Hatena::ブログ(Diary)

風雲童話城ブログ

2011-11-16

[][]騎士の気概

 なぜ、生きるのか。

 幼い頃から問い続けてきたように思う。

 確かな答えは、まだ得られない。多分、生涯つかめないのかも知れないそんなものだと、思うようにもなってきた。

 知人に、京の古刹、法然院の貫主、梶田真章さんというお坊様がいらっしゃる。

この梶田さんが、いつだったか、あるシンポジウムで、「一人くらい子どもが死んでも、百人の子どもが川へ入って遊べる方がいいのではないか」と発言されたことがある。

 ところが、この催しを報じた新聞紙面では、「一人くらい子どもがけがをしても…」に、直されていたそうだ。

それについて、梶田さんはこう問いかけていらっしゃる。

「一人も死なないようにするのが『いのちを大切にする』ことなのでしょうか。それとも、少々はリスクを伴ってもすべての子どもが川に入って遊べる社会が『いのちを大切にしている社会』なのでしょうか」と。

 一人一人の命は、とても重い。

たった一人でも、おろそかにはできないことはいうまでもない。

けれども、だからといって、少しでも危険なものは徹底的に排除するというやり方正しいとは、私自身、思えないでいる。

 だいたい、たった一人の子どもも死ぬ事がない社会などあるのだろうか。

あったとしたら、それは、子どもたちの身体は生かしても、心は殺してしまうような超管理社会になってしまわないか。

少なくとも、私は、私の子どもたちをそんな社会に生きさせたくはないし、私自身も生きたくはない。

 生きる意味というものを考えたとき、ことにそう思う。

 生きるということは、生かされていることだ。

自分一人で生きているわけではない。

 人はだれも、だれかを支え、また支えられして生きている。

私は、死もまた、そのバランスの中にあると思う。

 人は生きたいからといって生きるのではなく、死にたくないといって、死なないわけにもいかない。

時がくれば、老いも若きも死を迎える。

 それならば、幸運に生かされている今、何をすべきなのか。

 限りない欲望を突き詰めていったら、私は、たった二つだけ願いが残った。

「どんな生き方でもいい、人の役に立つ人生を生きたい」

「愛する人間を、生涯、おだやかな心で護り抜きたい」

 この二つが、現在の私の生きる目標でもある。

 自分のためだけに生きたって、得るものは知れている。

本当の喜びや満足は、他人との関係の中でしか生まれない。

 かといって、私には、みんなの中心でいたいとか、お姫さまのようにだれかに守られたいという気持ちはあまりない。

 どちらかといえば、いっそ、守りたい。

 姫より騎士でありたい。

そんなことを思っているから、私は孤高の人にもなれない。

 こういう私は、結局、知らないところで、いろんな人に守られて生きているのかも知れない。

 いや、まさにそうだろう。

 弱虫泣き虫怒り虫では、だれはばからない一等賞人間だもの。

 だが、人間、こころざしである。

 騎士の気概。

 言葉にすると仰々しいが、これは、いわば心意気である。

 生は、他者のためにある。

 命全体の輪を見れば一目瞭然の仕組みである。

 そして、今日、思うことを付け足せば、私の最後に残った二つの願いを果たすためには、美しく豊かな自然と人生を生き切る健康がなくてならない。

その大切な日本の自然と人々の健康を奪う原発はあってはならないものだと思います。そのことに気づいた今、全廃せずにどうやって生きるのか、私には見当もつきません。

※童話城より転載。一部書き足しました。 

2011-11-14

[][]月湖の石           

 私はいとこの栄一が好きだった。

 栄一は私より二歳上。

住んでいたのは高知県の仁淀川の中流だった。

和紙の里、伊野町から、さらに奥まった、山の斜面に張り付いたような集落。

そこが栄一と私たちの祖父母の住む村でもあった。

 毎年、夏休みの一週間、母と私はこの田舎で過ごした。

私たちが来ると、栄一は毎日、祖父母の家へ遊びに来てくれた。

朝早く寝床で目を覚ますと、早起きのおじいちゃんと栄一が話す声が聞こえた。

あ、もう遊びに来てくれたんだ!と思うと、心が躍った。

朝ご飯を一緒に食べたら、家を飛び出して野山を駆け、家に帰ればゲームをし、テレビを見て、私と栄一はずっと一緒だった。

 ある時、栄一が仁淀川で泳ごうといった。

