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『建築と日常』編集者日記

02月11日(土)

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久しぶりにネットオークションで購入。競争相手もなく2500円で落札。『Walker Evans: First and Last』(Harper & Row、1978年)。

ウォーカー・エバンズの写真は、事物を、道具性としての事物、意味としての事物を異形の事物に還元し、われわれにつきつけるなどといった大仰なおしつけがましい身ぶりをもってはいない。ただ日常の事物を一定の距離を置いて静かに見つめ、そのままの形でわれわれに提示する。日常性はただ日常性として切り取られ、それだけのものとして提示される。日常性が日常性として復権を要求する。そのことが逆にわれわれを不安にかり立てるのだ。

  • 中平卓馬「沈黙の中にうずくまる事物──ウォーカー・エバンズにふれて」『アサヒカメラ』1975年7月号(中平卓馬『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』オシリス、2007年)

私はかつて『生きられた家』という本を書いた。それは家が人間にまとまりを与えるものであると同時に、そこに住まう人間の無意識をあらわし、またそれは象徴として人間を世界につなぐ役割をしてきたことに触れつつ、それがいまや喪失しつつあることにも言及したものであった。そのさい私はエヴァンズの室内の写真をよく知っていたが、それには一言も触れないままであった。[…]だがいくつかのエヴァンズの室内の写真は当時の私の関心にぴったりのイメージであることは承知していた。

  • 多木浩二「ウォーカー・エヴァンズと大恐慌時代」『ウォーカー・エヴァンズ アメリカ──大恐慌時代の作品』リブロポート、1994年(多木浩二『写真論集成』岩波現代文庫、2003年)

02月06日(月)

あなたの好きな映画10本を挙げてくださいという原稿依頼を受けた、そんな空想をした。掲載媒体にもよるだろうけど、ある程度融通が利きそうなら僕はすこしルール違反をして、作品10本ではなく監督10人で答えると思う。生年順で言うと、小津安二郎、ロベルト・ロッセリーニ、川島雄三、イングマール・ベルイマン、エリック・ロメール、ジョン・カサヴェテス、オタール・イオセリアーニ、ウディ・アレン、アッバス・キアロスタミ、アキ・カウリスマキ、ホン・サンス、いまおかしんじ……。10人に絞るのは骨が折れるので、実際には原稿依頼が来てから考えたい。

なぜ作品ではなく監督を挙げるかというと、そのほうが選びやすいからだけど、なぜ選びやすいかというと、それは僕が作品を見るときの根本的な態度によるのだと思う。昨日の日記の最後で引用したイオセリアーニの言葉()。ああいう言葉に共感するのなら、選ぶのはやはり物(作品)ではなく人(監督)になるだろう。それは作品を見る態度として専門的ではなく、素人くさいような気もする。しかし仕方ない。去年久しぶりに読んだ富岡多恵子の次の一文にも共感した。

わたしは、ひかえ目になされた行為から、結果として出てくる表現者の「愛」や「教養」や「人柄」や「思想」に出会うのが好きだ。

  • 富岡多恵子「ひかえ目の美学」『写真の時代』毎日新聞社、1979年

実際、上で挙げた監督たちは、基本的に(川島あるいはそれに加えてロッセリーニを除いて)「どの作品も大体同じ」系の監督だと言える。作品歴にわたってテーマや設定が共通している、あるいは似通っている。個々の作品を作るというより前に、人生をかけて一つの大きな作品を作っているという印象を受ける。そうした作家においてどれか1作を選び出すのは、特に今回の依頼のような場合、便宜的・暫定的という以上の意味を持ちにくいと思う。その監督のうちのどれか1作ならまだなんとか選べないこともないとしても、そこで用いた判断基準と、また別の監督の1作を選ぶときの判断基準とは必然的に違ってくるので、「好きな10本」という括りが成り立ちにくい。途方に暮れる。

とは言うものの、もしこれが好きな映画10本ではなく5本や3本や1本という依頼だったら、むしろ監督では選びきれずに、やはりなんらかの作品を挙げることになるかもしれない。それも上で挙げた監督とは違う監督の作品になるかもしれない。

02月05日(日)

皆さま、ごきげんよう

神保町の岩波ホールで、オタール・イオセリアーニ『皆さま、ごきげんよう』(2015)を観た。原題は『Chant d'Hiver(冬の歌)』。以前『映画空間400選』(INAX出版、2011)で同じイオセリアーニの『素敵な歌と舟はゆく』(1999)について下のように書いていたけれど、これは基本的に今回の作品にも当てはまると思う。

