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風雲童話城ブログ

2013-06-19

[][][]愛ってなに?

f:id:rieko-k:20120520150027j:image:left恋と愛ってどうちがうの? 愛と惰性はどうちがうの? 愛は奪い合うもの? それとも、与え合うもの? ……って、若い時には考えたことがありました。

今では、その答えがくっきりとわかります。

恋と呼ぼうが、愛と呼ぼうが、もし、求めるたしかなものを、相手が与えてくれない場合、それなら、別れようと思うのは、基本的に愛ではなく、契約を結ぼうとしているだけだと思うのです。

愛というのは、奪い合うものでも与え合うものでもなく、惜しみなくそそぎつづけるもの。そそぎつづけることができる心だけが、愛と呼べるものだと思います。

むろん、心だけではなく身体があり生活がある人間のこと、本来、求めるもの(結婚や婚約、恋人の位置など…)を与えられない苦しみや悲しみは深くなっていきます。でも、それは、究極、物質的なものや契約ではなく、彼の心、魂、愛といったものが、自分に向かってはいなくて、他の対象に向かっているのではないかという苦しみ悲しみになっていって、むしろ、そのことが人を深く苦しめるのだと思います。

もっとも男性の場合、愛している心や、思いさえ伝えられない人が多いのかもしれませんが、それは、怠慢でしかありません。

女性というのは、結婚というようなたしかな契約によって、彼には愛があるのだと感じ、幸せになるのです。

ただし、結婚生活が習慣のようになっていった場合は、彼女は、再び、心、魂、愛といった形のない、契約でもない、目に見えないものを、彼が表現してくれるのを待つようになります。

女性とは(一部の例外をのぞいて)、ハートで生きているのです。

男性のように、心と身体を使い分けたり、結婚を生活、外では浮気や恋愛といった、割り切リ方はできにくい性なのです。

男性には、本当の愛なんてないんじゃないか…と思う女性が多いのは、男性が怠慢なのか、それとも、本当に、女性のような愛がないのか、どっちなんでしょうか?

とはいえ結婚生活何十年を迎えた女友達を見回すと、いやいや、もっと、旦那さんに感謝しようよ!といいたくなることも、度々。

結婚って、もしかしたら、女性を男性化してしまう作用があるのでしょうか?

2012-09-12

[][][]わたしを作家にしてくれた一言

f:id:rieko-k:20100611014024j:image:left「ぶぶ漬けさんの写真.龍の彩雲」

探し物をしていたら、なんとも懐かしい作文が出てきました。私がまだ高校一年生になって3か月ほどの頃の、現代国語科に提出したプリントです。

幼く子供っぽくて、そのくせ、精一杯背伸びしたような作文ですが、ここにアップしてみます。

 

「高校生活」           一年四組四十番 

高校に入ってもう三か月。そして、また期末試験が目の前にせまって来ている今。あらためて高校生活なるものをふりかえってみる。

高校生という新しい名前を夢みて入学した私が、高校生活という名のもとで、一番はじめにかんじたこと、それはまるで夢みた高校生活の印象ではなかった。中学とまるでオナジじゃないか、中学の継続みたいだ…。そう思ったのです。

しかし、それは、私と同じように子供から一歩足を踏み出したばかりのまだ高校生という名に値しない同格の人たちをみていたからなのです。

日がたつにつれて、私はそのことに気付きはじめました。クラブ活動、校内討論集会等を通して、上級生の方々のしっかりした考えや行動に目をみはり、同時に同級生の成長、そして、自分自身の考え方の成長におどろき、そこではじめて真の高校生活の印象を受け取ったのです。

今までの私には、ほんの小さなエリート意識がありました。それはだれに対するというものではなく、ひょっとすると、自分に対するものだったのかもしれません。

しかし、そのほのかな満足は、高校生になってたった二ヶ月足らずで吹きとんでしまいました。中間テストという形で。

そして、後にのこったのは大きな敗北の悲しみと、人に対する劣等感と、中学時代をなつかしむ心でした。

ところが、中間が終わり、期末が近づくと、今度は小さな小さな闘志が湧いてきたのです。そしてまた、以前の夢、高校生活の入ったばかりの頃、そっと胸にしまいこんであったあの夢なのです、あの夢が、私にまた、ささやいてきたのです。何をささやいているのかは、私にもわかりません…。