水着で河原へ降りると、地元の男の子らが数人泳いでいた。

「えいちっ」

対岸の一人が呼んだ。

「おう」と、栄一は抜き手を切り流れを横切った。

そのまま岩に登り、男ばかりでじゃれあっている。

友達にまじった栄一は、ふいに幼くなったようだった。 

仁淀の水は夏でもドキリとするほど冷たい。

流れも速いので、小さな子たちは月湖(増水時にできた小さな池ほどもある水溜まり。三日月の形をしていた)で遊んでいた。

 私も月湖でバチャバチャやっていたが、ここでも深みには足がつかなかった。

そこへ、栄一が男の子たちとやって来た。

「ほれ、その底には猫の死骸が沈んじゅうぜ。ちょうど、りえの足の下じゃ」

栄一がいった。

 私は驚いて手足がこわばり、あやうく溺れそうになった。

それを見て、男の子たちがゲラゲラ笑った。

一緒に笑っている栄一は普通の男の子のように意地悪だった。

 やがて、みんなは一人二人と帰って、月湖は私だけになった。

 栄一はと見ると、日差しに焼けた河原を歩きながら何かを拾っている。

しばらくして、帰ってきた栄一が「そろそろ帰るぜよ」と呼んだ

水から上がると、栄一は私の掌にジャラジャラしたものを掴ませた。

 色とりどりの小さな石だったが、表面はうっすら白く濁っていた。

「見てや」

栄一が月湖の水をくんできて、私の掌にそそいだ。

水に濡れ、くすんだ小石の一つ一つが透き通るような赤や青や緑に変化した。

「ガラス石やけ。川へ流れこんだ瓶やらのかけらが、流れてるうちにこすれて丸うなったが」

栄一はそういって笑った。

その顔は、いつもの栄一にもどっていた。

 やがて、高知での最後の夜が来た。

その日の栄一は日が暮れても帰らなかった。

「そろそろお帰り」と祖母がいった時には、山はどっぷりと闇に沈んでいた。

庭先で見送ると、栄一の持った懐中電灯が真っ暗な山道を下ってゆくのが見えた。

それは小さな蛍が、ひとりぼっちで山を落ちてゆくようだった。

 ふいに、私は泣きそうになった。

 

 あれから数十年もたってしまった。

 今でも、私はあの頃を思う。

目覚めると、障子の向こうの縁側で、早起きのおじいちゃんと栄一の話す声が聞こえてくる。

 あれは、私の人生の一番幸せだった瞬間のような気がしてならない。

実は、私は養女に出された子で、いとこの栄一が実兄だと知ったのは高校生の時。

 だが、今も、私の中では、栄一は初恋の人のままである。

         ※童話城コラム(京都新聞掲載)より転載、一部修正

 ↓あの頃の兄との思い出をもとにした小夜子の物語…

風のラヴソング(完全版) (講談社青い鳥文庫)

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あした、出会った少年―花明かりの街で (for Boys and Girls)

あした、出会った少年―花明かりの街で (for Boys and Girls)

  

2011-11-13

[][] 関西弁はサバイバル

【子どもはいかにして関西人になっていくのか 関西弁はサバイバル】 

(童話城から転載)

 関西人と関東人の究極の違いは、「あほ」という言葉を理解するか否か。

あるいは「あほな奴」を愛せるか否か、そしてまた、自分自身が「あほな人間」になれるか否か…という事に尽きる気がするのだが、違うだろうか。

 つまり、このテーマに沿っていうなら「子どもはいかにしてあほを愛せるようになるか」ということなのだ。

 ここまで読んで「なんだ。このふざけた論考は」と思ったあなた。

あなたは、まぎれもなく関西人ではない。

 標準語の「阿呆」や「馬鹿」とは全く違う、関西人にとっての「あほ」。

この言葉の情感、哀感、愛おしさ、切なさ、勇ましさ……人生の喜怒哀楽のすべてを内包した、この言葉の奥の深さを理解しない限り、関西人とは呼べないのだ。

 そこで、生まれも育ちも関西というネイティヴな大学生に「関西人とはなにか」と「子どもはいつ関西人として完成するか」の二つの質問をしてみた。

 その答え。

「関西人とは、ぼけとつっこみを、使い分けられる人間」

「子どもが関西人として完成するのは、だいたい高校大学あたり。小学生は駄洒落のみ。中学生は初級のぼけとつっこみ。高校生になると、友人関係において、ぼけとつっこみの完成型を模索し始める。ただし、家族や環境の違いによっての個人差はある」という。