ブルジョワの世界と浮浪者の世界、イオセリアーニはヨーロッパの強固な社会階層の境界をラディカルに、しかしこともなげに開放する。[…]各領域を完全に無化するのではなく、あくまでそれぞれの文化性を保ちながら入り混じらせる手つき。その世界は必ずしもユートピアではなく、犯罪も起これば失職もするのだが、そうした現実への達観とも言える眼差しが、むしろその前提であるべき自由への意志を強く感じさせる。

フランス革命が象徴する秩序の崩壊を批判的に捉えるとともに、いつの時代でもどこの国でも起こりうる人間の凄惨な出来事に目を向けつつも、それを相対化しながら日常の豊かさと掛け合わせて、現実的であり理想的でもあるような新しい動的な秩序を映画のなかに見いだしていく。ただし、物語はかつての作品よりもっと断片化され、作品全体の構造を感じさせないまま余韻だけを残す(パンフレットによれば「「映画を作ることは建築と同じで橋を造るようなもの」と語るイオセリアーニ監督は、周到な計算に基づいて映画を作っていく」p.5)。そういう映画はやはり映画館で体験するのがよいと思う。予告編の動画をリンクさせようかと思ったけど、それだと余計に伝わらなそうなのでやめておく。

私が観客と共に作り上げたいのは、称賛ではなく、共に抱ける友情なんだ。映画館を出て、こう言えるような。「楽しかったなあ、もうひとりきりじゃない、お祝いに一杯やるとしよう!」。

  • パンフレットのオタール・イオセリアーニ監督インタビューより、p.16

02月04日(土)

建築家が撮った『世界の有名住宅写真』

横浜ランドマークタワー31階のASJ YOKOHAMA CELLで、トークショー:小川重雄×吉田研介×後藤武「住宅を読む、建築を読む 〜建築家たちがみたもの〜」を聴いた。同じ会場で開催中の「建築家が撮った『世界の有名住宅写真』展」(〜2/7)の一環。建築家が撮影した建築写真というテーマは、まさに刊行間近の『建築のポートレート』と重なる。ゲストであるプロの建築写真家の小川さんが出展作品を褒めるのに対し、ホストである建築家の吉田さんがそれに不満を漏らすという構図が面白い。

鈴木恂さんや齋藤裕さんなど、以前から写真を高度に専門的に撮る建築家はいたけれど、ここ最近、堀部安嗣さんの『堀部安嗣 建築を気持ちで考える』(TOTO出版、2017年)や鈴木了二さんの『ユートピアへのシークエンス──近代建築が予感する11の世界モデル』(LIXIL出版、2017年)でも、自ら撮影した建築の写真が(消極的にではなく積極的に)掲載されているようだし、様々な要因によって世の中で建築写真の形式性が相対化されていくなか、何かそういった流れがあるのだろうか。

02月03日(金)

昨年新設された佐々木泰樹育英会のホームページにて、「平成29年度 建築を専攻する大学院生等を対象とした奨学金希望者の応募案内」が公開されました(募集期間:3月5日〜4月5日)。年額100万円、返済義務のない給付型の奨学金です。

縁あってこの財団の理事を務めていますが、奨学生の選考の際には選考委員の一人として、僕も富永讓さんや大野博史さんたちと審査に当たります。社会的に非常に有意義な試みなので、応募資格に適う志ある学生はぜひ応募してください(ただし、応募者が選考委員の親族や知己である場合、委員会の規定により、その選考委員はその応募者の審査からは外れます)。

なお、この奨学金のひとつの特徴は、建築設計を志望する学生でも、組織設計やゼネコンやハウスメーカーなどへの就職を考えている人には応募資格がないということだと思います。あくまで将来独立して建築をつくっていきたいという人を対象にしています。

02月02日(木)

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『建築のポートレート』(LIXIL出版、2月末発売予定)校了。香山壽夫先生による写真と文。ブックデザインは郡司龍彦さん()。

表紙のデザインについては郡司さんと色々相談し、36編の写真と文の組み合わせで構成されるこの本の在り方を直感的に伝えるためには35ミリのポジフィルムをマウントごと(原寸で)見せるのが有効だという考えに至った。香山先生の本としては、これまで文章がメインのものはたくさんあったけれど、写真が文章と同等かそれ以上に位置づけられるものはなかったので、どちらかというと写真の存在をはっきり印象づける必要があると思われた(書名もそうした意図で決定された)。写真をマウントごと「物」として見せることで、その写真が他でもない著者自身によって撮られたものであることや、写真というものがこの本で重要な意味を持つことが暗示されるのではないかと思う。またマウントに書き込まれた文字や数字は、この写真が撮影されて以降現在に至るまでの、写真と撮影者との関係を想像させると思う。

