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『建築と日常』編集者日記

11月28日(月)

15年くらいぶりに坂口安吾の「日本文化私観」(『堕落論』角川文庫、1957年)を読んだ。そもそもここで主張されている内容は、完全に肯定したり完全に否定したりするべきものではなく、あくまで程度が問題になるのではないかと思うのだけど、ではその程度が妥当かどうかという判断は、感覚的なこととして、時代その他の状況にかなり依存するような気がする。1942年初出のこのエッセイが書かれて、もう70年以上が経っている。論理は納得しえないこともないのだけど(このまえの京都会館の問題とも重なるところはあると思う)、安吾の強い言葉は今一ぴんとこない。

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

11月26日(土)

東工大の塩崎太伸さんの研究室で開かれた「Utopia Night」()というイベントに参加した。塩崎さんと同門の中村義人さんの2人が中心になった建築記述研究会で、ユートピアの概念について調べているということで、その途中経過報告のようなプレゼンテーションがあり、その後自由に議論し歓談するというイベント。いきなり行って喋りすぎてしまったかもしれないけど、久しぶりに議論をした感じがあって楽しかった。僕は『建築と日常』No.3-4()の編集後記で引用したフィッシュマンズの「明日に頼らず暮らせればいい」という歌詞(「POKKA POKKA」)や、かつて多木さんが塩崎さんや中村さんの先生である奥山信一さんたちとした座談を例に出しつつ、理想主義の在り方を問題にした。それは理想主義を革新として捉えるか保守として捉えるかの問題でもあるかもしれない。

多木 […]もし建築家を特筆大書するなら、理想主義者であるべきだと僕は思います。そういうことを言うとアナクロニックに聞こえるかもしれませんが、どこかで理想主義者にならないとメタ原理も出てこないし、自己と他者の間の境界に対する解決も出てこない。そういうことを言うと、確かにアナクロに聞こえるけれど聞こえてもいいと思う。そう言えるくらいに世界がむちゃくちゃになっているから、もう言ってもいいんだという気がしているわけです。

[…]

奥山 建築の世界で理想主義を考えるとき、危ない方向に向かう可能性がひとつあると思います。建築は社会的な資本をかなり背負っているところが多分にあるので、全体主義とまでいかないにしても、その理想主義が社会を直接的に変革していけるという想念に直結することが、常に建築家の中での危険性としてあるわけです。僕たちはそうした事実を歴史的にも知っているし、それらが一体何だったのかもある程度知っているわけです。当の建築家たちあるいはその建築家をサポートした人たちが、最初からそうした危険な状態を目論んでいたのかどうかわかりません。おそらく後押しした人たちはかなりの確信を持ってやっていたと思いますが、建築家はどこか踊らされていた可能性がある。そうした危険性について思い巡らすたびに、社会と建築のつながりの恐ろしさに気づいてくる。理想主義がもってっているそうした側面を考えなければならないと思います。

多木 現代世界が一番めちゃくちゃなのは、あした戦争が始まっても不思議ではないところです。理想主義という場合、そこまで押さえている必要があり、それに反対する立場をとることを含んだ理想主義です。だから、それがないと、理想主義は明らかに全体主義的になりえる可能性を持ちえる。

奥山 戦争の問題もありますし、政治の問題もありますね。戦争までいかなくても、戦争に近いような政治があるわけです。

多木 現に身の回りにあるわけです。もうひとつ、これは建築が解決できるとは思わないけれど、いま人間の平等が失われていて、不平等がものすごく広がっている。だから、人権もどこかに行ってしまった。そういったことまで視野に入れた上で「理想主義」と言ったのですが、そういう理想主義はどこかで持つべきです。情報社会が人間に及ぼす影響と同時に、政治や経済や人間の存在の問題が建築に影響を与えると思います。それを解決する答えを建築の形であらわすことを言っているのではなく、そういうものなしにやると、いつまでたってもメタ言語は生まれてこないという気がするわけです。

 こんなことを言うとばかにしか聞こえないような言説ですけれど、僕はどうでもいいからそういうことを言いますが、建築の世界では、そこがあるかないかは情報社会を考えることと同じくらいのウエイトである。今人間も社会もおかしくなっているわけで、その中で建築をつくることは、人類の能動的な活動に意味を与えることができるかどうかという瀬戸際まで来ているわけです。

  • 多木浩二・奥山信一・安田幸一・坂牛卓「建てるということ──多木浩二と若い建築家3人との対話」『建築技術』2003年2月号

研究の成果は冊子としてまとめ、2017年5月7日の文学フリマ()で発売するとのこと。『建築と日常』の新刊の見込みは今のところないけれど、僕も久しぶりに出店してみようかと思った。それから塩崎さんは『建築家・坂本一成の世界』()の書評を書いてくださって、来月刊行の『SD2016』(鹿島出版会)で発表される予定。

