「天才」という概念にあまり実感がない。僕がなんらかの作品をよいなと思うときの価値判断の背景には「共感」がある気がする。どこかしら共有する部分がなければそもそも作品を感受できないということも原理的には言えるだろうけど、たぶんそれとは次元の違う話で、無意識的にせよ共感するものと共感しないものがあるという、相対的な次元のなかでの共感ということだと思う。そして鑑賞体験に共感を介在させるということは、同時にその作品をメディアとし、そこに人を見ているということかもしれない。そうした見方はどこか素人っぽく、また独善的・排他的になりやすい気もしているけれど、目を肥やすという以外に自分ではどうしようもない(べつに大した努力もしていないが)。「天才」が超越的で、絶対的で、凡才と隔てられるからこそすごいという定義ならば、その同じ理由で、天才と呼ばれる人をすごいと実感できない。というか、僕が共感する作者が誰かに天才と言われているのを聞くと、全否定というほどではないにしても、いまひとつぴんとこない。というよりも、それを言う人はなんらかの感覚を遮断させているのではないかと思ってしまう。