ギヨーム・ブラック『遭難者』(2009)『女っ気なし』(2011)を下高井戸シネマで観た。短編〜中編の二本立て。何ヶ月か前、『女っ気なし』が日本で封切られたときに気になってはいたのだけど、けっきょく観に行かずじまいだった。ロメール的、ロメールが好きな人なら好き、そんな評判を聞いて気になっていた。
観て、面白い映画だったとは思うけれど、ロメールの映画との関連でいうと差異もそれなりに大きい気がする。たしかに夏の海辺のバカンスや恋心、さえない男や人間の卑小さなどの設定は共通するものの、ロメールの映画に比べて『女っ気なし』は、非モテ系・童貞系ともいうべき要素にフォーカスが絞られ、それがテーマ化しているように見える。ロメールの場合はもっとパンフォーカスというか、もちろんそういうことも描いてはいるのだけど、一定の客観性のなかで捉えられている*1。これはホン・サンスの映画も同様で、この客観性は、ホン・サンスが「私には、セザンヌの立ち位置、具象性と抽象性のバランスがぴったりくるんです」(2013年5月31日)と言うときの抽象性に通じるだろう。そしてこういった客観性や抽象性が、むしろ非モテ系・童貞系の存在を(それをテーマ化するよりも/それ以外の存在と同様に)肯定しているように思える。
とはいえ、ギヨーム・ブラックとロメールの映画に類似があるのも確かだと思う。nobodyによるインタヴューでは、ホン・サンスとともにロメールの名前が挙がっていた。ここで語られている話は、単に映画の製作形態のことだけでなく、それぞれの作品と日常性との関係のあり方にも繋がっているのではないかという気がする。

ただ、映画のどこにどれだけのお金が掛かるのかを知っていることは、やはりとても大切で、それを知っていることは映画製作をしていくうえでとても有利なことだと思っています。自分の映画をつくるために何年も待たされている映画監督たちはたくさんいますからね。たとえば、そのことを良く理解していたのがエリック・ロメールでした。彼は自身の製作会社を立ち上げて、低予算で定期的に自分の作品をつくっていました。ホン・サンスもそうです。
───ギヨーム・ブラック インタヴュー「ヴァカンスに行く、映画を見る。」取材・構成=高木佑介、増田景子 http://www.nobodymag.com/interview/guillaumebrac/index.php

*1:例えば土曜に観た『アメリカン・スリープオーバー』でも非モテ系・童貞系の要素は大いに描かれているけれど、『アメリカン・スリープオーバー』の場合は青春学園モノという時点でそういった要素がでてくることはほとんど必然であり、『女っ気なし』ほどそこが特にテーマ化されているという印象はない。