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『建築と日常』編集者日記

07月05日(土)

まえに参加者の募集もした(6月20日)建築講座のテスト回が無事終了。下の引用文は、カーンの〈ビギニングス〉の概念を説明するときに参照した学校の話だけど、考えてみると今回のこの講座自体が、そこで書かれているような原初的な空間に近いかもしれない。僕は〈ビギニングス〉を歴史的な文脈で説明しつつ、実例として《インド経営大学》(1962-74)を引き合いに出したのだけど、実際に自分ではその建築を訪れたことがなく、でも受講者のなかに何人か行った人がいて、今度はその人たちが自分の経験や認識を語り始めるというような。

※上は本の著者のアレクサンドラ・ティン(カーンの娘)の文章。下がカーン本人の言葉。

●1960年に彼[カーン]は、学校なるインスティチューションは、自らの認識を木の下で他の人と議論するひとりの男から始まったと述べた。その時教えることと学ぶことは、無意識的な同時的な行為だったのである。今日存在している学校は、そうした最初の学校を契機付けていた真摯で積極的な交流からはかけ離れてしまっているがゆえに、その機能を適切に果たしえていないとカーンは指摘した。(p.84)

●学校とは何か? それは、自分が学生であることを知らない1人の学生に向って語りかける、1本の樹の下に坐った1人の男であった。それはただ単に、自分に起こったことを、1つのリアライゼーションとして語りかけることであった。もちろんやがて、そうしたことへの要求が出てきた。[…]他の人々が教師の役を引き受けた。すぐさま教師の回りに規則が作られ、そしてすぐさまその集団は今日の我々の制度に発展したが、それはもはや、1本の樹木の下で数人の人達に話しかけたあの男から生まれた、あの存在の意志とは、まったく似ても似つかぬものだ。(p.116)

───アレクサンドラ・ティン『ビギニングス──ルイス・カーンの人と建築』香山寿夫・小林克弘訳、丸善、1986(原著1984)

カーンの〈ビギニングス〉は、デカルト的な「既存の認識を疑い、一から自分で考える」という思考と、自らも歴史的な存在として過去と共にあるという思考とが共存しているように思う。ともあれ今回のテストを踏まえて、今後の講座のあり方を考えなければいけない。