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風雲童話城ブログ

2019-01-06

[][]消えてしまったエッセイを再現しました。

「かおるちゃん」

高校生の頃、クラスメイトの女の子は小林君のことをみなそう呼んでいました。

男の子たちはむろん「こばやし」と呼び捨てでした。

飄々として気取らない彼は、男子にも女子にも人気がありました。

その頃の私はといえば、クラスの女子グループにも所属してなかったし、ホームルームというやつが大嫌いで、協調性においては、限りなく透明に近いブルー(なんのこっちゃ?)の女の子だったと思います。

断言したくありませんが、私は男子にも女子にも人気はなかったはずです。

その点、人気沸騰のかおるちゃんとは一見正反対に見えました。

その頃の小林君は頭はいいくせに全然勉強する気がなくて、成績は進級が難しいほどでした。それでも、我がクラスのホームルーム委員長は、いつも圧倒的得票でかおるちゃんでした。

温かい、人を包み込むような小さな優しい目が、彼の魅力でした。

クラスメイトの女の子はみな、小林君を優しいお兄ちゃんのように思っていたと思います。確かに、小林君は高校生にしては大人びていて、その温かさや鷹揚さが、ともすると、彼をどこか老けて見せることもありました。

女の子たちはいつも「かおるちゃん」と親しげに呼び、いろんな相談を持ちかけていました。

そんなクラスの女の子の中で、私だけが「かおるちゃん」とは呼ばず「小林君」と呼んでいました。親しげに甘えるような「かおるちゃん」という呼び方が嫌いでした。今から思えば、生意気な女の子だったと思います。

けれども、小林君と私には共通点がありました。

どこか、醒めているところでした。

その頃の小林君は、まだクラブとしても認められていない落研(落語研究会)に入っていました。

私といえば、恥ずかしながら演劇部でした。

私たちの母校、京都府立洛東高校演劇部は、かの近藤正臣さんを輩出した伝統あるクラブでした。

実際、近藤さんがご家族とご一緒に文化祭へ遊びにいらしたことがあります。その折、「演劇部はどうなってますか?」とお尋ねになり、その頃部長だった私は呼び出されて、間近に人気沸騰中の男優さん(この頃の近藤さんは連続ドラマなどで大ブレイク中でした)を見てコチコチになったことを覚えています。いろいろお話もしたのですが、すっかり舞い上がっていたため、内容は覚えていません。ただ、ご一緒に記念写真を撮りました。

話がそれましたが、私はそういう演劇部に所属していました。

その頃の私は、勉強より、芝居の脚本を書いたり、お芝居をしたりが楽しいと感じていました。

そんな文化祭のある日、私たち演劇部は、ミニ劇場という形で教室の一室を舞台にして発表会をする予定でした。そのリハーサルをしていると、寄席の着物姿の小林君が入り口から覗いて「見せてもらっていい?」ときくのです。

「いいよ」というと、彼は教室に入ってきて、私たちのリハーサルを腕組みして真剣な顔で見ていました。

「小林君。今日は落研の発表会やなかったん?」

リハーサルが終わって、私は小林くんに話しかけました。確か、私も小林君の出る寄席を見に行きたいと思っていたのですが、演劇部の発表と同時刻だったので行けないなあと思っていたのです。

「ん。寄席はこれからやけど、その前にここを見たいと思って来たんや」と、小林君はいいました。

「え、小林君って、演劇に興味があったん?」

驚いてきくと、小林君はとても真剣な顔で「ん。将来やりたいと思ってる」と、答えました。

その時の顔は、いつもクラスで見せている穏和な小林君の顔ではありませんでした。固い決心を秘めた表情でした。高校での暮らしは、どこか、借り物の一瞬とでも思っているような醒めた目でもありました。

小林君にとっては、高校の演劇部など子どもの遊びにしか見えなかったのだと思います。

実際、その頃、私が書いていた脚本といえば噴飯物の忍者ドラマだったりして、それを上演したときは、名誉を重んじるOBたちがやってきてしきりと嘆いたものでした。演劇より、映画やテレビドラマのシナリオを書きたかった私は、演劇の手法や伝統を無視した脚本ばかり書いていたのです。(あの頃のOBのみなさん。ほんとにごめんなさい)

