わたしたちの家

清原惟『わたしたちの家』(2017)をユーロスペースで観た(〜2/9)。監督の東京藝術大学大学院映像研究科修了作品。一軒の古びた家のなかで異なる時空間に暮らす人々がいて、お互いが徐々にお互いの存在を認め合っていく、その設定が『建築と日常』No.3-4()に掲載した吉田健一の短編小説「化けもの屋敷」(1977)を思い出させた。しかし作品の有り様は対照的だ。それは一方が作り手の最初期の作品であり他方が最晩年の作品であるということも関係しているだろうけど、『わたしたちの家』が作品における形式の先行を感じさせるのに対し、「化けもの屋敷」はそうした形式に伴う観念性を批判するようなものとして「家」が題材にされ、「化けもの」が登場するのだと思う。結果的に一軒の家における二重の生活を描くという形式は共通するとしても、その形式が目的であるか手段であるかの違いに、ふたつの作品の決定的な違いを見て取れる気がする。
『わたしたちの家』を観て、作品としての全一性に欠けている印象を受けた。それはふたつの異なる世界を描いているのだから当たり前だ、という話ではなくて、そうした作品世界の形式、ストーリー、個々の登場人物の存在や行動、それを演じる役者の身体、セリフの言葉、音、ショットの意味などの映画を構成する諸要素が、必ずしも有機的なつながりを持たず、断片的に別々のものとしてあるように思えた(「化けもの屋敷」は物語もテーマも文体も渾然一体としている)。つまり世界がそれ自体として息づいておらず、操作的に組み立てられたものに感じられてしまう。この映画の配給者である佐々木敦さんは、「それぞれの場面は、そしてそれらの場面を繋ぐ編集は、どれもこれも他ではあり得ず、こうでなければならない、という強い必然性を帯びている」と書かれている()。僕は特にそういうふうには思わなかったのだけど*1、もしこの映画が本当に観る者にそう感じさせるとしたら、それはやはり映画の強度というより脆弱さ、線の細さを示しているのではないだろうか。どう撮ろうがどう繋ごうがこの世界は確かにある、そう無意識のうちに観客に思い込ませるのが作品の全一性だと思う(それにしてもどうして佐々木さんはまだ見ぬ観客を独善的にタイプ分けして切って捨てるようなことをしているのだろうか)。
以上のような意味での作品の全一性(それこそジョン・カサヴェテスの映画に強く感じられるようなもの)を図式的に捉えると、別々の諸要素を統合することで成り立つ事後的な全一性と、そもそもすべてがひとつの根元から生まれていて分かれていないという事前的な全一性とが、両極としてあると思う。事後的な全一性はまさに映画監督の職能としての技術や経験に大きく依存するから、学生時代の作品に欠けていても多少割り引いて見てよいのかもしれない。今後への期待にもつながりうる。しかし事前的な全一性は、おそらく作り手の思想や生き方、映画を作る動機に基づくものであり、現代の映画制作あるいは映画産業のプロフェッショナルな分業制を考えれば(よく知らないけど)、むしろそのシステムからまだ自由な若い時期の作品にこそ確かに感じられるものであってほしい(例えば空族の『国道20号線』(2007)はその究極的な達成のように思える)。そんなところで、以前引いた(2014年9月1日)『カイエ・デュ・シネマ』の編集長の言葉を思い出す。

黒澤明、溝口健二、大島渚、小津安二郎、今村昌平……彼らが偉大なシネアストであったのは、彼らが映画を撮ること自体に向き合っていなかったからです。彼らには見せるべきものがあり、撮るべき顔があり、言うべきことがありました。形式遊びには少しも興じなかったのです。[…]私は形式(フォルム)は二の次で、主題の方が重要なのだと言っているのではないのです。単純に言うなら、主題の力が形式を作品に与えるということです。

『わたしたちの家』を構成する諸要素のなかには確かに非凡なものが少なからず見出せる。だから作品の総体ではなく部分に着目して、この映画を短い言葉でユニークに褒めたり深読みしたりすることはそう難しくない*2。ただ、そうした部分的な評価や感想や批評的視点の提示は、たとえそれぞれがポジティヴで妥当であり有意義であったとしても、それらが世評として集積することで、むしろ作品の実体を見えなくさせてしまう働きを持つように思われた。
売り出し中の作品に対してずいぶん批判が強い文になってしまって申し訳ないけれど、ここで書いていることは『わたしたちの家』もしくはひとつの映画作品に限らずもっと広がりを持つことのような気がするし、多少的外れでも門外漢が指摘してみることで、なんらか風通しが良くなることもあるかもしれない。監督もデビュー作で褒め殺しにされることなく、これから良い映画を作っていってもらいたい。

*1:そもそも一つの映画作品において、特定の場面なら場面が「こうでなければならない」と感じさせるというのならともかく、「どれもこれも」が「こうでなければならない」というのが具体的にどういう状態を指しているのか想像がつかない。建築のファサードやグラフィック・デザイン、または俳句や短歌のように、作られた全体が一望できるような作品ならありえなくないとしても、映画がそのような印象を与えることは可能だろうか。例えばジャン・ルノワールの『ピクニック』(1936)のような「完璧」と思える作品でも「どれもこれも」が「こうでなければならない」とは感じさせない。より形式性が強そうな小津安二郎やアラン・レネやキューブリックの作品でもやはり感じられないと思う。

*2:つまらない勘ぐりかもしれないが、例えばこの映画に寄せられた岡田利規さんのコメント()はこうした問題に意識的であり、あえて部分に限定して肯定的に言い切ることで、作品全体の本質的な評価をやり過ごしているように僕には見える。本作と比較されるべきは(ホン・サンスその他ではなく)クリストファー・ノーランであるという含意までそこに見いだすのはさすがに深読みがすぎるかもしれないけど。