昨日書いたqpさんの写真と絵画での作品のあり方の違いを比べると、写真の統一性や秩序感に対して、絵画の非完結性や偶然性のほうが現代的に聞こえるかもしれない。ただ、実際にそれぞれの作品を観ると、別に前者がダメで後者がよいということは言えない。

私が考えてみようと思いついた最初の思索の一つは、多くの部分から構成され、さまざまな親方の手になる作品は、たいていの場合、ただ一人が作った作品ほどには完成度が高くないということであった。たとえば、よく見かけるように、ただ一人の建築家が設計し完成させた建物は、もともと別の目的のために建てられた古い壁を使うなどして、多くの人が修復しようとした建物よりも、より美しく、より整っているのがつねである。
───ルネ・デカルト方法序説山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2010(原著1637)、pp.29-30

建築と絵画や写真とはまた違うだろうけど、さすがにこのデカルトの言い方は古臭く感じられる。塚本先生はこのような作品の自律性について、坂本先生との対談「〈建てること〉の射程」で次のように言っていた。

私が坂本研にいたときには、「我思う、故に我あり」という近代の自我の考え方がそのまま転写されたような建築の自律性の議論を、篠原先生の建築やフォルマリズムを通して批判的に学んでいた。(『建築と日常』No.2、p.84)
坂本先生は建築の自律性を批判的に乗り越えるために、〈環境としての建築〉ということを仰ったと思うのですが、そのために自律性という言葉は一時期坂本研では否定的なニュアンスを持っていて、積極的に使えなかった。(p.85)

ただ、確かに篠原一男の建築に対して坂本先生の建築が自律的でない、他律的・環境的であるということは言えると思うのだけど、坂本先生の下記のような態度は、デカルト的な認識に通じるところがある気がする。つまり、作品における他律性を獲得するために、思考は自律的である必要があるということだろうか。

多木──私たち人文科学の人間は、最大限、人の精神に働きかけるくらいしかできない。しかも私がよく使う言葉で言うと、現代社会は「ほとんどゼロの上に成り立っている」んです。ゼロの上でゲームをやる。そのゲームというのは、絶対にわからないものを組み込んだゲーム、それが真理を探すことです。それを言説化することがゲームだという考え方です。そういう立場から見ると、僕は坂本さんにひとつだけアドバイスをするとすれば、構成の構造にわからないXを挿入したらいい。自分にはまだわからないものを入れちゃったほうがいい。[中略]
坂本──構想をどう実現するかが私にとっての最大限につくることです。たとえば、いけるとかいけないというのは、自分が構想できなかったことの発見ではなく、まだないけれども、自分では構想できている。そういうものを実現することかもしれません。[中略]
多木──それは実を言うと、建築家の中では珍しいことなんです。言い方は悪いかもしれないけれども、すぐれた建築家の中では珍しいことです。というのは、篠原一男は何もわからないではじめる人です。あの「百年記念館」は、ほんの最初のスケッチのころから知っていますが、なんにもわからないでやっているうちに、だんだんできてきちゃう。できてきたら、もう初めからあったような顔をしているけれども(笑)。彼はそういう人です。ただ、その目標が社会でも都市でもないから、結局ひとつのものの力の表現だけになってしまうから限界が見えてきてしまう。
───坂本一成多木浩二『対話・建築の思考』住まいの図書館出版局、1996、pp.213-214