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『建築と日常』編集者日記

06月30日(土)

今日で終了の白井晟一の原爆堂展、気になりながらも結局行かなかったのだけど、たまたま人から勧められ、ネットでインタヴュー動画を観てみた。今回の展覧会に際して作られたもので、4人の人が白井晟一のことにとどまらず幅広いテーマで語っている。ただ、編集でかなり切り貼りがされているため、それぞれの人の話の重心がどこにあるのか今一捉えきれない。

原爆堂計画は今でも言及されることが少なくない伝説的なプロジェクトだけど、僕はどう位置づけていいのかずっと確信を持てずにいる。例えば白井晟一が求める「かつて人々の眼前に表われたことのない造型のピュリティ」が実際の平和にどう繋がるのか、その道すじがよく分からない。あるいは有名なドローイングに衝撃を受けたとして、その「衝撃」が人類を戦争から遠ざけるのかどうかも分からない。もし仮に遠ざけるとすれば、それは別に戦争や原爆をテーマにしたものに限らず、力がこもった芸術作品にはそういう効果があるのかもしれないと思う(と同時に、芸術作品における「衝撃」は、人間を平和とは逆の方向に向ける効果を持つ場合もあると思う)。

平和を実現する道すじという意味では、『建築と日常』No.3-4で引いた吉田健一の言葉、「戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」()のほうが、僕にはリアリティを感じられる。作品ということで考えるなら、原爆堂のように衝撃的で唯一無二のものよりも、柳宗悦がいう民藝のように穏やかで日常に遍在するもののほうが、平和と通じていそうな気がする(柳宗悦がいう「民藝」と白井晟一がいう「豆腐」「めし」は意味としてかなり近そうなのだけど、両者の文体は大きく異なっていて、その文体の差異が両者の思想の決定的な差異を示しているように思える)。

06月29日(金)

以前(2014年1月20日)も抜粋したことがあるテキスト。こういう視点も「平凡建築」を考える上で重要だと思う。

一見、様式建築よりも単純化され、誰でも容易に設計できるように思われるが、実はモダニズム建築は建築の歴史上設計が最も難しい建築のひとつで、ほんとうは比例感覚に優れた天才的な建築家だけしか美しく設計できない。一定の形式や伝統的細部や装飾技芸などの助力がないため、一般建築家が設計したモダニズム建築はただ安っぽく見苦しいだけの結果に終わるからである。大半が一般建築家によって建てられる運命にある都市の建築が、急速に魅力を失っていったのはむしろ当然であった。

  • 桐敷真次郎『近代建築史』共立出版、2001年、p.258

平凡が人間の暮らす環境をつくっている。だからその平凡を政治なり啓蒙なりによってより良くしていこうとする考え方がある一方、あえて全体的により良くしていこうなどとは思わず、「みんなが夢中になって 暮らしていれば 別に何でもいいのさ」(フィッシュマンズ「幸せ者」)というような考え方があり、さらにそうやって夢中になって暮らした結果、その環境がより良くなっているはずだという考え方がある。

06月28日(木)

建築と日常 No.5

『建築と日常』No.5の「平凡建築」特集では、例えば坂本一成先生や長谷川豪さんが言うような「作品化(異化)された平凡」の有効性にも注目していたけれど、それに限らず、その作品化と対立するような「普通の平凡」にも価値を見ようとしていた。坂本先生はそこまで含めて特集の意義を認めてくださったし、長谷川さんも面白いと言ってくれたけど、作品化と対立すると言うと、人によってはすごく反動的に聞こえてしまうかもしれない。ただ、僕はその作品化と無縁の平凡も認めることで、その上でなされる作品化という行為の価値もより確かなものになるという気がする。これは一昨年(2016年9月6日)のトークの後書きで引用した服部一成さんの言葉、「デザインがないほうがいいこともいっぱいありますよね。デザイナーがデザインしたためにうっとうしいというか、こんなところにデザインしなくてもいいのにということもいっぱいある。」()と通じる意識ではないかと思う。

06月25日(月)

Besides, History

銀座蔦屋書店で、長谷川豪さんと加藤耕一さんの対談を聴いた(モデレーター=太田佳代子氏)。長谷川さんとケルステン・ゲールス&ダヴィッド・ファン・セーヴェレン氏の新刊『Besides, History──現代建築にとっての歴史』(鹿島出版会)の刊行記念として行われたもの。「歴史」という言葉がキーワードになっていたけれど、加藤さんのほうは長谷川さんとの歴史観の違いを意識し、慎重に距離を測りながらその差異を浮かび上がらせようとしているように見えた(そうした両者の関係性は、去年の10+1 web siteでの対談()から引き継がれていると思う)。

