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『建築と日常』編集者日記

03月05日(日)

建築家・坂本一成の世界

『建築家・坂本一成の世界』が刊行され、今日で早半年。その後はあまり開いてみることもなかったのだけど、このあたりで一度じっくり読み直しておいたほうがいいような気がしている。本を作っているときは、かなり意識を集中させて各部分に入り込んでいたので、それをもっと客観的に眺めてみたい。

本でも雑誌でも、作ったあとに自分で開きたくなる本と開きたくならない本がある。それは必ずしも本の出来不出来と関係しない。『建築家・坂本一成の世界』が開きたくならない本であることは、それを作っている最中から分かっていた。例えば単純明快な構成で収まりのいい『建築のポートレート』()と比べ、要素が断片化して複雑に集合している『建築家・坂本一成の世界』は、「ここは本当はこうすべきだったのではないか」という疑念を思い浮かばせる個所がふんだんに目につき、僕の気分をざわつかせる。その生々しさが薄らぐまで、すこし時間をおく必要がある。

『建築家・坂本一成の世界』刊行後、ある媒体で《代田の町家》(1976)が紹介されている記事を見た。以下、その記事で1階の間室の写真に付けられたキャプション。

1階の「間室」。一般的には玄関や廊下と呼ばれるスペースだが、幅が広く、用途が限定されないつくり方をしている。

これはほぼ間違いなく、『建築家・坂本一成の世界』のp.61に掲載された以下の文を下敷きにして書かれていると思う。

間室1。一般には玄関や廊下ないし階段室と呼ばれる複合的・補助的な場所だが、室のプロポーションの調整や直方体的な輪郭線の明示、隣接する室との床高の差異などによって、他の室と同レベルの独立した空間単位であることを印象づける。

別に著作権の侵害ということを言いたいわけではまったくない。たぶんそれが当てはまる事例でもないだろう。ただ、「一般には〜と呼ばれる〜だが」という言い回しは、《代田の町家》についてそれまでに書かれたテキストほぼすべてに目を通した上で、あの間室がもつ意味をどうすれば的確に表現できるか、僕自身が考えて書いたものなので、読んだ瞬間に見覚えがある感じがした。たまたま言葉遣いが一致したとは考えにくい。

こんなふうに参照されるのは、ある意味で想定していたことでもある。たとえこの記事のように文章化されて直接的に世に出てくることはないとしても、『建築家・坂本一成の世界』という集大成的な大部の作品集に掲載される解説文が(誰が書いたどんな文であろうが)、この先、坂本建築に対する多くの人の認識の下敷きになっていくだろうことは、望むと望まざるとに関わらず、想定しないわけにはいかなかった。そしてなるべく正確な下敷きを提供するような意識で解説文を執筆した。

『SD2016』(鹿島出版会)に掲載された塩崎太伸さんによる書評「関係が宙吊りなことをひとつの主題とした物語り行為としての建築と書籍」も含めて、『建築家・坂本一成の世界』を読んだ人からは、作品集の構成についての感想は聞いても、解説文の内容についての感想はほとんど聞いていない。そもそも僕自身、このブログ(10月17日10月18日)や青山ブックセンターのトーク()で、構成についてはくどいほど多くを語ったけれど、解説文についてはほとんど何も語っていない。たぶん形式的に構成のほうが語りやすいのだと思う。また、もともと解説文自体が特別になにかを主張するようなものになることは避けるつもりでいたから、それがことさら語られないのは、ある程度意図どおりとも言えるかもしれない。しかし、一見して特徴的であるあの本の構成も、本当はそうした解説文と不可分というか、僕が自分で作品の解説文を書くこともできるという前提条件がなかったら、決してああいう構成にはならなかった。実際、各作品ページにおいて紙面の構成と解説文の内容は同時的に組み立てられていったし、構成はあくまで漫画のコマ割りのようなものであって、より労力がかかっているのは断然に解説文のほうだ。

解説文はなるべく正確かつ客観的に書くことを心掛けていた。不確かな自分の解釈は含ませない。けれども、むしろなんらかの解釈やレトリックに基づかないと、事実あるいは本質を正確に伝えられないと思われる個所も少なからずあった。

例えばデビュー作の《散田の家》(1969)は、発表時の文章以来ずっと〈閉じた箱〉だと言われてきたけれど、近年になって建築家自身が、「これほど大きな開口を持つという矛盾のなかで成立している」(坂本一成「自由で解放的な、そしてニュートラルな建築の空間」『建築に内在する言葉』TOTO出版、2011年)といったように、「意外と開いている」という見方を提示するようになった。確かに例えば《住吉の長屋》や《中野本町の家》の閉じ方と比べてみるようなとき、それは事実に違いない。坂本建築の重要な特質(常識性)を示していると言える。だとするなら今回の作品集の解説文も、単純に「閉じている」とするのではなく、「閉じているけどそこまで閉じてはいない」というニュアンスで書くべきなのか。そんな選択肢が浮かんでくる(しかし結局そういうふうには書かず、あくまで「閉じている」というニュアンスで書いた)。また、藤森さんは《散田の家》について、「屋根は付いているが、プロポーションは直方体に近い」(藤森照信「奇妙な不在感」『藤森照信の原・現代住宅再見3』TOTO出版、2006年)と書いているけれど、「直方体に近い」というのは「直方体に近いけれども完全に直方体にしようとはしていない」とも捉えられる。このふたつの言い方も、どちらも事実であることは間違いない。しかし、どちらがより今回の作品集の文脈において本質的かと考えて、僕は後者のニュアンスを選択した。

解説文を執筆するなかで、こういった主観的な操作を多々繰り返している。その都度、自分自身の坂本建築の経験や認識に基づく直観に従った判断をしている。目立たないけれどもその細かい方向づけは案外大事なところだと思うので(とりわけ両義性や曖昧性を旨とする坂本建築において)、そのあたりの思考をまだ生々しさのあるうちに、もう一度客観的になぞってみたい。