 つまり、家族や環境に完成された関西人がいる場合は、子どもは高校生くらいには関西人になるらしい。

 逆に考えると、家族や環境に才能の芽(?)をつぶす人物ばかりが存在していると、その子どもは若いうちに関西人の完成型にはなりきれないということである。

 その悪い例に、心当たりがある。

 私はもともと高知生まれで、ネイティヴな関西人ではない。

といっても、一歳の誕生を迎えるか迎えないかで、養女として京都へ貰われてきたので、育ちについてはかなり濃い関西人といえる。

 養父は生粋の京都人、養母は大阪育ちだったが、この養父母の人生観の前には、ボケもツッコミも冗談もただの悪ふざけとしか理解されなかった(関西人でも、少なからずこのタイプの人間は存在する)。

 私がふざけたりおどけたりすると、必ず「おちょけな!」(ふざけるな)「いちびりな!」(お調子にのるな)「ほたえな!」(バタバタ騒ぐな)と叱られた。

 いや、それだけではない。

 一度など、夕飯にとても美味しいおかずが出た。それは、ほんとに美味しかったので、幼かった私は、料理を用意した母を心からたたえたいと思った。

それで、一生懸命知恵をしぼってみつけた言葉を満面の笑みでいってみた。

「これ、おいしいから、明日も食べるし。残しといてな」

 ほんとに明日も食べたかった訳ではない。

どれほど美味しいと思っているか伝えようとしただけだ。

 すかさず、養母がいった。

「いやらしいことをいいな!」

 その時の養母の怖い顔と言葉を、今でもはっきり思い出せる。

私の関西人としてのすべりだしは前途多難であった。

 とはいえ、たいていの子は家庭に恵まれずとも、遅かれ早かれ関西人になってゆく。

友人や知人に鍛えられるのである。

 かくいう、私もその一人である。

 最近は、テレビの関西系芸人に鍛えられるという子もあるだろう。

そういう意味では、関西人は、関西でなくとも生まれつつある。

 しかし、全国一律変わりないはずの子どもがどう育って関西人になってゆくのか。

それを論考せよなどとは、なんと無謀なテーマか。

 はっきりいって、こんな難題は東の人間しか考えつかない。

 子どもが、どんな風に鍛えられ関西人になるのか。

ここで、そのステップを一つ一つ絵解きしていたのでは、とんでもない大連載になってしまう。

そこで、一言でいってしまうと、上級の関西人になるにはかなりの年月と経験、それに独特の勘と呼吸が必要だということだ。

 そう、勘と呼吸。これが狂うと、たとえ吉本の人気タレントでも笑いはとれない。

この勘と呼吸を身に付け、自然体でぼけとつっこみの日常会話が丁丁発止とできるようになれば、関西人も上級というわけ。

 では、次に関西人同士の会話の妙を例にあげてみたい。

   例1 関西人の母と子の会話

   母に叱られた事を作文に書いた子どもと母親の会話。

母  「ちょっと。こんなん書いたら、お母さん、よっぽどこわいっておもわれるやん」

子  「書く事がなかってんもん、しゃあないやん」

母  「そやかて、お母さん、こんなオニババやないよ」

子  「そうかなあ…」

母  「あ! それより、あんた。テスト勉強は?」

子  「まだ」

母  「あほっ。それをサッサとやらんかい!」

子  「おーい。オニババやないおかあさーん」(探すふり)

    例2 関西人の母と子の会話

母  「あんた。これ、なに。25点ってどういうことなん? あんたのこと信頼してたのに、字は汚ない。プリントはしてない。テストは隠す。いったいどういうつもりやの!?」