けれど、夢はあまいことばかりを、私にささやくのです。私はふりはらいました。夢をみるなら、テストが終わってからにしろ…と。

作文を書いている今も、夢は私にささやいています。なにかわからないあまい言葉を。

私は、この作文を書くことによって、そのいじわるな夢をどこかへほうり出そうとしているのです。そして、夢は今、徐々に、私から離れようとしています。そして小さかった闘志が勢いよくもえ上がりかけているのです。今、徐々に。

この作文が「高校生活」という題名にあてはまったかどうか疑問ですけれど、この作文がいくらかでも、私の心の動きをあらわせていればうれしく思います。

             七月八日 

                雨のやんだ四時限目

この作文に、当時の現国の白川先生は、赤ペンで「A」と記入してくれました。そして、最後にも、赤ペンでコメントを書いて下さったのです。

そのコメントです。

「貴女は文を書く才能に恵まれていますネ。大切に育てて下さい。

その為にも、高校生活で、何を学び、考え_将来、何を実践するか、です。

内なる自分の世界と、外なる矛盾した社会とを、しっかりみて、考えて下さい。勿論、勉強をしっかりやることです。」

私に文章の才能があるといってくれた最初の(学生時代はたった一人の…)先生でした。この言葉は、ずっと私の胸の中にそっとしまわれていたのだと、作家になってから気付きました。私にとって、学校教育においての教師との出会いは苦いものが多かったのです。でも、この白川先生だけには、受け入れられたと感じたことを覚えています。

無論、この頃、作家になるなんて思ってもしませんでしたが、先生の「貴女は文を書く才能に恵まれていますネ。大切に育てて下さい」という言葉は、この時から無意識の底に沈んで、ずっと私を支えてくれたような気がします。

私は高校三年間、国語はずっと「5」でした。なぜかというと、授業が楽しかったからです。もっとも、語学系は強かったけれど、理数はだめでした。

先生のいってくれたように、勉強をしっかりやることには成功したとはいえません。

でも、私を作家にしてくれたのは、白川先生の温かくて大きな手だったのだと、今では思っています。

子どもは、ほめて育てるべきです。

2011-01-08

[][][]懐かしい人

本日、懐かしい人のブログを見つけて、リンクのお許しが出たので、リンクさせて頂きました。

かつての放送局は退職されましたが、今でも素敵なお声のアナウンサー、本村忠司さんです。

頂いた年賀状に、ブログを始めたと書いてあったので、検索してみたら、すぐヒットしました。さすが、アナウンサーさんです。

本村さんは、私がまだ作家の駆け出しで一番辛い頃にお目にかかって、誰にも話せなかったことを相談した時、「作家はいい物を書けばいい。何をいわれても気にするな」と、励まして下さった方です。ですから、心の恩人。

f:id:rieko-k:20110109003322j:image:left←当時、私が描いていた絵

もっとも、ご本人は、そんなことがあったことも忘れていらっしゃると思います。それぐらい、遠い思い出です。

当時、同じようにお世話になった切り絵作家、久保修さんのサイトもリンクしました。こちらは事後報告になりますが、リンクをお報せするつもりです。本村さんと並んでなら、きっと許して下さるだろうと。

久保さんは、今や世界で活躍される切り絵作家さんです。彼の切り絵は切手や絵本にもなりました。

いつか、久保さんの切り絵を買って、客間に飾るのが夢ですが、いや、その前に家を建て直さないと似合わないでしょうね。

久保さんの切り絵の大作は、ほんとに素晴らしいのです。昔、お伺いした個展で観た、素晴らしい桜の大作がありました。私は、買うならそれが欲しいと思いました。その頃なんて、食べるのも困るぐらい貧乏作家だったのに、夢見る力だけはもっていたようです。

あれから、作家になって17年、まだ、いつかいつかと夢見てばかりですが、夢見られるうちが花。

今年もでっかい夢を見るぞ〜!

2010-09-06

[][][]ショックです、映像京都解散。

しばらく忙しくて、新聞も読む暇がない状態だったので、先日、今も撮影所関係の仕事をしている友人から報されるまで、全く知りませんでした。

日本映画の伝統と技術を、細い糸を紡ぐようにつないできた映像京都が解散してしまったなんて!

