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『建築と日常』編集者日記

06月05日(水)

このまえ大辻誠子さんがFAXで送ってくださった毎日新聞の書評(5月19日)、(敏)という署名の評者はやはり堀江敏幸先生だった。たまたま大辻さんも堀江先生も『建築と日常』No.1()でご協力いただいている。「販促にでも何にでも、使ってください」とのことだったので、お言葉に甘えて、図書館でコピーした紙面をあらためて転載させていただくことにする。

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ふと思い立ち、堀江先生と佐々木敦さんとの対談「未知の固有名が輝くとき──『批評時空間』をめぐって」(『新潮』2013年3月号)を読み返してみたところ、自分のなかでいろいろと響いてくるものがあった。連載批評をまとめた佐々木さんの新刊をめぐる対談。

文学の仕事はもちろん好きでやってるんですけど、佐々木さんや僕が言葉で捕らえようとしている対象は、結局、なにかもっと大きな枠の中にすべて入ってしまうと思いませんか? 「なぜジャンルを分けなければならないのか」という疑問を常に抱えながら書いている。つまり、心に引っかかることが先決で、映画でも音楽でも、落語でも絵画でも、あるいは写真でも、ジャンルはあとから意識される。(堀江)

これは僕が『多木浩二と建築』の巻頭言(→PDF)の最初に書いたことと重なるだろうし、堀江先生が書評の前半で多木さんについて書いてくださったことに通じる。また、その後の堀江先生自身の創作活動に関する発言──「設計図を引くことで生じる違和感と、つねに戦いながら書いてるんです」(書き出す前は、主題も連載期間も決めていませんでしたし)は、書評の後半、多木さんのことを「理論を先に置かず、過程のなかで思考を研ぎ澄ませる批評家」とした指摘に通じる。

つまり、こういう言い方はたいへん僭越だけれども、堀江先生は堀江先生で、単にかつての教え子から(いくぶん感傷を誘う手紙とともに)新刊が届いたから、その販売の足しになるように宣伝文を書いた、というだけでなく、それなりにご自身の活動にも根ざして『多木浩二と建築』の書評を書く必然性があった、と僕には思えて安心する。

また、以下の発言で言われているようなことは、今あらためて振り返ってみて(昨日の日記で触れた、編集後記のような覚え書きやメールインタヴューなども経て)、『多木浩二と建築』で僕が目指していたことだったのではないかと思えてならない。

大切なことは、扱っている作品や作家の名を知らない読者に対しても、面白く読ませるリズムです。読み手にとって未知の固有名を、どのように輝かせるか。あるいはいかに貶めてそれをすくい上げるか。愛する固有名のまわりを言葉で回ってるときの「運動」が僕にとっては大事で[…](堀江)

僕は作品と遭遇したときに、自分と作品のあいだで起きた「何か」を他者に伝えるために言葉にするという、その一連の作業が批評だと考えています。(佐々木)

書き手が「何か」を言葉によってかたちにすることで、作品もしくは作り手との対話を通じて生まれた仮想領域は、ものすごく大事なものなんです、書き手と作品の双方にとってね。それは、両者が離れたら、一瞬にして消えてしまうものかもしれない。だけどそのような仮想空間を作り上げたという感触は、きっと読んだ人に残ると思うんです。(堀江)

作品のある部分だけを抜き出してその正しさを語るのではなく、そして他人の判断を停止させるのでもなく、自分勝手に物を言いながらも、しかしそれが独りよがりではないかたちで、作品との関係を活性化させていく契機となる矢が放てるのは、やっぱり言葉で書かれたものだという気がしますね。(堀江)