写っているのは1967年11月撮影のル・トロネ修道院。その後改変されたため、現在のものとはすこしかたちが異なる。以下、カバーから帯を外したバージョン。

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01月30日(月)

夜中にふとネットで財布を購入してしまった。いま使っているのは大学1年の初めに横浜のそごうで買ったもので、それから実に20年が経とうとしていた。この財布については以前にもブログで書いたことがあった(2011年5月4日)。これを買ってから「20年」という響きには驚くべきものがあるけれど、以前ブログで言及してから「6年」という響きにも、僕のなかでは「20年」と同じかひょっとするとそれ以上に驚くべきものがある。

ボロボロになった財布の写真(蓄積された時間の厚み)を撮ってここにアップしようかという気がしたけれど、それはしないことにした。死んだ人の顔の写真を撮影してネットに載せるようなことに対する抵抗とおそらく似ているだろう感情をわずかに抱いた。これは保守の感覚ではないかと思う。

01月22日(日)

宇野重規『保守主義とは何か──反フランス革命から現代日本まで』(中公新書、2016年)を読んだ。保守主義を歴史的に概観した本。政治学者である著者は、あとがきで自らは保守主義ではないと断っているけれど、以下の文にも窺えるように、現在的な問題意識において、ある種の保守主義に可能性を見ている(それは本誌「現在する歴史」特集()のスタンスとも通じる)。

 このように、もし保守主義という場合にバークに言及するならば、少なくとも、(歇蕕垢戮は具体的な制度や慣習であり、△修里茲Δ弊度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、さらに、B臉擇覆里麓由を維持することであり、ぬ閏膕修鯀按鵑砲靴弔帖秩序ある漸進的改革が目指される、ということを踏まえる必要がある。

 逆にいえば、|蠑歸で恣意的な過去のイメージに基づいて、現実の歴史的連続性を無視し、自由のための制度を破壊し、さらにはぬ閏膽腟舛鯀竿歡蠅垢襪覆蕕弌△修譴呂韻辰靴栃歇藜腟舛箸い┐覆い里任△襦少なくともバーク的な意味での[9字傍点]保守主義ではない。(p.13)

 もし真にバークに従うのであれば、多様な制度、慣習、法によって形成されてきた憲法秩序は一朝一夕に成立したものではない以上、イデオロギー的にその全面的な転換を試みることには、あくまで慎重でなければならない。もし、それを変更するとしても、現行秩序に内在する自由の論理を発展させ、漸進的な改革をはかることが優先的な課題となるべきである。

 もちろん、時代ごとの部分的修正は否定されないが、その根本的な精神を変更するような試みは、あくまで保守主義の精神とは正反対のものとして退けられねばならない。このようなバークの教えに適う成熟した保守主義が、はたして日本に存在したことがあるのだろうか。(pp.189-190)

ただ僕自身は、この本で定義されている保守主義(フランス革命以降の政治的態度を伴うもの)よりも、どちらかというとその源泉となるような、もっと日常のレベルで、いつでもどこでも誰にでもありうる保守思想のほうに興味がある。この本に出てくるなかで僕が多少なりとも読んだことのある2人(T・S・エリオットと禿鍔饌検砲砲弔い討竜述をみても、あくまで俯瞰的な視点から歴史上の相対的な位置づけをするという意味合いが主になっていて、それぞれの人物の思想そのものが内側から生きている感じがしない(そのことは単に新書や概説書という本の形式が要請するだけでなく、保守主義ではないと自認する著者の思想にも関係しているのかもしれない)。個人的な読書体験としてはその辺りに物足りなさも感じつつ、しかし知識として得られるものは少なくなかった。本書で言及されていた著作のうち、下記の4冊を区立図書館のホームページで予約した(すべてきちんと読むとは限らない)。

  • エドマンド・バーク『新訳 フランス革命の省察──「保守主義の父」かく語りき』佐藤健志訳、PHP研究所、2011年
  • G・K・チェスタトン『正統とは何か』安西徹雄訳、春秋社、新装版2009年
  • 『深瀬基寛集』第2巻、唐木順三編、筑摩書房、1968年(『共通感覚』1954年)
  • マイケル・オークショット『政治における合理主義』嶋津格ほか訳、勁草書房、1988年

以下メモ。

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01月19日(木)

