石川直樹『いま生きているという冒険』(理論社、2006)を読んだ。中学生以上のヤングアダルトに向けた「よりみちパン!セ」シリーズの1冊で、その主旨にも合ったすがすがしい本。構成は、1章「インド一人旅」2章「アラスカの山と川」3章「北極から南極へ」4章「七大陸最高峰とチョモランマ」5章「ミクロネシアに伝わる星の航海術」6章「熱気球太平洋横断」7章「想像力の旅」。刊行時、著者28歳。冒険家の優越感を感じさせない衒いのない文章で、そこで書かれているような世界があることを実感したし、旅を追体験した気にもなった。

次に踏み出す足の置き方を間違えたら、危険にさらされてしまうような場所がいくつも出てきますが、ぼくはそういう所にいるときになぜか心の底から幸せを感じるのです。「何だかすごい場所にいる」という気持ちが湧き上がってきて、自分が“生きている”と感じるのです。その瞬間、嬉しくなり、気持ちよくなります。「生きている実感」なんていったら陳腐に聞こえるかもしれませんが、このような喜びを感じる瞬間は、ぼくの場合、日常生活では得ることができません。(p.163)

石川さん(一度お目にかかったことがある)の活動は、たぶん現代社会における知性や科学の偏重を批判するものとしても位置づけられるだろうけど、その一方、上の引用文で書かれているような高揚というのは、そうした知性や科学の偏重の根っこにもあるというか、じつは両者は表裏一体でもあるように思える。単なる日常生活での必要という以上にそのような高揚があったからこそ、人類はさまざまな空間的・技術的開発を進めてきたに違いない。「NASAが撮影した月面の写真や宇宙から見た地球の写真を見たときに、自分もその場所に立ってみたいと強く思いました」(p.255)というあたりの石川さんの言葉には、両者の結びつきを見てとることができるかもしれない(ハンナ・アーレントは『人間の条件』のプロローグで、思考が欠如した宇宙開発を時代の象徴として取り上げ、批判している)。おそらく冒険家と言われる人たちは、多かれ少なかれ開発者としての側面を持っている。
ただ、石川さんは自分のことを冒険家ではないと言っている。

 現実に何を体験するか、どこに行くかということはさして重要なことではないのです。心を揺さぶる何かに向かいあっているか、ということがもっとも大切なことだとぼくは思います。だから、人によっては、あえていまここにある現実に踏みとどまりながら大きな旅に出る人もいるでしょうし、ここではない別の場所に身を投げ出すことによってはじめて旅の実感を得る人もいるでしょう。
 ぼくが冒険家という肩書きに違和感を抱く理由がわかっていただけたでしょうか。いま生きているという冒険をおこなっている多くの人々を前にしながら、登山や川下りや航海をしただけで、「すごい冒険だ」などとは到底思えないのです。(pp.254-255)

こういった物言い自体、いかにも冒険家らしいとも思ってしまうのだけど、しかし石川さんの言葉は信頼できる。石川直樹×服部文祥「いま未知はどこにあるのか──身体を駆使すること、記録すること」(『ユリイカ』2011年1月臨時増刊号)や、石川直樹×岡田利規×坂口恭平「いま始まる生存と創造」(『新潮』2011年9月号)などを読んでも、自分の行動の意味を社会的・倫理的な意識のなかできちんと位置づけられている人なのだと思う。
石川さんはこの本で「日常」という言葉を平凡で退屈なものとして使っているけれど、実際に文章を通して読むと、非日常としての旅の記述もじつは日常の感覚に基づいている、あるいは非日常としての旅の体験を日常の実感に丁寧に定着させようとしている、そう思える。以前、ある種の専門性は日常性を排除するということを書いたけれど(6月11日)、その意味でも石川さんは冒険の専門家とは違うと言えるかもしれない。

 ぼくはシロクマと向かい合った瞬間のびりびりするような緊張感が忘れられません。いま見ている世界が、世界のすべてではないということを思い出させてくれるこのような瞬間を一つ一つ蓄積していったとき、人はどんなところにいても“世界”を感じることができるようになるでしょう。そうすれば平凡な日常生活のあいまのふとした瞬間に、別の時間をのぞき込むことができるようになります。(pp.117-118)

 毎日のように夜空を眺め、砂浜を駆け抜けているうちに、自分の中の時間の流れが少しずつ変化していきました。身体の片隅に残った島の時間は、日本に帰ってまた慌ただしい生活にもどっても、自分にとって何よりも大切にすべき感覚の一つです。今この瞬間に、ある異なる時間の流れを生きる人たちがいる。そのことだけで、ぼくの心はなんだかふっと軽くなるのです。(p.212)

いま生きているという冒険 (よりみちパン!セ)

いま生きているという冒険 (よりみちパン!セ)