かつて、京都が「日本のハリウッド」と呼ばれ、全盛期だった頃が過ぎ去って、映画会社が次々縮小され、やがて大映が倒産します。

その大映京都撮影所の俳優、監督、スタッフがさんたちが、自力で発足させたの映像京都でした。

最初は、ほんとに小さな集団だったのです。でも、その実力は、すぐあらわれました。

日本映画、時代劇の伝統や技術を脈々と受け継いでいる人たちの集団は、得難い存在だったからです。

↓「木枯らし紋次郎」ゲストに大原麗子さん、悠木千帆(現・樹木希林)さんの出演作

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私は市川崑監督の「木枯らし紋次郎」をお手伝いをした関係で、俳優として映像京都に参加しないかと誘われたことがあります。その頃の映像京都の皆さんの、映画に対する熱い情熱にうたれていた私は、それはもう二つ返事で「ぜひ、参加したい」とこたえました。

でも、それは、所属事務所からの「うちで育てた子をとっていくなら、今後、一切うちの俳優はまわさない」という猛烈な抗議で、つぶれてしまいました。当時、まだ十代だった私は、縛り付けられ夢を追えないぐらいならやめようと決意し、それをきっかけに俳優をやめました。今から思えば、所属事務所の抗議は当然で、私が子どもで未熟だったのですが。

でも、そういうことがあったので、仕事をやめても、東映撮影所の皆さんや映像京都の皆さんのことはずっと応援してきました。

市川崑さんという稀代の名監督の作品に参加させてもらったのも、映像京都があったからです。

まだ子どもみたいだった私が、中村敦夫さん、勝新太郎さん、緒形拳さんといった、時代を超えてのスターさんといえる方々の生の人間性に触れることができたのも、あの仕事をしていたからです。たとえ短くても、私の青春はムダではなかったと、今では思っています(概して、大部屋女優にとっては、大女優さんは怖くて、大物男優さんは優しかったです。もちろん、すべてがそうというわけではありませんが)。

当時の出会い、思い、挫折、悲しみや喜びは、作家という職業についた今は、大きな宝物といっても過言ではありません。

だから、とてもショックです。私にとって、東映撮影所と映像京都は、青春を駆け抜けた車輪の両輪でした。その片輪がなくなるなんて……。

これからはフリーでお仕事をなさるという映像京都の皆様に、心からのエールと拍手をおくります。

2010-07-05

[][][]ずっと好きだったんだぜ

f:id:rieko-k:20090605114055j:image:left

高校生の頃、私には憧れの君がいました。

その彼はいくちゃんといって、同級の別のクラスだったけれど、ともかく、少女コミックに出てくるような人気者でした。下級生から同級生に至るまで、いくちゃんを観るために少女たちが遠目に群がるような…。

といっても、いくちゃんは素敵だったけれど、超ど級のハンサムとかではなかったし、身長180センチのスポーツマンというのでもありませんでした。ただ、いくちゃんはセクシーだったのです。なにより、その流し目に相当な威力がありました。

もちろん、いくちゃんは意識してそうやっているのではなく、自然体で女の子たちを惹きつけるオーラのようなものを持ち合わせた男の子だったのです。

私がそのいくちゃんを気にし始めたのは、そのアイドル的要素に惹かれたわけではなく、廊下や校庭ですれ違うたびに、いくちゃんが、かの流し目で、私を見るからでした。しかも、微笑みを浮かべて。

男の子たち連れの時は、互いにつつき合ったりして、どうも、私のことを話しているようでもありました。

f:id:rieko-k:20130608145152j:image:left【恥ずかしながら、十代の頃…】

そんなことをされれば、十代の少女です。気にならないはずはないはありません。しかも、相手は学校一の人気者なのです。

いつしか、私はいくちゃんに憧れるようになりました。そうなると、とどまるすべを知らないのが青春です。

いくちゃんのクラスはとても仲が良くて、その中に、わたしの親友、くーちゃんがいました。実は、くーちゃんも長く片思い中で、その相手はいくちゃんの友人、ケンちゃんでした。いくちゃんとケンちゃんはいつも連れ立っていて、とても仲が良かったのです。

私はよく、くーちゃんから、ケンちゃんの話を聞かされました。ケンちゃんがどんなに素敵かと…。くーちゃんは、人気者のいくちゃんには興味がなくて、ケンちゃん一筋でした。

でも、私たちは告白する勇気なんか持ち合わせていなかったので、長く片思いのままでした。

そんな中、いくちゃんはある女の子と付き合い始めました。その子は私とは、友達の友達といった距離の同級生で、キーコと呼ばれていたキュートな女の子でした。

なんと、あのいくちゃんは、キーコに片思いをしていたようなのです。あの頃、課目によっては、教室を移動して授業を受けていましたから、ある時、いくちゃんたちは、キーコの教室で授業を受けたようです。そして、別の教科の授業からキーコたちが帰ってくると、黒板にあることが書かれてありました。