実際、今回の長谷川さんの本は、どちらかというと歴史的というよりむしろ反歴史的であると思う。歴史という言葉を厳密に定義するのは僕には難しいけれど、少なくとも歴史とは個人の意識を超えたところで「流れ」や「広がり」とともにあるものだろう。しかしこの本では、過去の建築がそれぞれの「流れ」や「広がり」から切り離され、思いのまま自由に配置されている。さらに個々の建築は、その存在の全体が問題にされるのではなく、平面や断面やパースや模型に分割された状態を一つの独立した単位として扱われている。そこで過去の建築に対する共感や敬意があることは確かだとしても、こうした態度はやはり歴史を解体するものだと思えるし、その善し悪しや有効性は別にして、19世紀以来の近代的な態度と言ってみることもできる気がする。

あるいはこれは、過去に対する歴史家と建築家の態度の違いでもあるかもしれない。本のなかでは長谷川さん(と共著者の2名)は歴史を重要視する建築家であるということが大前提として定められているけれど、まずそこに疑いを持って考えたほうが、より深く歴史というものに迫れるのではないだろうか。別に歴史を重要視しなくてもよりよい建築をつくることはできるし、よりよく生きていくこともできる。今の世の中では歴史を重要視するのは無条件でよいことだと考えられがちだけど、そうやって歴史を絶対化させることにも問題はある気がする(例えば今日のトークでも、古ければなんでも残そうとするような最近の建物保存の運動に対して、建築を見る目がないのかという疑問が呈されていた。それは歴史を物質的に絶対化しようとすることへの批判だろう)。歴史を否定するようなモダニズムがこれだけ力を持ち得たのは、きっとそこに何かしらの真理が含まれていたからでもあるはずだし、そのモダニズムは現代においてもなお人々の思考形式や価値観の基礎になっている。歴史という概念について考えるなら、そういった単純に二元論で割り切れないダイナミックな状況を前提とすることに、大きな意味があるのではないかと思う。

06月24日(日)

断片的なものの社会学

岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)を読んだ。『中山英之|1/1000000000』(LIXIL出版、2018年)のなかで言及されていた本で、区立図書館で借りたもの。もっとじっくり読みたかったけれど、刊行から3年が経ってもまだ人気で予約待ちの人が多く、期限までに一通り目を通して返却した。評判どおり魅力ある本で、文学的であり哲学的。ある種の社会学に見られる結論ありきで現実を一括りに抽象化して語るような態度とは対照的で、現実のものごとを具体的な断片のまま定着させようとしている。そこでの現実や他者との距離のとり方にも共感する。

社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。テーマも不統一で、順番もバラバラで、文体やスタイルもでこぼこだが、この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。(『断片的なものの社会学』pp.7-8)

来月大阪の梅田蔦屋書店で、著者の岸氏と柴崎友香さんとの対談があるそうだけど()、確かにこの本のあり方は、このまえ(6月9日)の中山さん&柴崎さんとのトークでも話題になったような、「主題/背景」や「対象/環境」といった階層化を抜きにして世界をありのままに描きたいという柴崎さんの意識とも響き合うだろうと思う。また、岸氏は『建築と日常』No.2()でインタヴューに応えていただいた立岩真也さんと立命館大学で同僚とのことだけど、このお二人もその正義感とある種のドライさ、タフさみたいなところで、なんとなくイメージが重なる。

06月22日(金)

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伊藤寛さん設計の《黒水晶の家》(2004年竣工)を見学。桑沢デザイン研究所で伊藤さんが担当されている授業のなかで設けられた機会だったのだけど、たまたま僕にも声をかけてくださったので、学生たちに同行させてもらった。

《黒水晶の家》は伊藤さんご自身の住宅兼事務所で、敷地はかなり急な斜面、つづら折りになった道に挟まれるように、八角形平面の建物が多方向に向いて建っている。中心性の強い形態は、そうした敷地の環境に対応するものであるとともに、3層の内部空間を統合するものでもあるのだろう。1階の事務所と2〜3階の住宅は内部ではつながっておらず、別々の出入口を持っているのだけど、上下階ともできるだけ八角形の輪廓を視覚的に把握しやすいようなデザインがされ(間仕切りを天井まで届かせないとか)、その壁面の特徴的な仕上げ(杉板の目透かし張り)も共通している。そのことで、空間が直接つながっていなくても、同じ建物のなかにいるという感覚が強められる。

日曜(6月17日)に見学した《阿佐ヶ谷の書庫》では内外のかたち(体験)の不一致が徹底されていたのに対し、《黒水晶の家》は内外のかたち(体験)を積極的に一致させようとしている。どちらも幾何学的な形式に則りつつ、そのあり方は対照的で興味深い。ただし、《黒水晶の家》も全体を整然とした幾何学の秩序で覆うわけではなく、素材や造作にはかなりラフな印象を受ける。極端に言えば山小屋のようなイメージで、それは豊富な緑に囲まれたこの土地の場所性を反映しているのかもしれない。以下、写真2点。

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06月17日(日)

