作家が未発表と決めた作品を作家以外の人が公開するという行為は、作家本人は望まないとしても、それなりに意義のあることだと思う(基本的に作家の死後。著作権の話は別として)。作家本人による評価が必ずしもその作品の価値を的確に捉えているとは限らないという言い方がある一方で、自作に対して、それを発表しないという選択も含めて、必要以上と思えるほど厳しい視線を向けるような作家を僕は信用しているし、その上で未発表になった作品にいわゆる傑作が含まれている可能性はあまり高くないとも思う。ただ、そのことと、その作品が未公開であることとはまた別の話で、たぶんある種の作家の作品には制作の段階ですでに公共性が付与されている。だから、「幻の名作!」などと変に持ち上げたりせず、作品の質をきちんと判断した上でそれを世に出すぶんには、その行為はたいてい許容されて然るべきだろうという気がする(その判断によっては、やはりこの作品は世に出すべきではないという結論に至ることもあるだろう)。
実際、たとえばフィッシュマンズの『8月の現状』(1998)というライブ盤の選曲に関して次のように語られている「DAYDREAM」の演奏を、僕はそれが間違いなく心に響いてくるという確信のもと、ぜひ聴きたいと思うし、

●「デイドリーム」は最初に除外したって聞いたんですけど、それはどうしてだったんですか?
S:てゆーかね、なかったんだよね、入れるに耐え得るのが。
●そうかなー。昨年末のリキッドなんて大感動だったけどなー。あれもダメでしたか。
S:僕もやってる時は大感動だったんですよ。でも、いざ聴いてみたら、あまりにも良くなくて、オレもそれはすごい残念でしたけどね。「デイドリーム」に関しては。
───S=佐藤伸治、●=三田格、『ele-king』vol.20、1998(所収:『フィッシュマンズ全書』小野島大編、小学館、2006、p.280)

なにより佐藤伸治の死によって結果的に最後のライブになった『98.12.28 男達の別れ』(1999)は、佐藤の生前にCD化の予定があったのかどうか知らないけど、その音源が僕の手元にも届き、それを日々聴くことができるというのは、僕の人生にとって大きなことだ。