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『建築と日常』編集者日記

02月08日(月)

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渋谷のアップリンクで、atelier nishikataの小野弘人さん&西尾玲子さんとトークイベント「建築と映画の関係について」()を行なった。映画『もしも建物が話せたら』の全6話のうち、ヴィム・ヴェンダース監督「ベルリン・フィルハーモニー」(ハンス・シャロウン設計)と、ロバート・レッドフォード監督「ソーク研究所」(ルイス・カーン設計)の2話を上映してもらったのち、1時間ほどのトーク。客席は満席になったようで、ともあれよかった。

トークは冒頭まず僕が主導して、建築や映画のジャンルと文化の関係について抽象的なことを言い、その後nishikataのお二人が2話の具体的な分析を進めた。僕個人としては、いつものことだけど、テキストという形式に適した内容のことをつい喋ろうと準備して、結局うまく喋れない(で落ち込む)という反省がある。以下、プロジェクターで投影するために用意した3つの画像。

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いちばん上の画像は、イベントの告知用に作ったプロフィールからの抜粋。もともと「建築畑だけど映画も観てますよ」というのを示す宣伝目的で僕が提案したのだけど、考えてみると何かを「好き」であることはわりと重要なことだったなと思った。つまり、外部の評価や世俗的・政治的な関係性などとは無縁に、作家や作品そのものと自分とが固有に結びつき、親しんでいること。例えば僕のことをある程度知っていて、川島雄三のことも知っている人ならば、「まあ、長島さんは川島雄三好きそうですよね」と結びつくのではないかと思う。それは僕にとってはすこし恥ずかしいことでもあるのだけど、何かを「好き」であることは、大げさに言えばその人の生き方までそこに投影される。むしろ何かを本当に「好き」であることが感じられない人はあまり信用できない気がするし(とりわけその人が芸術や学問に関わっている場合)、何かを「好き」である人ならば、その「好き」がお互い重ならなくても、楽しく話ができる可能性がある。

その下の図は、ある主体と客体におけるそうした固有の関係のあり方を示している。非常に雑な図で欠陥も多いと思うけど、大切なのは、まず主体と客体が固有の関係を結んでいること。そしてその固有の関係がオタク的・カルト的に唯一のものとして絶対化せず、相対的な網の目のなかにあること。また、ある種の評論家的に、網の目を超越的に上から見下ろすのではなく、あくまで自分自身が網の目のなかを生きていること。それらの条件が満たされていれば、例えば主体Aと主体Bが会話をしているとき、ある作品のことをどちらか片方しか知らなかったとしても、この網の目の作用によって、実のある会話を続けることもできると思う。

そしてそうしたとき、その作品は建築であるとか映画であるとか、ジャンルの枠組みによって限定されはしない。ジャンルの枠組みというのは、あくまである作品を分類するときのひとつの選択肢にしか過ぎない。例えば僕にしても小野さんや西尾さんにしても、好きな映画監督や映画作品を挙げたけれど、確かにそのそれぞれは好きだとしても、ジャンルとして「映画好き」であるかというと、必ずしもそうとは言えない。好きな作品は多くても、映画の総体とすれば嫌いな作品や興味がない作品のほうがさらに多いわけだから、特定の映画を好きだからといって、その人を「映画好き」としてしまうことには観念的な飛躍がある(実際のトークでは、小野さんは西尾さんのことが好きだけど、どれだけ西尾さんのことを好きだったとしても、そのことによって小野さんが「人間好き」だと言うことはできない、という例を出した。そこにはただ小野さんが西尾さんを好きだという固有の事実があるだけだ)。

だからこの網の目には、様々なジャンルの作品が遍在している。というよりも、作品/非作品の区別さえなく、世の中のあらゆる属性のものごとが遍在し、関係し合っている。この有機的な場を日常と呼んでもいいけれど、カルチャーと呼んでもいいのだと思う。カルチャーは日本語で文化という意味の他に教養という意味にも訳せるらしいので、こうした網の目が文化であるとともに、教養とは(個人が持つ知識やその量の問題ではなく)、その人がいかに外部の事物と親しみ、確かな網の目のなかを生きているかということの指標なのだと思う。

