やや出遅れつつも、雑誌や新聞などいくつかのメディアに向けて『窓の観察』を送ってみた。僕も雑誌の編集部にいたことがあるから分かるけど、こういうのはその組織内で誰が封を切って中身を確認するかで決まってしまうところがあるし、もともと売り込みは得意ではないから、これまでの号ではあまり積極的にしてこなかった。ただ、今回の別冊は読者に対しての間口を広げているので、多少なりとも自信と期待を持って送り出すことができる。そして単にこの雑誌のためというだけでなく、なるべく雑誌を多くの人の目に触れるようにしてqpさんの作品を世に知らしめたい、という気持ちも引っ込み思案な自分を後押ししている。そうしないと「トップランナー3人が窓をめぐり奇跡のコラボレーション!」という宣伝文句が事実無根の誇大広告になってしまいかねない。
qpさんもあまり売り込みが得意そうな人には見えないけど、会って話をすると、自作について割と自画自賛をする。普通の人ならば謙遜するようなところで、「え?」と思うようなことを言う。ただ、自画自賛もするけれど、自分でよくないと思う作品については、こちらが理屈を付けておだてても、ひどい言い様をする。それはつまり、作品を評価するときに自然と「自分」を外しているということで、そういう人は信用できる。
以前、長いこと多木浩二さんの担当をしていたという編集者にお話を聞く機会があって、その方が「多木先生は新しくできた本を持っていっても、他の多くの著者のようには喜ばない」と言われていた。またこんな本を書いてしまったという感じで、徐々に不機嫌にさえなってくるのだという。それを聞いて僕も自分が知っている著者のなかでひとり、まさにそういうタイプの人の顔が浮かんだけれど、それはともかく、たとえば多木さんも、初版が絶版になってずいぶん経ってから復刊された文庫本のあとがきなどを読むと、自画自賛とは言わないまでも、その本の重要性を当たり前のように認識しているという態度が窺える。
そういえば昔、『ザ・藤森照信』(エクスナレッジ、2006)というムックを編集したとき、藤森さんに卒論(山添喜三郎伝)の転載をお願いしたことがあった。ふたつ返事で快諾してくださったのだけど、そのときの藤森さんの態度が印象的で記憶に残っている。学生時代(23歳)の拙い論文だと卑下することもなく、逆に学生時代にこれだけのものが書けていたと鼻にかけるわけでも勿論なく、きわめて客観的に、「山添についてはその後もほとんど言及されていないから出しておいたほうがいいですよ」と仰ったのだった。