千の扉

柴崎友香『千の扉』(中央公論新社、2017年)を読んだ。新宿区の巨大な都営団地(戸山ハイツがモデル)を舞台に、戦後の各時代をたどる長編小説。同じ場所での異なる時間(時代)を重ね合わせるような書き方がされている。それぞれの時代は必ずしも章や節ごとに明快に書き分けられているわけではなく、細かく混じり合いながら1行分の空白を隔てて連続する。たとえば映画においてこうした構成をとる場合、異なる時代のシーンはその画面の内容によって一目で判別しやすいけれど(登場人物の年齢や服装、背景の様子などによって。あるいは古い時代をモノクロやセピア色の映像によって示すようなこともできる)、文字で成り立つ小説の場合はそうはいかない。読者を過度に混乱させないよう、各時代の時代性をさりげなく示すような工夫がところどころに感じられる。そのような時間の連続と分節のバランスや混じり合わせ方の具合が、この小説の体験を左右するひとつの鍵になっていると思う。
ところで本作ではタイトルにも現れているとおり、扉という建築の部位が象徴的な意味を持っている。

同じ形、同じ重さの扉。水色か薄い黄色の、新聞受けのついた金属の冷たい扉。その中には、誰かが住んでいる。家族か、誰かの家族だった人。家族と離れている人。家族を作ろうとした人。家族になった人。一人で過ごしている人。すぐそばにいるのに、どんな暮らしをしているのか、扉の向こうは見えない。(p.269)

一方、2012年の別冊『窓の観察』()の巻末の著者紹介では、柴崎さんと窓を関連づけて、下のように書いていた。

我ながらいかにも建築関係者らしい我田引水という気もするけれど、ここで柴崎さんの作品に、窓から扉への変化という意味を読み取ってみることができるのではないだろうか。一般に窓は透明で視覚的に内外を繋ぐのに対し、扉は不透明で、内部の様子を外部に見せない。しかし窓には不可能である具体的な身体の行き来を可能にする。
書評を書かせてもらった()『パノララ』(講談社、2015年)でも感じたけれど、柴崎さんの小説において、社会や人間の負の側面が、以前と比べてよりはっきりと出てくるようになってきたと思う。キラキラした世界をありのままに眺めるという受動性とともに、ままならない世界に自ら関わっていくという能動性が、徐々にかたちとして表れてきている(キラキラした世界とままならない世界は決して別々の世界ではないし、必ずしも直線的な作風の変化ではなく作品ごとの偏差もあるにせよ)。こうした変化を窓と扉の比喩で考えるのはそれなりに妥当である気がしないでもない。下はジンメルの「橋と扉」(1909)より。

●扉はまさに開かれうるものでもあるがゆえに、それがいったん閉じられると、この空間のかなたにあるものすべてにたいして、たんなるのっぺりとした壁よりもいっそう強い遮断感を与える。壁は沈黙しているが、扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ、しかしあくまで、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ、これこそ人間の深層にとって本質的なことなのだ。
●扉を閉ざして家に引きこもるということは、たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから、ある部分を切り取ることを意味している。たしかに、扉によって形のない境界はひとつの形態となったが、しかし同時にこの境界は、扉の可動性が象徴しているもの、すなわちこの境界を超えて、いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて、その意味と尊厳を得るのだ。