子  「え!? そのテスト、いったいどこにあったん」

母  「あんたが隠してるんやないかとさがしたら、ランドセルの底から出てきたがな」

子  「おい。どこが信頼しとんねん」

 この二つは、ぼけ(母)の方が、自分がぼけたことに気づいてない例。

子につっこまれて初めて、自分のぼけに気づき苦笑する。

ここで「親に向かって、えらそうに何をいうか」などと怒りだすのは、関西人ではない。

 この場は、子どもの勝ち。笑って引き下がるのが関西の親の正しい子育てである。

   例3 子ども同士の会話

子A  「あ!」(といって、空を指さす)

子B  「え!?」(おもわず、指さされた方を見る)

子A  「あほがみぃーる。ぶたのけぇーつ」

   例4 子ども同士の会話

子C  「てぶくろを反対からいうてみ」

子D  「ろくぶて」

子C (Dを六回ぶつ)

   例5 子ども同士の会話

子E  「うち、こんど、学芸会で主役やんねん」

子G  「へえ、なにやんの?」

子E  「おむすびころりん、ちゅう昔話」

子G  「ほお、おむすびの役やな」

子E  「そ。ころころころりん……ンなことあるかいっ」 

例3と例4は小学低学年で流行したひっかけ(例5は全国区で流行した)だが、ひっかけられた方は怒ってはいけない。

関西の子どもたるもの、ここはあほにされるのも修行である。

例?ぐらいの中級ぼけつっこみは、小学高学年か中学生くらいにならないとできない。

   例6 子ども同士の会話・告白編

少女F 「これ…」(と、バレンタインのチョコをわたす)

少年H 「あ、サンキュ(と、チョコを受け取る)。なに、ずっとここで待ってたん?」

少女F 「ん」(思いつめた表情)

少年H 「ほんま。そら、ごっくろうさん!」(少女の肩をポンとたたいて去る)

 これは、はっきり片思いである。

 上級関西人の少年は、よほど問い詰められないかぎり「好き」もいわないが、「悪いけど…」なんて白ける言葉は吐かない。「ごっくろうさん!」で、すべて通じる。

 来年の少女は、決してこの少年にチョコは渡さない。

   例7 子ども同士の会話・告白編

少女J  「じぶん(あなた)、好きなひとっているん?」(待ち伏せしていたにもかかわらず、それとなくたずねる)

少年K  「べつに…じぶんは?(きみは?)」(驚きながらも、それとなく、聞き返す)

少女J (だまったまま、あごをしゃくって「あんた」という顔で少年を差し示す)

少年K  「え!? おれ?」(うろたえて)

少女J  「あんたは?」

少年K  「おれは…」

少女J  「いいひんの」

少年K  「いや…」

少女J  「だれ?」

少年K  (そっぽを向いたまま、指だけで少女を指し示す)

少女J  「え!? うち? ほんま!?」

少年K  (照れきって、歩きだしている)

少女J  「な、ほんま? うちなん!? ほんまに?」(しつこくきく)

少年K  (もう走りだしている)

少女J  「なあっ! ほんまあーっ!?」(叫ぶ)

少年K  「あほっ。何回もきくな!」(そのまま走り去る)

 いかがだろうか。

 関西弁はお笑いの言葉だと思っているあなた。ここで、誤解を改めて頂きたい。

関西の少年少女の愛しさ、ロマンティックが見えたはずだ。

「あほ」という言葉にこめられた愛の深さも感じ取って貰えただろうか。

「あほ」は大好きな人間に使われることも多い。

 ここらあたりまでくると、いよいよ上級編に突入する。

   例8 上級関西人の父と子の会話

父  「なんや。学校行かへんのか」

子  「………」

父  「明日は行くんか?」

子  「………」

父  「なんか、あったんか?」

子  「………」

父  「よっしゃ。だんまりやったら、負けへんど」

子  「………」

父  「………」

子  「おとん。ええかげんにせえや」

父  「………」

子  「おとん。もうええっちゅうに」

父  「………」

子  「おとん!」

父  「大きい声だすな。目さめるやないか」

子  「寝てたんかいっ」

 と、まあ。こんなふうに深刻な場面をひっくりかえせるようになったら関西人もハイクラスである。

 相手がぼけたとわかったら、すかさずつっこみを入れるのがハイクラスな関西人のマナーである。

ぼけは投手、つっこみは捕手。

投げられたボールは、必ず受け止めなければいけない。後逸するなどもってのほか。

そんな人間は関西人の風上にもおけない。

家族がハイクラスな関西人ばかりだと、いつどこで誰がぼけるかわからないサバイバル状態におかれる。

   例9 ハイクラス関西人サバイバル戦

弟M (泣きながら帰ってくる)