けれども、そういう演劇部にいたために、私は小林君を知る機会を得たのかも知れません。

同じクラスにいても、私は人気者の小林君をどこか醒めた目で見ていましたし、小林君もまた、可愛くない女と思っていたことは間違いないのです。けれども、何かの縁があったのか、小林君とは次の年も同じクラスになります。3年生はクラス替えがない予定でしたので、そのまま3年間一緒のはずでした。

ところが、小林君は留年してしまいます。

小林君が抜けた3年のクラスは、まるで、火が消えたように見えました。

女の子たちの「かおるちゃあん」という甘い声も聞こえず、それに負けじと、「こばやし、行くぞ」と呼ぶ男子の野太い声も聞こえません。

なんの変哲もないクラスになってしまいました。

その時初めて、私は小林君の存在の大きさを思い知りました。

その後、留年した小林君は、中退して高校を去ったと、風の噂に聞きました。

それからしばらくして、また違う噂を聞きました。

小林君が赤テント(別名状況劇場・唐十郎主宰の 前衛的かつ攻撃的なアングラ演劇集団)に俳優として出ていたと いうのです。

その頃、私はといえば、テレビドラマの名シナリオライター結束信二さんに憧れて、やはり似たような業界にいました。

その業界で、今では著名になった制作会社に私は誘われていました。けれども、その時所属していた事務所は、その制作会社の責任者に向かって激怒し、私の移籍は暗礁に乗り上げます。

まだ二十歳を出たばかりだった私は、移籍を思い留まるか業界を去るかという分かれ道に追い込まれてしまいました。おまけに、自分には才能もないのではないかとも悩んだ末、業界を去る決意を固めていました。

それでも、まだ誘ってくれる事務所はありました。

いったんは綺麗に身を引いたにかかわらず、その後の私には、まだ迷いが残っていました。

その頃、ふらっと入った映画館で「はなれ瞽女おりん」という映画を上映していました。 二十代の私は原田芳雄さんのファンで、原田さんが出演すると知って、観る気になったのです。

哀しい美しい映画でした。

中で、原田さんは脱走兵で追われる男です。

その追う男、陸軍憲兵が大画面に映った時、私は息を飲みました。

「かおるちゃん・・・」

今まで一度も呼んだことのない名が口からこぼれました。

小林君だったのです。

出番は少しでしたが、重要な役どころでした。

「かおるちゃんが頑張ってる・・・」

そう思った時、ハラハラと涙がこぼれました。

かおるちゃんが頑張ってる。

それなら、私はもういい。負けたっていい。

なぜか、きっぱりとそう思ったのです。

走馬燈のように、高校時代の小林君の表情が思い浮かびました。やがて、映画が終わり、流れ始めたテロップに、新人小林薫という文字を見つけました。

「かおるちゃん、おめでとう。夢が叶って良かったね」

私はまた、呼んだことのない呼び方で、彼にいいました。

それが、小林君の最初の映画出演だったと思います。

まるで、家族か何かのように、私は彼の成功が嬉しくて、その夜は1人でワインバーへ行って、小林君の俳優としての出発と成功を祝いました。

あの時の私は、小林薫という人が、私のことを全く覚えていなくても全然構わなかったのです。ただ、あの演劇部のリハーサルを覗きに来てくれたクラスメイトの小林君に心からのお祝いをいいたかったのでした。

あれから、たくさんの月日が流れて、私は童話作家になりました。

あの時、小林君の映画を見なければ、私は違う道を進んでいたかも知れません。小林君に「ありがとう」と、いいたいです。

今の仕事に出逢えたのは、あの分かれ道で選択を誤らなかったからです。

俳優が小林君の天職なら、童話や小説は私の人生を賭けた仕事です。

生意気で尖った少女は、辛酸を舐めても、痩せもせず、丸顔のおばさんになって、毎日せっせと童話を書いています。

私より一つ年上だった小林君は、顔立ちも体格も、優しい小さな目も、あの頃とちっとも変わりません。

「かおるちゃん、ありがとう。これからも元気で活躍してください」

2003/4/18 越水利江子ほろ酔いエッセイより。


              

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