11月25日(金)

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南麻布のTakuro Someya Contemporary Artで、岡乾二郎展を観た(〜12/11)。このギャラリーは去年(2015年5月9日)の3人展で訪れて以来。作品の画像を載せるのはどうかとも思ったけど、それでもし興味を持ってギャラリーに足を運ぶ人がいればまあいいかという判断をした。僕が言葉で説明しようとするよりは写真のほうがまだしも伝わるものがあるだろうし、ツイッターですこし検索をして、一般のお客さんらしき人がアップしている写真を見て、これはたとえ僕が撮った写真であってもイメージを更新しておいたほうがいいのではないかという気もした。

岡さんの作品には部分と全体の関係というか、現象性と構造性(物質性と観念性)の響き合いのようなものが特徴的にあると思うのだけど、上の写真では全体を写していないので、全体の構造性は感じにくい。今回のような大きい作品の全体を写そうとすると、部分あるいは実物が持つ迫力が消えて、全体構成の説明のようなことになってしまいそうだし、反対に魅力的には違いないディテール(マチエール)に寄りすぎると、部分と全体や部分同士の響き合いが薄れてしまう。だから上の写真くらいの撮影範囲/掲載サイズ(1200×800ピクセル)のバランスがとりあえずはちょうどいいのではないかと思った(スマホ等での表示は想定外)。作品に対してすこし斜めの位置から撮っているので、絵の具の凹凸が実感しやすくもある。とはいえ別にそういうことを意図して撮影したわけではなく、何点か撮ったなかから選んだ写真にそういうことが言えそうだということ。周辺部分がボケ気味なのもコントロールしているわけではなく、それによって臨場感や視線の主体性(作品の有り様を客観的に十全に表す写真ではないという伴示的意味)が生まれているとは思うけれど、そのほうがいいかどうかは確信がない。ちなみに岡さんのホームページ()では作品全体の正対写真を掲載しつつ、カーソルを合わせた部分が拡大できるようにもなっている。

11月24日(木)

日本工業大学大学院「建築文化リテラシー」第7回と第8回。1コマ目は写真に関する前回(11月10日)の宿題の講評。「大辻清司実験室」から写真を1点紹介。写真の時間をめぐってアンリ・カルティエ=ブレッソンと木村伊兵衛を対比するなど。

2コマ目は「建築と映画」の講義。建築関係者が好む映画(特異な建築や都市のセットないしCGが使われた映画/現実の有名建築が出てくる映画)を相対化しつつ、『工場の出口』(1895)から『もしも建物が話せたら』(2014)まで、10本程度の映画に言及。以下、今回の宿題。次回は1コマ目でまたその講評をしつつ、2コマ目は建築の所有から保存などの話をする予定。

映画『怒りの葡萄』(ジョン・フォード監督、1940年)を観て、具体的なシーンに言及しながら、「家」や「土地」をテーマに論じる。言及したシーンの位置(時間)を明記すること。

  • 提出物:文章400字(±10字以内)
  • 締切:12月1日(木)正午
  • 参考資料:立岩真也インタヴュー「建築と所有」『建築と日常』No.2、2011年

11月19日(土)

早稲田大学でのシンポジウム「建築論の現在 第16回 人間生活遺構という視点から建築の在りようを問う」()にパネリストとして参加。ホストである入江正之さん他3名のパネリストがそれぞれ30分ほど講演し、その後に全体で1時間ほど座談。僕は下記のふたつのブログ記事をベースにして、「よく分からないながらも京都会館をめぐる問題について考える」というタイトルで話をした。新旧の建物の比較や保存運動における言葉の在り方について、自分の経験や実感をはみ出さない範囲で具体的に語りつつ、その上で京都会館だけの話に収束させずに、より抽象的なレベルで、今の世の中の問題として議論に繋げたいと思っていた。

11月18日(金)

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地下鉄の銀座線で上野へ行き、《東京文化会館》(設計=前川國男、1961年竣工)に寄ってから東京藝術大学大学美術館「Robert Frank: Books and Films, 1947-2016 in Tokyo」展(〜11/24)へ。ロバート・フランクも観たかったのだけど、明日の「建築論の現在」()のシンポジウムで《京都会館》(設計=前川國男、1960年竣工)について話すつもりなので、一応あらためて《東京文化会館》も観ておこうと思った。

ロバート・フランク展は、Steidlから2000年代以降に出版/再版された初期の写真が通覧できる貴重な機会。5歳年下であるジョン・カサヴェテスの映画との同時代性を感じ、ネットで検索してみたところ、実際に本人同士の接点もあったらしい()。プロジェクターで多数上映されていた動画作品のほうはあまりきちんと観ることができなくて残念だった。

11月14日(月)

