『建築と日常』建築講座2014の第4回が終了。今日は市原湖畔美術館原広司さんの展覧会のオープニングだったらしく、講義に参加する予定だった人ふたりがそちらへと流れていった。こちらは今回のテーマであるモダニズムに関連して、原さんの均質空間論(均質空間批判)と集落調査を取り上げた。「住居の形式と住居の集合の配列から、集落形態ないしは集落形式をとらえようとする」(原広司『集落への旅』岩波新書、1987、p.8)その集落調査は、あくまで均質空間を前提にした抽象化・構造化の手法を用いている、その意味でモダニズムを外側から批判するものではないという話。それはなにも方法と目的の矛盾を批判するつもりではなくて、原さん自身も自覚的に次のように書かれている。

したがって、均質空間は、私たちがデカルト座標を日常的に使うように意識の中に浸透しており、近代以前の「求心的空間」がそうであったように、不可避的な空間概念として思考の基準としてある。仮に、いかなる空間を想定したとしても、均質空間との対比としてのみそれは記述可能となる。

このことは、今回の予習テキストに挙げていた槇文彦さんの「漂うモダニズム」(『新建築』2012年9月号/『漂うモダニズム』左右社、2013)にも通じていると思う。槇さんのテキストでは、建築の空間化の過程において、「普遍的な人間像」と「その建築が成立した時代・地域・場所に存在する特殊な人間」の両方を想定する必要があると述べられており(新ヒューマニズムと新リージョナリズムの可能性)、これはどちらかといえば「普遍的な人間像」を重視したモダニズムを批判する見解であると同時に、総体としては自分自身も曖昧模糊とした「漂うモダニズム」の中にいるという認識が示されている。要するに時代や思想は単純に一元化して対象化できないということ。

次回予告
第5回/10月18日(土)/日本建築の空間と表象

  • 議論のトピック:間
  • 予習テキスト:木村敏「環境とあいだ」(『環境の解釈学──建築から風景へ』田路貴浩編、学芸出版社、2003)

『建築と日常』建築講座2014 http://kentikutonitijou.web.fc2.com/lecture/lecture2014.html

いよいよ次が最終回。木村敏さんの「あいだ」も、モダニズムの均質空間を批判/相対化する概念だろう。「環境とあいだ」というテキスト(講演録)自体は、日本建築と直接的に関わるものではないけれど、だからこそ日常の地平から問題にアプローチしやすいのではないかと思う。このまえ行った国立能楽堂9月19日)の建築も「間」がキーワードになっていた。

建築というのは、先に述べたように、単なるエレメントの構成とか、コントラストといったことだけで成り立つものではない。むしろ全く縁のないフラグメントであっても、そこに「間」をとる手法が介在することによって充実した建築空間が成り立つのである。

  • 大江宏「手法としての「間」」『KAWASHIMA』1985年6月号(所収:大江宏『建築作法──混在併存の思想から』思潮社、1989)