生にも伝わってしまいそうな気がする。数年ごとに内容を更新していくというより、むしろ数年経っても自分で飽きない内容をつくり上げることを目標にすべきかもしれない。

授業終了後、大学の図書館へ行き、ひとり大画面のテレビに向かってヘッドホンをしながら『刑事コロンボ──黒のエチュード』(1972)を観た。講義用のDVDを物色しているときに見つけた『刑事コロンボ』のDVDボックスに収録されていたもの。ジョン・カサヴェテスが犯人役としてゲスト出演した回で、以前(2014年9月28日)から観たいと思っていたのだった。作品の出来としてはシリーズの他の回と比べても凡庸な気がするけれど、カサヴェテスの監督作でのカサヴェテスとピーター・フォークを知っているから、余計にそう感じられてしまうのかもしれない。

11月07日(火)

モランディとその時代

岡田温司『モランディとその時代』(人文書院、2003年)からのメモ。モノグラフのあり方について。

 とはいえわたしがここで採用したのは、この画家の歩みを通史的にたどるという、ごく一般的なモノグラフの手法ではない。というのも、そうした語り口においては、たとえば萌芽から成長を経て衰退へといった生物学的な変化のメタファーや、初期作品のなかに成熟期の作品の原型を読み込むといった予定調和の論法が、それと気づかぬままに幅をきかせてしまう恐れがあるからである。歴史は、均質な時間の直線的な流れと同一視されるものではない。わたしたちの記憶においても、過去の出来事は、必ずしも時間軸に沿って一列に並んでいるわけではない。記憶のなかの時間は、しばしば逆転し、収縮し、錯誤し、集結し、休止する。それゆえ、過去を想起する作業としての歴史も、時間を通史的になぞらなければならないという決まりはないはずである。(p.6)

上の文は「はじめに」からの抜粋だけど、「あとがき」では下のように書かれている。

 拙著『もうひとつのルネサンス』以来、わたしはこれまで、「人と作品」というモノグラフの形式をどちらかというとあえて避けてきた。伝記的事象と作品記述ないし分析とを平行関係において、年代を追いながら論じていくというお決まりのスタイル──いわゆるヴァザーリ主義──に、少なからず疑問を抱いてきたからである。(p.359)

こうして忌避される定石的なモノグラフの書き方は、「どの作品も大体同じ」系のモランディという作家のにおいて、とりわけ適用しづらいものかもしれない。この本だけでなく、より一般向けの新書版である『ジョルジョ・モランディ──人と芸術』(平凡社新書、2011年)も、定型的な時系列のスタイルにはなっていなかった。

11月06日(月)

先週書いた(11月1日)モランディの画題に対する疑問について、岡田温司『ジョルジョ・モランディ──人と芸術』(平凡社新書、2011年)のまさに「なぜ壜なのか?」というタイトルの章(第2章)で論じられていた。

 それにしても、なぜ壜や壺なのか。それも、とりたてて特徴があるわけでもないばかりか、むしろみすぼらしくさえあるような。モランディの絵を前にして、皆さんの誰もが抱くにちがいないこの問いに、十分に納得のいくかたちで答えることは、おそらく困難であろう。

 もしも、まだわたしたちの画家が生きていて、真正面から「なぜですか」という問いをぶつけたとしても、納得のいくような返事が返ってきたとは思われない。というのも、人は誰でも、自分の好みや性向について、その理由を問われてもなかなか答えられるわけではないからである。(p.50)

こう前置きしつつも著者はそれに続けて自らの推論を進めていくのだけど、要するにモランディには18世紀的な静物画の豪華で多様な題材を避けたいというネガティヴな志向と、日常的で自分にとって親密な物を描きたいというポジティヴな志向の両方があったようだ。以下のような指摘を読むと、実際にモランディの作品に馴染んでいるわけではない僕にも、その位置づけがなんとなく察せられる。

 小さな壜や壺たちとその組合せが、しばしば壮大な建築すら連想させるという、こうした指摘にたいして、わたしはもちろん異論があるわけではないが、モランディの「建築」にふさわしいのは、ゲーリーの雄弁でモニュメンタルな建築であるよりも、どちらかというともっと慎ましくてささやかなものであるように思われる。モランディの壺は、けっしてグローバル経済の仰々しい殿堂に成り上がる──もしくは成り下がる──ものではないだろう。

 とするなら、モランディの壜や壺にもっと近似しているような建築は、他にないであろうか。答えはイエス、しかもイタリアにある。たとえば、二十世紀イタリアを代表する建築家のひとり、アルド・ロッシ(1931-97)のものである。

 しばしば「アナロジーの建築」と呼ばれるこの建築家の作品は、いくつかの点で、わたしたちの画家と共通点を持っている。たとえば、単純な形態への回帰と、それらのあいだにおける多様な組合せの探求、さらに周縁的でマイナー、民衆的でヴァナキュラーなものへの愛着といった点である。ロッシもまた、モランディがそうであったように、モダニズムの王道からも時代の主流からも周到に距離をとろうとしてきたのである。(pp.68-69)

写真家のルイジ・ギッリ(1943-92)がモランディの死後にそのアトリエを撮影したことはよく知られているけれど()、ギッリはアルド・ロッシの作品や事務所も撮影しており()、ここでモランディ─ギッリ─ロッシという線というか面も浮かび上がってくる。

11月05日(日)

近所の図書館で、塩塚秀一郎『ジョルジュ・ペレック──制約と実存』(中公選書、2017年)と、岡田温司『ジョルジョ・モランディ──人と芸術』(平凡社新書、2011年)を借りた。ジョルジュとジョルジョ。別々の関心から手に取った2冊だけど、制作においてあらかじめ強い形式を設定し、それとの関係のなかで作品を成り立たせるという点で、両者は繋がってくるかもしれない。そしてどちらの作品にも日常という概念が関わってくる。