たまたま手に取った本に載っていた言葉。最近この日記で書いていたことと通じるかもしれない。

永遠性の根底にあるもの

 おおよそ偉大な思想家は、二つの側面をもっている。彼らはすべて、その思想のうちに「永遠なもの」をもっている。「永遠なもの」は時代を超越し、何千年をへだてて若々しい生命を感じさせる。「永遠なもの」は、常に「現代的なもの」である。

 しかし他面、すべて偉大な思想家は、彼自身が生きた時代を徹底的に生きぬいた人である。何人も時代の子たるをまぬがれることはできない。偉大な思想家といえども、その時代の子たることをまぬがれない。いやかえって、偉大な思想家なるがゆえにこそ、彼らはその時代の子である。偉大な思想家は、彼が生きた時代を代表し、象徴する。このように、偉大な思想家は、「永遠的」であるとともに「時代的」であるという二面をかねそなえている。

 しかもこの二面は、彼らの思想において、併存するのでも、混在するのでも、対立するものでもない。彼らの思想の、この部分は永遠的でこの部分は時代的であると、分かつことができない。分かたれたものは、永遠的でもなく時代的でもなくなってしまう。それはなぜか。彼らの思想における永遠的なものは、まさしく時代的なものに即してあらわれるからである。彼らは時代を逃避して永遠を追いもとめたのではなくて、彼らの生きた時代(彼らにとっての現代)を徹底的に生きぬくことによって、永遠性をかちえたのである。それゆえ、ある思想家について、彼の永遠的なものを見いだすためには、彼がいかなる時代に生き、いかなる現代を生きぬいたかを深く知る必要がある。

  • 山田晶「教父アウグスティヌスと『告白』」(『世界の名著14 アウグスティヌス』山田晶責任編集、中央公論社、1968年)

後半の「分かつことができない」というあたりにとりわけ興味を惹かれる。日記で書いたことと通じるというのは、具体的には下記のふたつのこと。

  • 「坂本先生の作品歴には、各時代に対応した明快な変遷としてのストーリーが見いだせるとともに、それぞれの作品が無時間的に存在しているかのような普遍性・共通性を持っている」(10月17日
  • 「何かが何からしくあることが、そのまま普遍性に通じうる」(11月5日

ただし、前者はともかく、後者のほうはどんな凡人でも普遍性に通じうるという意味合いが強かったので(これは今年読んだ柳宗悦の『美の法門』の主張でもあった)、「偉大な思想家」を強調している引用文とは一緒くたにできないかもしれない。また前者のほうも、そこで想定していたのは坂本先生個人の作品歴のなかでの「時代」だから、引用文における「時代」とはスケールが異なる。

そういえば吉田健一も似たようなことを書いていたのを思いだした。

ヒュウムと違つてモツァルトが音樂史上に占めてゐる位置は今日では先づ動かせないものと見られ、その音樂は時と場所を越えてといふ風に考へられてゐて、それはそれなりに少しも間違つてゐないが、その爲にモツァルトを十八世紀から取り去ることは許されず、十八世紀のヨオロツパといふものを頭に浮べればそこにモツァルトがゐる。これは當然であつて、一人の人間の仕事がその時代を離れては意味をなさなければそれがもともと餘り意味がないものであることが明かであるとともに、それが優れてゐればゐる程それはその時代に密接に繋り、その時代が遠い過去になつてもその餘香のやうなものがその仕事から漂つて來る。

  • 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』新潮社、1970年、p.58

11月12日(土)

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ギャラリー・間「トラフ展 インサイド・アウト」を観た(〜12/11)。トラフらしさに溢れた展示で面白かった。タイトルがなにを意味しているのか最初はよく分からなかったのだけど、観ているうちに赤瀬川原平さんの《宇宙の缶詰》(1964)が思い起こされて、そんな感じの意味なのかなと思った。世界の内と外が(ユーモラスに)反転する《宇宙の缶詰》と似た原理が、展覧会の構成として、より実践的に複雑化して働いているという印象。

展示室は上下階に分かれている。まず下階では、ひとつの大きなテーブルに建築・家具・プロダクトといった様々な作品が、あるものは現物で、あるものは模型で、あるものは部分として所狭しと並べられている。なかにはトラフの作品以外のものも含まれていて、それらのあいだを鉄道模型が走ったりもしている。かたちも色もスケールもバラバラなものが集まり、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさがある反面、全体としては取り留めなさもある。個々の作品とじっくり向き合うのは大変だ。

上階は壁一面に大きく映像が映し出される。たしか始めから終わりまで17分間くらい。それは下階の鉄道模型にカメラを搭載して撮られた映像で、展示台の上を(ところによって下も)ひとつの都市に見立てて走りながら、きっちり制作年代順で視界に入ってくる作品を次々と説明していく。下階で雑然としていた展示物が、ある仮想の都市空間を構成する要素として、また時系列でトラフの作品歴を示すものとして、整理されて見えてくる。