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日本工業大学大学院「建築文化リテラシー」第13回と第14回。最終回の今日は、冬休み中のふたつの宿題を基にした対話。このブログでもその都度触れていたけれど、結局、授業全体で宿題は以下の6つになった。

  • 1)ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』第5編2「これがあれを滅ぼすだろう」の感想400字
  • 2)《宮代町立笠原小学校》(設計=象設計集団、1982年竣工)の批評800字&写真1点
  • 3)「時間」をよく表していると思える建築や都市の写真を1点示し、その説明を400字
  • 4)映画『怒りの葡萄』(ジョン・フォード監督、1940年)の「家」や「土地」をテーマとした批評400字
  • 5)《すみだ北斎美術館》(設計=妹島和世、2016年竣工)の批評400字&写真1点
  • 6)「自分が好きな建築」について800字

今年度から始まったこの授業では、具体的な知識の習得というよりも、建築や文化をめぐるリテラシーの向上を目的にしていた。「講義・見学」→「作文(宿題)」→「添削」→「議論」という流れは、これまで桑沢デザイン研究所の「建築・都市概論」でもあったけれど、今回はそれをより少人数で密に繰り返したことになる。比喩として言えば、固い土地に鍬を入れ、耕すようなことをしたという印象。種をまいた感じはないし、耕すのもこの授業でしたことで十分だとは思わない。学生たちが自らを耕すことを覚え、今後自分で種をまくか、あるいは風や鳥が種を運んできてくれるような状態にしておくことを期待したい。

授業の後、この授業の実現に尽力してくださった教授の小川次郎さんに授業終了の報告。上の写真は今日の授業の前に撮影したもので、最寄り駅から大学へ続く道の途中でいつも目にする小次郎の家と小次郎(たぶん)。

01月17日(火)

先月(12月17日)、序文だけ読んで言及したスーザン・ソンタグの『この時代に想う──テロへの眼差し』(木幡和枝訳、NTT出版、2002年)を一通り読み通した。以下、メモ。常識と現実の感覚に根ざした執拗な真実への探求と、それを正確な言葉にする意志。それは別に比べなくてもいいかもしれないけど、アーレントやヴェイユの言葉に対する印象と重なってくる。

●ここで再び、若者たちとあなた[大江健三郎]との会話について考えています。理想主義的な主張に呼応しやすい若者たちの素晴らしい感受性を奨励するにしても、それならば同時に、人間の本性に関する、他の言葉に置き換えることのできない認識を指標として、さまざまな原理的なことを検証する必要があることを、彼らに教示してゆかなければならないと思うのですが、いかがでしょう。

 『ヒロシマ・ノート』で、こうお書きになっています。「原爆をある人間たちの都市に投下する、という決心を他の都市の人間たちがおこなう、ということは、まさに異常だ」。

 異論を唱えてもよろしいでしょうか。そこには悪意があるのです。残念ながら、異常なのではなく!(「未来に向けて──往復書簡」pp.141-142)

●あなた[大江健三郎]はおっしゃっています。次の四半世紀に日本に「新しい人」が現われなければならない。自分もそのなかに入るとおっしゃる「古い人」によっては日本の窮境を乗り切ることができないだろうからと。「新しい人」の出現をめぐる数々の予言(チェ・ゲバラの予言がまず思い浮かびますが、この二世紀のあいだに「新しい人」を提唱した人は相当な数になります)はみな、「新」は「旧」の改良だという前提に立っています。敬意をこめて伺います、そんなに確信してかまわないのでしょうか。(「未来に向けて──往復書簡」p.151)

●おおかたの人々が「平和」という言葉で言わんとしていることは、勝利ではないかと思える。自分たちの側[6字傍点]にとっての勝利。だが、ある人々にとっての勝利が「平和」であるなら、その平和は、他の人々[4字傍点]にとっては敗北を意味する。

 原則として平和は望ましいものだが、もし平和維持のために、正当な主張を放棄しなければならないとしたら、しかもそれを放棄することが受け入れがたいことだったとしたら、次にとる道は何だろう。もっともありうるのは、総力戦にいたらない程度の手段で戦争に打って出ることだろう。だが、そうなれば、平和への希求は欺瞞的なものと映るか、さもなくば、さほど切迫した希求としては感受されない。(「エルサレム賞スピーチ」p.199)

●みずからは十分な直接的な知識をもっていない事柄について、意見を公に広めることには、何か卑しさを感じる。自分の知らないこと、あるいは拙速な知識しかもたないことに関して語ることは、コメント屋への堕落だ。(「エルサレム賞スピーチ」p.213)