母  「Mちゃん。どうしたん?」

弟M 「くそっ。Sのやろう!」

母  「Sちゃんが、なにかしたん?」

弟M 「おれのこと、ナスビっていいやがった」

母  「ナスビ?(ふきだしそうになるがこらえる)」

父  「どうしたんや」

母  「Sちゃんにナスビっていわれたんやて」

父  「ナスビ? それがなんでそんなに腹立つんや?」

兄  「おとん、知らんのか。Mは、自分がナスビに似てるって、前から気にしとんのや」

  父母、しみじみと弟Mを見る。

父母 「なるほど!」(声をそろえて)

弟M 「おい!!」(怒る)

兄  「泣くな、M。Sのキュウリやろうは、おれがゆわしたろ(しめあげるの意)」

弟M 「Sはキュウリなんかに似とらんわ」

母  「ほな、キュウリはヌカ漬けにして、のしたろ」

弟M 「Sはキュウリなんかに似とらんちゅうね」

父  「わかった。できそこないのキュウリは、ちぎって、ふんで、ブタに食わそ」

弟M 「そやから、Sはキュウリなんかに似とら…」(つい、笑いだす)

玄関でチャイムの音。母が出てゆく。

母の声「Mちゃーん! Sちゃんが『ごめんね』いうて、来はったえー!」

弟M 「おれは出えへん」(こわい顔にもどって)

兄  「そうか。ほな、おれが出たろ」

  兄、玄関へ出てゆく。

兄の声「うちのナスビは、出たないっていうてるわ」

弟M  「だれが、ナスビやねんっ」

 と、まあ。果てしないサバイバルが続くのである。

 関西の子どもは、うかうか深刻になっていられないというのがわかってもらえただろうか。

 ここまで来て、いくらかは理解してもらえたかと思うが、関西の言葉は単語では説明しづらい。

丁丁発止の受け答えに特徴がある。

 例えば、つっこむ時の常套句。

「ええかげんにせえ!」「おいおい!」「なんでやねん!」「どやねん!」「そんなあほな!」など、いわば吉本芸人に使い古された単語だけではなく、日常会話の中にあらゆる言い回しが生きている。関西弁は正に生き物なのである。

 その生き物をつかまえ、飼いならして、思いのままに使いこなせるのが、関西人といえる。

 関西人とは、凝り固まった価値観を一気にひっくり返せる力のある人間のことである。

人生の辛さや苦しさをちゃかすのではなく、受け止めた上で笑いとばす力のある人間のことである。

ネイティヴな関西人といえども、すべての人間にその力が備えられているわけではない。手塩にかけて、本物の関西人に育てるのである。

 全国の子どもよ、関西人となれ! 

 今や、そう願わずにはいられない。

児童文芸テーマ論考掲載一部修正

2011-11-10

[][]あの日のラヴソング 

※以下は、以前、新聞掲載されたコラムです。(童話城より転載、一部修正)

私は高知の山中で生まれた。

私には一つ上の兄と年子の弟がいたが、この弟が生まれる前に、私は母の姉夫婦(私には伯母夫婦)の元へ養女に出される。

伯母夫婦は男子がほしかったらしいが、長男をくれとはいえず、一度は、実母のお腹の子(弟)に期待したらしい。

だが、両親が養子に出したのは長女の私だった。

「腹の子はじゃまにならんき」と、実母はいった。

当時、実父は工員で、実母も働いていたが、生活は保育費も払えぬほど困窮していた。

といって、長男は跡取りである。

一方、女の子は嫁に出さねばならぬという理屈で、私は京に貰われた。

 京の路地裏で、私はすぐ貰いっ子だと知った。

近所の子らが「もらいっこ、もらいっこ」と囃し立てたからだ。

私は子ども心に、養父母には感謝していた。

それでも、ときおり、泣きたいほど寂しくなる一瞬があった。

 そんな時、よく空を見上げた。

なぜか、空は、いつも真っ青だった。

(あの空の果てに、私の本当のお母さんとお父さんがいる…)