この展覧会は多領域をまたぐトラフの作品を、まず一堂に集められた多種多様な展示物そのものによって示している。そしてその作品群がじつはあるレベルで繋がっていることを、展示の仕方によって示している。そしてその展示の仕方自体がトラフの作品の在り方を象徴している。去年、鈴野さんのレクチャーを聴いた日の日記で、トラフの作品におけるジャンルの掛け合わせが「機能」を媒介にしてなされていると書いた(2015年7月22日)。このトラフ展でも、展覧会としての機能を重視しつつ、その機能を満たそうとする行為のなかで、都市のジオラマ的な模型や映像がユニークに掛け合わされ、複層した世界をつくり出している。

上の写真では、ステッキが同化したようなベンチ〈DŌZO BENCH〉(2016)()の実物が中央に写っている。さらにその下にかたちが異なる把手がふたつ、展示台から伸びている。それを見て「ああこういう作品なんだな」と思う。ところで上階で映像を見て、そのベンチはごくごく小さな模型としても展示されていることに初めて気づく(芝生の上、住宅の模型の壁際)。映像のなかの仮想の都市では、実物のベンチはスケールが大きすぎて認識されず、小さな模型のベンチのほうがむしろリアルな物としてある。その後もう一度下階で展示台を見てみれば、実物であるはずのベンチと把手は、線路を覆う高架やその脇に立つ電柱ないし樹木などとして見えてくる。認識の枠組みがずらされることで、物がもつスケールやディメンションが交錯したり裏返ったりする。そのダイナミズムが、現実の個々の作品の存在も、あるものはより広い世界に、あるものはより身近な世界に位置づけ直していく。

下の写真は〈gold wedding ring〉(2012)()の実物および模型、そしてレールを走る電車。こちらの模型は実物よりも拡大されている。

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11月10日(木)

日本工業大学大学院「建築文化リテラシー」第5回と第6回。1コマ目は前回(10月20日)見学した《宮代町立笠原小学校》(設計=象設計集団、1982年竣工)に関する宿題(批評800字+写真1点)の講評。もうひとつ見学する予定だった建築は、出来たばかりの《すみだ北斎美術館》(設計=妹島和世、2016年竣工)にすることにした。

2コマ目は「建築と写真」の講義。カメラ・オブスクラや西洋の透視図法の歴史にも簡単に触れつつ、空間把握の形式性や、建物と撮影者との呼応関係といったことを軸にいくつかの写真を紹介。言及した人物は、フィリッポ・ブルネレスキ、アンドレアス・ファイニンガー、ウォーカー・エヴァンス、ルイジ・ギッリ、山田脩二、増田彰久、二川幸夫、多木浩二など。以下、今回の宿題。次回は1コマ目でまたその宿題の講評をしつつ、2コマ目で「建築と映画」の講義をする予定。

建築や都市に関連して「時間」をよく表していると思える写真を1点示し、その「時間」とはどのようなものかを文章で説明する。写真は撮影者が自分以外であれば有名無名を問わない。

  • 提出物:写真データ1点(出典明記)+文章400字(±10字以内)
  • 締切:11月17日(木)正午
  • 参考資料:〆篷椣貔インタヴュー「建築をめぐるいくつかの時間」『建築と日常』No.3-4 ▲罐粥次悒痢璽肇=ダム・ド・パリ』(3-1「ノートル=ダム」)

11月07日(月)

なにかを好きでいるということは、それ以外のものに対しての排他性を強めることにもなるだろうか。「好き」という言葉が「嫌い」という言葉と対になっている以上、そういった相対的な評価が発生することは否めない。しかし現実はそれほど単純な対立関係には収まらないと思う。

例えば自分が好きな建築になんらかのモダニズムのエッセンスを見出したとしたら、モダニズムというものを容易には否定できなくなる(別にモダニズムをポストモダンや古典主義に言い換えてもいい)。自分が好きな思想家がデカルトの影響を強く受けていると知ったら、デカルト批判をする人と同調することにためらいが生まれる(これも別にデカルトでなくても誰でもいい)。自分が好きなミュージシャンがテレビを好きでよく見ていると知れば、テレビなんてくだらないものだと一概に軽蔑することはしづらくなる。自分が好きなアメリカ映画や韓国映画やイラン映画があったとしたら、それらの映画が生まれてきたそれぞれの国を簡単に切って捨てるようなことは言えなくなる。

「好き」は「嫌い」を生み出すこともある一方、現実の世界をより細やかに捉えることを促す場合もある。それは現実の世界が様々なものごとの複雑な絡み合いのなかで成立していて、そう簡単に割り切れるものではないからだろう。その複雑な絡み合いの在り方を文化(culture)と言い、自らもその絡み合いのなかに取り込まれて生きていることを教養(culture)と言うのかもしれない。