『もしも建物が話せたら』の原題は『Cathedrals of Culture』だという。だから6つそれぞれの建築を「文化の大聖堂」と呼ぶときも、建築の個体そのものが文化なのではなく、あくまで緊密な網の目が張り巡らされたなかにあるからこその「文化の大聖堂」なのだろう。

いちばん下のエリオットの言葉は、僕が映画について書いた「建築と文化をめぐる短い考察」()で引用したものだ。その文では、ヴェンダースの映画とシャロウンの建築に、同じ文化に根ざした共感があるのではないかと書いたのだった。そしてそのような意味で、レッドフォードはソーク研究所とそういった関係を持ちえなかったのだと思う。例えばどちらの作品もクレーンを使って、実際の人間のアイレベルではない位置から撮影をしているカットが目立つ。しかしそれでもヴェンダースはベルリン・フィルハーモニーの有機的な建築の空間に自らの身を置いて撮っていると思わせる一方、レッドフォードはソーク研究所の建築空間とは別の体系の客観的な空間から、建築の物体としての造形や表面を撮っているように見える。だからヴェンダースの映画が建築の空間を(疑似)体験させる一方、レッドフォードの映画はカットごとに断片化された建築が主体の体験のなかで繋がっていかない。

たしかに実際の建築を訪れても、人は建築の全体を同時に体験することはできないけれど、それでもどこかで建築の全体を感じつつ、部分を体験している。それに対して映画という形式では、異なるカットの編集で瞬時に地球の裏側や数百年後の未来に行ける自由さがある一方、同じ一つの建築を写していても、複数のカットでその建築の全体性・連続性を感じさせることは簡単ではない。ヴェンダースがベルリン・フィルハーモニーの建築を選んだのは、その意味でも成功だったのだと思う。そこでは音楽が流れている。例えばホール上部の電球を天井裏から取り替えるシーン。ホールでのリハーサルの演奏の音が、ややヴォリュームを小さくして天井裏に聞こえてくる。そのことで、ホールと天井裏の空間的な連続性や距離感を無意識のうちに観客に感じさせる。おそらく実際の撮影は、ホールのリハーサルと天井裏の作業とで、別々の時間に行なわれたと思うのだけど、そうして音を操作して重ねることで、断片化しがちな建築の各空間を統合し、建築の全体を映画として体験させようとする。

以上のように、僕個人は「ベルリン・フィルハーモニー」に対して「ソーク研究所」を批判的に見てしまう。しかし小野さんと西尾さんはまた別の視点を提示されていた。そこでお互いの意見をもとに議論できればよかったのだけど(いつも飲みながら延々と話すように)、時間が足りずに議論にまで至らなかったのは不十分だったと思う。ただ、いずれにしても今回のイベントで意図していたことは、まず作品そのものをじかに見ること。自分自身が対象と向き合い、(批評する前に)分析すること。その態度には昨今の世間の風潮に対する3人の批判意識があり、作品そのものを見るという当たり前の行為こそが文化や教養といったものに通じていることを示すつもりがあった。

その問題意識は、お二人にも参加してもらった『建築と日常』No.3-4の歴史特集から連続しているし、日曜の香山先生とのトーク「建築と言葉の関係について」にも繋がると思う。

もちろん言葉と物とには越えがたい大きな溝がある。本質的に次元が違うわけですから。しかしカーンはそのふたつをなんとか繋ごうと努力することに、大きな意味があると考えた。[…]だから物を作っている人間は言葉を使わないで、物だけ作っていればいいという言い方もあるのですが、カーンの考え方はそれと違っていて、溝があるだけに言葉はより正確に発しなければならない。溝っていうけれど、それは深いところでは繋がっていて、その結節点を見出すことが大切だと考えたのです。

  • 香山壽夫インタヴュー「第四の巨匠 ルイス・カーン」『X-Knowledge HOME』Vol.23、2004年1月号(所収:香山壽夫『プロフェッショナルとは何か──若き建築家のために』王国社、2014年)