そう思うと涙がぽろぽろこぼれた。

 誰が実父母なのかを知ったのは、高校生の時。

養女に出された事情も知って、心に小さな恨みが生まれた。

けれどこの時、実父はもう亡くなっていた。

この数年前、中学生の私は父の野辺の送りに参列した。

泣きじゃくる兄弟も母も、いとこや叔母だと信じその時間を過ごした。

(あのおっちゃんは、おとうちゃんやったんや)

 ぼんやりそう思った時、ふいに幼い頃のワンシーンが蘇ってきた。

 それは、私が三、四歳の頃だった。

 養母に連れられ里帰りしていた高知の祖母の家。

その縁側で、おっちゃんが呼んでいた。

「りえ。こっち来いや。抱いちゃおき」

 けれど、私は見知らぬおっちゃんが怖かった。

「いやや…こわい」

 私は、確かそんなことをいった。

とたんに、おっちゃんが怒った顔で

「親にこんなこという子ぁ知らんぜ」といった。

(親って…うちには、京都のお父ちゃんがいるのに。変なこというおっちゃんやな)

その時は、そう思った。

だが、あれは父だったのだ。

 ようやく実母に電話ができたのは、高校卒業を前にした頃だったと思う。

「よう電話してくれたねえ」

と、母はいった。

「…葬式の時は言えんやったけんど、父さんは、おまんを養女に出す話があったとき『りえは、ぜったいやらん』っていいよった。おまんのことは可愛がっちょったき」

 私は、ただ「ん…」とだけいった。

母の話は続いていたが、私にはよく聞こえなかった。

「りえ。こっち来いや…」

と呼んでくれた父の笑顔が浮かんでいた。

武骨なひげ面の精一杯の微笑み。

(おとうちゃん……!)

 受話器をにぎりしめ、私は声を殺した。

涙が溢れだしてとまらなかった。 

その父や養父を描いた『風のラヴソング』(岩崎書店)が本になったのは1993年12月。

その後、二賞を受け、私の作家としての道を開いてくれた。

天路の父が導いてくれたと思うこともある。

父は、閉鎖された工場の裏で、ひとり詩を書く旋盤工だった。           

風のラヴソング(完全版) (講談社青い鳥文庫)

風のラヴソング(完全版) (講談社青い鳥文庫)

           

2011-11-09

[][]花明かりの街から

私は京都の貧しい路地裏で育ちました。

京都といえば、他府県の人はそれだけで雅なものを感じられるかも知れませんが、私の育った路地裏は、京都の中流の人たちと最下層の人たちが渾然一体となって暮らす街でした。

我が家のあった裏長屋のお隣は、三宅さんという寝たきりのおじいさんと、その看病をするおばあさんが暮らしていました。

おじいさんは昔、歯医者さんだったとかで、若い頃は上流の暮らしをなさっていた老夫婦でした。子どもがいらっしゃらなくて、二人暮らしでした。

寝たきりのおじいさんを抱えたおばあさんは、本当につましい暮らしをなさっていました。

それで、生活保護の申請をなさったので、担当の役所の人がやってきて、おばあさんから色々事情を聞いて帰りました。

その後、どういうわけか、生活保護は受けられないことになったのです。

おじいさんは寝たきりで、看病するおばあさんは腰が直角に見えるほども曲がっていて、立ったり座ったりも大変なお年寄りです。

誰が見ても、早急な保護が必要に見えました。

それなのに、役所はなぜ保護をしてくれないのでしょうか。

不思議に思っているある日、私が表で遊んでいると、どこかのおじさんの声が、おばあさんの家から聞こえてきました。

のぞいてみると、見たことのあるおじさんが「どういうわけで支給できないといわれましたか?」と、おばあさんに聞いています。

どうやら、生活保護のことのようでした。

「お役人が『貯金はあるか? 指輪や時計といった貴金属類は持っているか?』と聞かはったんで、貯金通帳を見せましたんどす。毎月の払うお金がちょっとあるだけで貯金はあらしまへん。貴金属いうて何もあらしまへんけど、そうや、昔々もらった指輪をまだ持ってるっていうたんどす。そしたら、それを売りなさいいうて。指輪があるから、支給はでけへんといわはるんどす。あんなもん、売ったかて、二束三文にしかならしませんのに……」いいながら、おばあさんは悔し涙を鼻紙でぬぐっていました。

