東京ステーションギャラリー「生誕100年! 植田正治のつくりかた」展を観た(〜1/5)。植田正治(1913-2000)は、砂丘の写真こそよく目にするものの、知っているようで知らない写真家だった。よく言われるアマチュアリズムよりもフォルマリズムが強いような印象をもっていたけれど、最初の写真集『童暦』(中央公論社、1971)などの砂丘以外の写真も含めて、生き生きとした楽しさや瑞々しさを湛えている。かなりよいものだと思った。
観ていてなんとなく小津安二郎(1903-1963)の作品を思い出したのは、単純に時代や撮られた人々の属性が重なっているだけでなく、人間に対するまなざしが似ていることもあるのではないだろうか。どちらも子どもや市井の人々を多く撮りながら、ストレートなヒューマニズムではない。『建築と日常』No.1の映画紹介で、小津の『お早よう』(1959)について下のように書いたけれど、この形式性のあり方は、そのままではないにせよ、植田正治の写真にも通じる気がする。

切妻・平屋の木造家屋が建ち並ぶ新興住宅地を主な舞台に、数世帯の人間関係・家族関係がユーモラスに描かれる。各住戸の領域を往来するテンポが小気味いい。勝手口がガラッと開き、近所のおばさんが顔を出す。「ごめんください」はその後に言われるものだった。小津映画の特徴である会話の「無意味」な反復や、形式的な人間像・空間像は、個々の生の束縛にならない。むしろ人間の存在を支える豊かな枠組みとして機能している。

展覧会では写真とともに植田の文章の抜粋がところどころで掲示されていて、そのなかで〈演出〉の手法について語った言葉があった。写真を(リアリズムでなく)演出する場合、演出したことを隠す方向と見せる方向のふたつがあり、自分のやり方は後者であるというような内容だったと思う。おそらくそのときの〈演出〉とは、現実(例えば被写体である人物)に対してなんらかの形式を与えることであって、その形式からの現実のズレが、写真に生き生きとした印象をもたらすのだろう。〈演出〉を隠す方向と見せる方向で、どちらが優れているとは言えないし、実際には人それぞれ状況に応じてという感じなのだろうけど、たぶんアマチュアリズムなるものにとっては、〈演出〉を隠す方向で精度を上げていくよりも、あえて見せる方向で、現実とのズレを積極的に生かしていくほうが有効であるように思う*1
このことは、このまえ書いた(12月27日)qpさんの『私たちは透明になる』と25人のポートレイトの対比にも当てはめて考えられるかもしれない。25人のポートレイトもやはりリアリズムではなくqpさんの色濃い世界観の枠組み(形式/演出)があり、その枠組みとそれぞれの人の現実とのズレが、人間の真相をうかがわせた。一方、『私たちは透明になる』ではより明白に演出があるけれど、その演出を透明なものとしてナチュラルに見せようとしたことで、写された人自身の現実がそれに覆われてしまった、のではないか。
最近、出版その他のいろんなことに対して、アマチュアリズムを基点にして考えることが多くなっているけれど、芸術表現の分野でいうと、写真というジャンルはとりわけアマチュアリズムが興味深いあり方を示すのかもしれない。絵画でも音楽でも、他のもっと基礎的な技術が必要とされる分野では、アマチュアリズムは単なる下手さや洗練のなさになってしまいがちのような気がする。しかし写真はもっと評価軸が多様で、いわゆる作品だけに閉じていないし、現実や日常との関係のとり方によって飛躍する可能性がより高いと言えるのではないだろうか。
植田正治については、ちょうどいま、アマチュアリズムを接点とする「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」展が東京都写真美術館で開催されていて(〜1/26)、こちらもぜひ観に行きたい。ラルティーグのことは大辻清司の『写真ノート』(美術出版社、1989)で初めて知って、興味をもっていた。写美では4年くらい前に木村伊兵衛アンリ・カルティエ=ブレッソンを組み合わせた企画展があったけど、その対比ともどこか重なるところがあるのかなと思っている。

*1:そういうことを考えると、たとえばカサヴェテスやキアロスタミが素人の役者を使う場合の、それぞれの役者の人生までもが役柄に上乗せされる感じはどう捉えられるだろうか? 彼らは決してフォルマリストではない。