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『建築と日常』編集者日記

11月04日(水)

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号外『日本の建築批評がどう語られてきたか』を刊行して今日で2年。忘れた頃に読んでみると、あらためて色々と刺激されるところがある。と同時に、なぜこれだけの作業を集中的に行なったのか、自分でもよく分からない。現実逃避だったという気もする。

振り返ってみて、やはりこの号外は媒体の形式と値付けとの関係が難しかったなと思う。A2判1枚(両面)で500円(税別)という価格は決して安いとは思われないだろう。しかし実際に本紙を手に取ってみた人からは、高いという意見は聞かれなかった。買う買わないは別にして、おそらく倍の1000円でも、それほど高いという印象は与えないのではないかと思う。しかしまた翻ってみて、A2判1枚で1000円というのは、そのことだけを見ればあまりにも高い。同じサイズのフリーペーパーなどいくらでも配られている。一方で、このA2判1枚が写真のポスターだったりすると、内容にもよるだろうけど、1000円ではむしろ安いという印象も生まれてくる。『建築と日常』の号外のほうがよほど手間と力がかけられていたとしても。──このあたりにこの号外の形式としての難しさがあった。そしてそれは、なぜこんなものを作ったのかという話にも繋がってくる。

以前にも号外の年表から抜粋の抜粋をしたことがあったけれど(抜粋1抜粋2)、2年経ってまたいくつか載せてみることにする。

●渡邊仁「建築は元来絵画彫刻と異り注文者あつての建築で、建築家が自力で建てるものではありません、社会的にも其他にもいろいろ複雑な関係があります。ですから批評は御自由ですが、きいた風な悪口はお互につゝしみませう。設計した建築家をペチャンコにへこました処で、それは楽屋落ちになりますからね。」(「建築物の批評について」建築世界1928年1月号)

●森田慶一「批評にいたずらに迷う前に、それらの批評がなされる立場や、批評が向けられている方向をよく見極めて、その批評を賢明に受けいれることが必要である。」(「建築批評について」『森田慶一評論集1』彰国社、1957年4月)

●神代雄一郎「批評に条件がつけられ、言論の自由を奪うような主張をされては困るのである。評論という仕事は言論の自由をもとに成り立っているものなのだから。わたしは、いかに批判精神の希薄な建築界ではあっても、表現の自由、言論の自由といった基本的な人権は認めあった上で、やりとりやつきあいが存在しているのだと思っていた。」(「裁判の季節」新建築1976年5月号)

●高橋靗一「昔まだ堀口捨己さんがお元気なころお目にかかったときに「山田[守]が暴力を振るいやがったよ、ワハッハッ」と笑われるんですよ。「何ですか」と聞いたら、例の京都タワーについて藤島亥治郎さんが何かいわれたんですって。そしたら何かの集まりのときに藤島さんがそこにいたんです。そのとき山田さんがつかつかと来て、本当に腕をねじ上げて「表に出ろ」ってやったんだって。これはすごいと思ったね。その気魄は大したもんだと思う。やはり自分に賭けているのですよ。ぼくは自分を賭けて全部造っているつもりですが、いまの批評は、どんなに悪くても六分けなして四分誉めるというような、オブラートに包んだような言い方をするでしょう。よく読んでみないと誉められているのか、けなされているのかわからない。だからぼくは批評にはいまのところ興味がないですね。」(座談=郡山千里・高橋靗一・林昌二・宮脇檀・向井正也・村松貞次郎(司会=近江栄)「建築作品の批評と評価」建築雑誌1981年1月号)

号外『日本の建築批評がどう語られてきたか』

なぜ今「建築批評がない」のか。建築批評論年表(20世紀日本編)で100年間の建築批評をめぐる言説をたどり、現在を知るための足がかりとする。年表という記述形式の可能性を追求した、『建築と日常』初の号外。

※号外はあまり実店舗に出回っていないため、お買い求めは『建築と日常』オンラインショップが便利です。送料当方負担・クレジットカード決済(PayPal)でご利用になれます。ぜひ他の号と合わせてご購読ください。