おじさんは「けしからんなあ」とつぶやきました。

「わたしが掛け合ってみましょう。だいじょうぶ、まかせなさい」

そういって、おじさんは帰っていきました。

私はそのおじさんを知っていました。

同級生のお父さんでした。その同級生の古い家はひどく傾いていて、お母さんはいつも血走った目で山のような内職をなさっていました。

おじさんも間違いなく貧乏だったのです。

でも、その後、おばあさんはおじさんのおかげで生活保護を受けられるようになったようでした。

といって、生活保護を受けている家庭はそのお家だけではありませんでした。

裏長屋には母子家庭が二軒あって、その内の一軒はやはり受給していました。

そのお家は、母一人が内職だけで息子三人を育てておられたのです。

その頃、冷蔵庫があると生活保護が打ち切られるというので、お役人が来るときには、お母さんは貰い物の古い冷蔵庫をどこかへ隠していました。

今のような冷蔵庫ではありません。

小さなものですから、そういうことも出来たのです。

もう一軒の母子家庭はご主人が亡くなられたので年金とお母さんのお勤めで暮らしていらっしゃるようでした。

その家の一人娘のさっちゃんは、亡くなったお父さんの母親にあたるおばあちゃんが面倒を見ていました。

今から考えれば、姑と暮らしていたお母さんはほんとに大変だったと思います。おばあちゃんはいつもお母さんに小言をいっていましたから。

そのお母さんと娘のさっちゃんは、路地で一番きれいで優しくて上品でした。

おばあちゃんはよその子どもでも口うるさく叱るので、路地裏の子どもたちから「オニババ」と呼ばれていましたが。

でも、さっちゃんから聞いたところによると、よその子たちがオニババと呼ぶおばあちゃんは、さっちゃんにはとても優しかったそうです。

路地の表長屋には、妻を置いて愛人と駆け落ちしてきたという初老のご夫婦がいらっしゃいましたし、お父さんが精神を病んで、入院しているという在日の母子家庭もありました。

その家の男の子、みきちゃんは私にとって忘れられない大切な大切な友達で、私のデビュー作『風のラヴソング』にも、その後の京都シリーズ『あした、出会った少年』にも登場した少年です。

ほかに奥さんに逃げられたという噂のある一人暮らしのおじさんもいましたが、だいたいは、どの家も、狭い一軒に二世代三世代の家族が暮らしていて、路地にはおばあさんがぞろぞろいらっしゃいました。(おじいさんは少なかったので、やはり男性は寿命が短いということが一目瞭然でした)

親はみな生活に追われて忙しく、路地裏の子どもたちはどの子も、おばあちゃんたちに見守られ叱られ教えられて育ちました。

どんなに貧しくても、だれも年寄りはじゃまだとは思いませんでしたし、お年寄りたちは実に堂々とゆったり暮らしていらっしゃいました。

路地には、朝顔や白粉花や鶏頭やダリヤや鳳仙花、すみれや嵯峨菊や沈丁花や、四季の花々が咲き乱れ、グミや枇杷の実がなり、イチジクもなりました。

日が落ちても、春や夏の路地はさまざまな花明かりで、ぼんやり明るかったのを覚えています。

美味しいお総菜を作ればご近所におすそわけし、西瓜を切れば両隣に配りました。

ようやく生活保護を受けられるようになった三宅さんのおばあさんは、その後も、それはつましい、清らかな貧乏生活をなさっていました。

私が親にいわれて切り分けた西瓜やお総菜を届けると、そのお礼に、人からもらった煙草の空き箱で手作りした鍋敷きや、おばあさんが種から育てたり挿し木で育てた植木の苗を下さったりしました。

そして初夏には、味付け海苔の空き瓶に入った鈴虫をくださいました。

鈴虫は、おばあさんの手でどんどん増やされて、毎年長屋中にもらわれていったので、夏ともなると、路地全体が鈴を転がすような鈴虫の声で満たされました。

夏の夜、緑の蚊帳のなかで寝ていると、この世ではない海の底へ、深く深く沈んでいくような気がしたものです。

あの美しかった路地がモデルになった本は、デビュー作の『風のラヴソング』です。

風のラヴソング(完全版) (講談社青い鳥文庫) 

『風のラヴソング』は、大きな文学賞と名誉ある児童文学賞を頂いた作品ですが、その名誉は、作者にではなく、あの頃出会った路地の人たちにこそ相応しいと今も思っています。

