もうひとつ、プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日新聞社、2000)から。プロ/アマ(専門性/日常性)の問題をめぐって。

私は仲間の何人かが見せる奇妙な現象にしばしば気がついた(時には私自身もそうなった)。「良い仕事をする」という熱望は非常に深く心に根づいているので、自分の家族や味方の害になる敵の仕事さえも、「良くやってしまう」ように突き動かされるのだった。それを「まずく」するためには、自覚して努力する必要があった。ナチの仕事をサボタージュするには、それは危険なことである以外に、祖先伝来の心の内部の抵抗を克服する必要があった。『アウシュヴィッツは終わらない』や『リリス』で書いたのだが、私の命を救ってくれたフォッサーノの煉瓦積み工は、ドイツ、ドイツ人、その食物、その話し方、その戦争を嫌っていた。しかし爆撃の防御壁を建てさせられた時、彼は、煉瓦をしっかりと組み合わせ、必要なしっくいをすべて使って、それをまっすぐに、堅固に建てた。それは命令に敬意を表したためではなく、職業的な自尊心からだった。(p.140)

この文章には、このまえ日記に書いたような(5月21日23日)、自身の職業的行為を無条件で人生の前提にしているという意味での「専門家」の姿が見て取れる。どちらの場合も、その自身の行為が世界のなかでどう位置づけられるのかについてのまなざしが欠けている。しかし、両者には決定的な違いもある。それは当然ながら、その人のいる場所が強制収容所かどうかということだ。レーヴィは、自分の家族や味方の害になる仕事を「まずく」することの必要は指摘していても、それを「良くやってしまう」ことを完全に否定しきってはいない。なぜなら収容所内の極限状態においては「いつもの仕事をすることによって、同時に、ある程度、人間的な尊厳を回復することができた」から(p.139)。つまり、僕が批判的に書いていた「専門性」は、日常において「日常性」を排除するようなものだったけれど、ここでの「専門性」は、むしろ非日常において「日常性」を獲得するためのものだと言える。そこでは文字通り、それを人生の前提にせざるをえなかった。