白墨で書かれた授業の書き込みの横に矢印があって、別人の字で「△△さんへ、これは、いくの字です」と書いてあったのです。そう、いくちゃんの友人である男の子たちが恋を取り持ったのか、からかったのか。△△さんというのはキーコの苗字でした。

その噂は、クラスを越えて女の子たちの間を一瞬で駆け巡ったのです。

「いくちゃんが好きなのは、キーコだった!!!」と。いくちゃんとキーコが付き合うのに時間はかかりませんでした。いくちゃんを好きだった女の子たちは全員失恋したのです。

でも、そのキーコとはそう長くなかったようでした。どちらがどうしたのか、いや、長くなかったというのは噂にすぎないのか、今では確かめるすべはありません。

卒業も間近になって、私はけじめをつけることにしました。その頃、私は、実のところ、わりとモテてました。美人ではないし、性格もあまり感心した方ではなかったのに、なぜなのか、今となっては、それも謎です。でも、いくちゃんへの思いは、ずっとあったのです。だからこそ、けじめをつけるべきだと思いました。

それで、いくちゃんに告白したのです。「もう諦めたから気にしてくれんでええけど、ずっと好きやったんよ」と。

いくちゃんは、うんうんうなずいて聞いてくれました。心はどうあれ、優しい人だったのです。

これで、けじめはついた。新たな気持ちで生きようと決心した翌日、いくちゃんの友人、ケンちゃんから電話がかかってきました。「ちょっと、話したいことがある」と。

f:id:rieko-k:20090603122941j:image:right「何だろう?」と思って、私は呼び出された場所まで出向きました。

「いくに、告白したんだって?」と、ケンちゃんがききました。

「うん」と、私は答えました。

「まだ、いくが好きなん?」と、ケンちゃん。

「うん、ずっと好きやったけど、もう気は済んだ」と、私は答えたと思います。それは、ケンちゃんには、ほんとはまだ好きだ…といったように聞こえたかもしれません。

「☆☆さん…」と、ケンちゃんは、その頃の私の苗字を呼びました。

「☆☆さんをずっと好きだったのは……いくじゃなくて、僕だ」と、ケンちゃんはいいました。

すれ違うたびに、いくちゃんが私を見ていたのは、ケンちゃんの好きな女の子だったからなのです。

おそらく、いくちゃんグループの男の子たちは、誰がどの女の子を好きなのか知っていたのでしょう。だから、キーコの教室にも「いくの字です」と書いて、二人の仲を取り持った(面白がったともいえるけど)男の子がいたのです。だからこそ、私がいくちゃんに告白してすぐ、いくちゃんはケンちゃんに事の次第を話したのでしょう。

その瞬間、私にもよみがえったことがありました。親友のくーちゃんとの会話でした。

くーちゃんもまた、長い片思いのあげく、ケンちゃんに告白したと、私に告げたことを思い出しました。その時、くーちゃんは「ケンちゃんには、好きな人がいるって断られた」といいました。

(…で、では、その好きな人って、まさか、わたし!?)

脳裏に、親友のくーちゃんの寂しそうな顔が浮かびました。

私は、決して、ケンちゃんを嫌いではありませんでした。まだ恋ではなかったにしても。でも、親友の思う相手では、どうしようもありません。なんとも、皮肉な巡り合わせです。

結局、私たちは、誰も思いを成就することなく、高校を卒業しました。

今思えば、これこそが青春なんですね。

和義さんの歌、「ずっと好きだった」で思い出した、ほろ苦い……でも、甘酸っぱくもある青春の思い出です。

2009-10-29

[][][][]お化粧しなくても平気だった頃

このところ、あまりに仕事ばかりで、うるおいがなくなってきてヤバいです。それで、今日は執筆の合間に、球根を植えるつもり(趣味、庭仕事っていいのか…)。お友達なんて、趣味バイオリンとか、バレーとか、優雅なのに。

原稿の方は『恋組3』は入稿済み。次の仕事をやってます。どこまでも追われて、気持ち的に、お肌ケアもする余裕なしで、このままではどんどんひどいことに……。

その昔、高校の女性教師が「あなたたちに化粧はいらないの。先生ぐらいになると必要になってくるけど」とおっしゃっていたのをふと思い出しました。そう、今、その意味がわかります。