あの路地で、私は人間に育てて貰ったと思うからです。

けれども、一冊の本では書き足りないことが一杯ありました。

あした、出会った少年―花明かりの街で (for Boys and Girls)

その書き足りない色々、あの街の魅力、人間の底力、人々の優しさ、人生の不思議を、ようやく、もう一冊の本にすることができたのは、デビューしてずいぶんたってからです。

この『あした、出会った少年』は、今、文庫化をお願いしたいと、出版社を探しているところです。お顔の広い作家さま方、どうか、アドバイスを〜

むろん、どちらも、ノンフィクションではありません。創作の物語です。

登場する人たちは、あくまでも物語の中の人々です。

それでも、きっと、あの美しい花明かりの街の人々に出逢えってもらえるはずです。よかったら、読んで下さいまし。

私に幸せをくれた街が、この物語を読んで下さるみなさまにも、幸せを運んでくれますように。

2011-11-07

[][]いま振り返りたい、癒されたい物語

原発事故とその後は、あまりに人間の心と命を軽視した経済ゲームばかりで疲れました。

傷つけられる人、子供、動物、自然より、経済が大切なんて、私には暴言にしか聞こえません。

そんな時、思い出しただけで、癒される物語、懐かしい物語、今こそ、もう一度観たくなっている物語があります。

それは、「大草原の小さな家」です。

人の幸せが、お金や便利さで買えるものではなく、美しい自然と家族愛にあることをしみじみと感じさせくれる名作ドラマでした。

もう一度、ゆっくり鑑賞したいです。

下記の文章は、童話城のエッセイより転載、書き加えたものです。

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また会う日まで

                       越水利江子


NHKでたぶん20年間は放映していた「大草原の小さな家」は、古き良きアメリカ開拓時代の家族の物語です。

番組の中で幼かった少女が、ドラマの中で一人前の女性になり、母になるという点では、日本の「北の国から」と同じ超ロングランの連続ドラマといえます。

家族三代を描いたその物語の中で、私は後には祖父になってしまうお父さんチャールズが大好きでした。

マイケル・ランドン演じるチャールズは(彼は監督でもあった)、穏やかで、誠実で、理性的で、働き者で、家族を愛する敬虔なクリスチャンの夫であり、父親でした。それは、もはや現代では描けないキャラクターであるかも知れません。

いわば、アメリカ人情小説。

一連のドラマは、原作の長編よりずっと面白く感じました。ドラマを見て何度も涙しました。

ハンサムで優しいチャールズに理想の夫像、理想の父親像を重ね合わせたのは、若き日の私だけでないと思います。

最初の頃、チャールズは真っ黒なくせっ毛の若々しい父親でした。

それがいつの間にか白い髪になりました。成長した娘にこどもができ、おじいちゃんと呼ばれるようになっていました。

それでも、チャールズは豊かで若々しく魅力的でした。

それなのに、チャールズを演じたマイケルランドンは、1991年にガンで亡くなっていたのです。

つい先日、私はそれを知りました。

ショックです。

親しい友人や家族を失ったような気がします。

私のこれまでの半生は、それほど不幸ではありません。

けれども、一般の人よりは厳しいものだったように思います。

そんな中で、チャールズは、いつも一つの灯火でした。

まだ若く未熟だった私に、人間は捨てたものではないと、励ましてくれる温かい友人でした。

人生は辛く苦しい。

けれども、生きる価値があるのだと、チャールズは毎週語りかけてくれました。あの笑顔で、あの優しさで、あの黒い澄んだ目で。

NHKでは、あの番組を何度となく再放送をしています。DVDも販売されているのではなかったかと。

機会があれば、若き日のチャールズを、ぜひ見てください。そして、年取ってゆくチャールズを静かに見つめてください。

人生の哀しみと喜びが、そこに見えてくるはです。

チャールズ。

あなたのような男性に出会うのが、若き日の私の夢でした。

理想の父、理想の恋人、理想の夫でした。

残念ながら、この人生では、もう会えないかもしれないけれど。

いえ、あなたの笑顔は、目に心に焼き付いています。

物語の力を教えてくれたあなたに、心からの感謝と敬意を送ります。

また、会う日まで……