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『建築と日常』編集者日記

02月06日(月)

あなたの好きな映画10本を挙げてくださいという原稿依頼を受けた、そんな空想をした。掲載媒体にもよるだろうけど、ある程度融通が利きそうなら僕はすこしルール違反をして、作品10本ではなく監督10人で答えると思う。生年順で言うと、小津安二郎、ロベルト・ロッセリーニ、川島雄三、イングマール・ベルイマン、エリック・ロメール、ジョン・カサヴェテス、オタール・イオセリアーニ、ウディ・アレン、アッバス・キアロスタミ、アキ・カウリスマキ、ホン・サンス、いまおかしんじ……。10人に絞るのは骨が折れるので、実際には原稿依頼が来てから考えたい。

なぜ作品ではなく監督を挙げるかというと、そのほうが選びやすいからだけど、なぜ選びやすいかというと、それは僕が作品を見るときの根本的な態度によるのだと思う。昨日の日記の最後で引用したイオセリアーニの言葉()。ああいう言葉に共感するのなら、選ぶのはやはり物(作品)ではなく人(監督)になるだろう。それは作品を見る態度として専門的ではなく、素人くさいような気もする。しかし仕方ない。去年久しぶりに読んだ富岡多恵子の次の一文にも共感した。

わたしは、ひかえ目になされた行為から、結果として出てくる表現者の「愛」や「教養」や「人柄」や「思想」に出会うのが好きだ。

  • 富岡多恵子「ひかえ目の美学」『写真の時代』毎日新聞社、1979年

実際、上で挙げた監督たちは、基本的に(川島あるいはそれに加えてロッセリーニを除いて)「どの作品も大体同じ」系の監督だと言える。作品歴にわたってテーマや設定が共通している、あるいは似通っている。個々の作品を作るというより前に、人生をかけて一つの大きな作品を作っているという印象を受ける。そうした作家においてどれか1作を選び出すのは、特に今回の依頼のような場合、便宜的・暫定的という以上の意味を持ちにくいと思う。その監督のうちのどれか1作ならまだなんとか選べないこともないとしても、そこで用いた判断基準と、また別の監督の1作を選ぶときの判断基準とは必然的に違ってくるので、「好きな10本」という括りが成り立ちにくい。途方に暮れる。

とは言うものの、もしこれが好きな映画10本ではなく5本や3本や1本という依頼だったら、むしろ監督では選びきれずに、やはりなんらかの作品を挙げることになるかもしれない。それも上で挙げた監督とは違う監督の作品になるかもしれない。