2014年から毎年開催されているという見学会で、《阿佐ヶ谷の書庫》(2013年竣工)を見学させていただいた。設計者は、『建築と日常』No.5()で量産住宅〈fca〉(2017年12月3日)をめぐってお話をうかがった堀部安嗣さん。

まず外観がなんともいえずチャーミングだ。8坪の角地に可能な最大限のヴォリュームをRC造で立ち上げている。内部はありえないほどコンクリートが充填されたマッシヴなヴォリュームのはずなのに(窓もわずか)、道路に面した姿は、斜線制限で切り取られた頂部にガルバリウム鋼板の屋根が載り、木造のスケール感で控えめな存在感を放っている。コンクリートは小豆色で塗られたそうだけど、時間が経って変色したのか、堀部事務所のHPにある写真の色よりも薄く、渋い紫色に見える。その色も「いかにもRC造」という感じでなくてよい。目地による分節や打ち継ぎのわずかな凹凸、表面の微妙なムラが、遠目から見たときのコンクリートの重さを打ち消しつつ、繊細な上品さをかもし出している。

そしてその外観と中に入って体験する内部空間が、形態上まったく一致していないのが面白い。内部は全体のコンクリートのヴォリュームからシリンダー状のヴォイド(大1つ小2つ)がくり抜かれるようにしてできた、井戸の中のような空間。平面図は日本の建築ではまず見ないほどの大きな割合をポシェ(壁体の部分)が占めている(外部からの遮音が意図されている)。外部と内部がそれぞれ別の論理でできあがっているようでいて、しかしそれぞれがそれぞれでなければならない必然性で固く結ばれてもいる。物体をくり抜いて空間をつくるというアイデアそのものはそこまで珍しくはないかもしれないけれど、それをこの規模の市井の建築で、書庫・書斎の機能性や象徴性、都市における建ち方、そして幾何学的合理性や空間の身体性まできちんと折り合いを付けて実現させるところが、堀部さんの建築の特質なのだと思う。書棚のモデュールによって厳密に組み立てられた幾何学性の強い空間は、物書きの書斎に特有の混沌とした秩序は感じさせず、驚くほど整然としていた。

06月13日(水)

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配色といい、文字の置き方といい、なかなか洒落たデザインだ。

06月11日(月)

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『建築と日常』No.5()の表紙と同じ版画(小泉癸巳男「淀橋区新宿街景」1935年)。迂闊にもぜんぜん知らなかった。2005年発行の本で、もう販売はされていないようだけど、知っていたらNo.5では使わなかったかもしれない。ただ、色味やトリミング、デザインの違いはあり、それで印象は多少異なる。また、この内容の本にこの版画を用いるのは一つの紋切り型と言えると思うのだけど(必ずしも悪い意味ではなく)、『建築と日常』No.5では裏表紙で作者自身の言葉を引用したことも含め、作品と媒体とで固有の関係が成り立っているのではないかと思う。

山口瞳は昔、内田百率々盒教噌Ж〇蓋瞳というラインで何冊か読んだことがあった。あるいは川島雄三/岡本喜八─『江分利満氏の優雅な生活』への関心が先行していただろうか。せっかくなので今回注文した本も最初のほうを読んでみたけれど(単行本未収録の1965年前後のエッセイ)、もう自分とは合わなくなってしまったかもしれない。たぶん以前は飄々とした態度やユーモアに惹かれるところがあったと思うのだけど、今はむしろそうした振る舞いの作為性が目に付いてしまう。そういうふうに書くことがある種の読者にウケることを知った上で、安心して書いているような気がする。

06月09日(土)

予告(5月21日)していたイベント「建築家と小説家の再会」(中山英之×柴崎友香×長島明夫@青山ブックセンター本店)が無事終了。下のリンクは、イベント開始の数時間前にトークの話題を思い浮かべてつぶやいた連続ツイート。

実際ここでアップした柴崎さんの小説の抜粋画像を、トーク中にもスクリーンに投影して参照することになった。とくに他ジャンルの作家同士が話をする場合(さらにそれを複数の異なる属性のお客さんが聴く場合)、こうした具体的なものを(把握しやすいヴォリュームで)目の前に置くことは、確かな対話の基点になって有意義だし、それぞれのジャンルの共通点と相異点なども浮かび上がってきやすいと思う。ただ、それで創作をめぐって丁寧な対話ができるぶん、具体的なものに向き合うことでそれなりの時間を要することになり、今日も時間不足の感は否めなかった。まあ、すこし足りないくらいの印象でちょうどいいのかもしれない。うまくいったと思う。今日のトークは後日テキスト化して公開される予定。

イベント終了後、近所で行なわれた打ち上げには、トークを聴きに来ていたqpさん(『窓の観察』)や結城秀勇さん(『映画空間400選』)たちも加わり、数年ぶりの同窓会のような雰囲気になった。記念撮影をしてSNSにアップしようなどと誰も言い出したりしない。