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『建築と日常』編集者日記

04月20日(土)

昨年の『窓の観察』のイベント「〈つくる〉と〈生きる〉の関係」と同様、今回の「建築批評の内と外」もダイジェスト版のイベント動画を制作する予定です。あれから5ヶ月、映画番長(降矢聡)&シネマコップ(久保田誠)再び…

動画はまたYouTubeでの公開を想定していますが、今回も、動画を公開したからといって、実際にイベントに参加した人が理不尽に感じることはないだろうと信じています。なぜなら会場である《代田の町家》の空間は、実際にその場を訪れてこそ体験できるものだからです。

しかし一方で、坂本一成さんはかつて、建築など実際に訪れなくても図面を見れば十分だと言った建築家でした。

いつもそうなのだが、──私が設計し、実施され竣工した建物でもそうだったが──ひとつの建物を設計し、すべての計画が終了すると、その建物をつくるすべての行為が終ったように思われ、それが実施され、完成することはどうでもよくなってしまう。[…]私は住宅をはじめ多くの建築を実際に見る機会があると、それが設計者の意図の結果というより抜け殻を見ている気がすることがある。そのとき、とにかくその建物の設計図面を見たいと願う。そしてその設計図面の方に多くのリアリティを感じる場合がある。

───坂本一成「建築での〈構造性〉と〈表現性〉」『住宅第10集』別冊・都市住宅1975夏

こうした「ライブ感」への批判的意識は坂本さんの建築にも通底するところであり、多木さんも《代田の町家》論で指摘したことです。

この部屋のなかでわれわれが動いてもそれにつれて空間がざわめいたり、流れだしたりしないのである。またどの部屋に入っても、息をのむような感動をうけるとか、感覚的世界にまきこまれるようなことはない。床、壁、天井にかこまれ、限定されただけの空間なのである。かれはヴィジブルな経験にあらわれるものより、より客観的なものを求めているように思える。「客観的」といういい方はあまり正確ではないかもしれないが、とにかく、空虚な部分よりも、それを限定する床、壁、天井の方がはるかに強い性格をもっている。

───多木浩二「『形式』の概念──建築と意味の問題」『新建築』1976年11月号

この建築のあり方は前回の《蟻鱒鳶ル》とは対照的です。なにしろ《蟻鱒鳶ル》は坂本さんが見たいと願う設計図面がありません。確固たる全体像を持たずに部分の集積によって即興的につくられる《蟻鱒鳶ル》と異なり、部分と全体の関係、全体のなかでの部分同士の関係が建築家の理念によって厳密に構成された《代田の町家》の、その全体性・構造性をどう撮れるのか。奇しくも映画番長の名付け親であり先生である鈴木了二さんは、新刊で次のように書かれています。

建築の全体を捉えるなどということはまず不可能だ。建物を隅々まで案内され、空間という空間、部屋という部屋を長時間じっくり見たからといって、その建物の全体を掴まえたとは到底言えない。[…]ここはむしろ開き直って、ほとんど見えないものが建築であり、われわれが目にするのは海面上に現れた氷山のようにそのほんの一角に過ぎないと言ったほうが正確なのである。ということは建築とは、ごく一部の記憶によって全体の印象が決定づけられてしまうものだ、とも言える。実際に、たまたま通りかかってなにげなく脚を踏み入れたときに感じた一瞬の記憶や、長い生活のなかで無意識のうちに身体に刻まれた建物のどこか片隅の記憶が、建築全体の印象を強く決定づけていることは誰もが経験することだろう。建物の一部分が全体を決定する、それが建築本来の経験のあり方だ。

───鈴木了二「建築映画とはなにか」『建築映画 マテリアル・サスペンス』LIXIL出版、2013

ここからさらに鈴木さんは図面によって形成される全体性の認識を批判します。その批判は必ずしも坂本さんの建築に当てはまるものではありませんが、鈴木了二が「物質」とするなら坂本一成は「関係」であり、両氏は対照的な建築家だと言えるのでしょう。そう映画番長に話すと、彼は「なるほど。そういう風に捉えると面白く考えられそうです。」と自信をもって答えました。映画番長&シネマコップの真価が問われます。