いえ、今は化粧どころかお肌ケアをしないといけないんですよね。それが、何もできていません。

で、下の写真は23才頃(もう時効だしいいっかと)です。それにしてはこどもっぽいのはスッピンに近いから。ちょうど、結婚した彼と出会った頃。その彼が京都駅で撮った写真。でも、どこへ行こうとしていたのか、ぜんぜん覚えていません。

f:id:rieko-k:20091029100638j:image

 ネガではなくプリントから取りこんだのでぼけてますが

あっと、何がいいたかったのかといえば、そんなことではなく、この写真の私が着ているセーターは男物の茶色。この頃、そういうざっくりした飾りっけのない地味色のセーターが好きでした。そういうの、着てもまあ大丈夫っていうのが若さなんですね。今はそういうの着ると、えらいことに……(涙

2008-06-19

[][][][][]原点へ帰ろう

人間が長く人生を生きれば、ふと、思うことがあります。

「あれ? わたしはなぜここに立っているのか?」と。これは、どんな職業のひとでも同じではないでしょうか。

私は思いも寄らない人生の転換に出会って、どん底の暮らしをしました。具体的にはここには書けないけれど、百万円前後の年収で扶養家族が二人ありました。その最中、一年半ほどは、歩くだけで激痛がはしる身体を抱えていました。まさにどん底。よくぞ生きていたと、振り返っても思います。

孤独と赤貧(いや、根っからおめでたいので、自分では清貧だと思ってましたが)、それらとの闘いの日々。けれど、その間、支えてくれた人がひとりだけありました。男性ですが、夫でも恋人でもありません、素敵な奥さんのいらっしゃる友人です。その彼のおかげで、わたしは死なずにすんだのかもしれないと、今でも感謝しています。もし、彼やご家庭に何かあったら、できることは何でもしようと、今は思っています。あれから十数年、ようやく人間らしい暮らしができるようになりましたが、そういう今、「あれ?」と立ち止まることがあります。今、この瞬間もそう。

「あれ? わたしはなぜここに立っているのだろう?」と、思うのです。

なぜ作家になったのか、なぜ一冊の本を書かねばならなかったのか、なぜ追われるように書き続けているのか、なぜひとをこんなふうに愛してしまうのか、やせがまんをしすぎるのはなぜなのか、なぜなぜなぜはいっぱいあります。でもそれらは、すべて原点に答があるような気がしています。

原点、少女だった時に、私の中に培われた人生観、死生観といったものに、すべての答があるような気がするのです。

少女だった頃、私に強い影響をあたえたものは、結束信二さんの脚本による「新選組」シリーズ、「用心棒」シリーズでした。ご存じの方も多いでしょうが、結束さんのその頃の脚本といえば、正直いって、文句なしのハッピーエンドは一作もありません。人の運命の理不尽さ、優しさ、切なさに、毎回、少女の私は涙しました。ドラマはいつも、深い傷や痛みを抱えながら、それでも振り返ろうとせず、前へ歩み出す主人公の後ろ姿が印象的でした。まだ幼かった私は、この時学んだのです。人生は切ないものなのだと。幸せはめったに手に入らないものなのだと。だとしても、人は強く生きるのだと。

中高生の頃は、以前も書きましたが、山本周五郎さんの小説に出会い、哀歓の中のささやかな、けれども深い幸せを知ることができました。

ましてや、この頃、私は路地裏のもらわれっ子でした。私の環境そのものが、結束さんの描き出す世界でもあり、周五郎さんの描き出す世界でもありました。同時に司馬遼太郎さんの小説にも出会って、歴史を俯瞰して見ることで、立ち上がってくる人間像を教えてもらいました。これで、この三人の大天才に影響されないはずはありません。

私の書くものはすべて、この原点に培われたもののように思います。路地裏の貧しいけれど豊かだった人々の姿、さらに三人の偉大な先駆者の足跡が、私をここまで案内してくれたのだと思います。

私がどん底で踏ん張れたのも、おそらく、あの死生観が無意識にあったからです。人生は辛く切ないものなのだと知っていたから。けれども、人は優しく強く誇りをもって生きられるのだと思いこんでいたから。だからこそ、人をうらみもしなかったし、弱い自分自身に負けもしなかったと思います。今でも、どん底がどんなに辛いものか知っているから、自分以外のひとと接するとき、私なりに、まず、この人を幸せにできる方法は何かなと考えます。人としての愛情のそそぎ方も、私は路地裏の人々と、三人の大天才に学んだ気がするのです。

でも、この方には心は伝わらないなと感じたら、それをさらに頑張るというようなことはしません。人はその人自身が望んだ時にしか変わらないものですから。そっと、距離をおくようにしています。なぜなら、私は書くという仕事があるからです。書くことで、私の心を受け取ってくれるひとは、まだまだ世の中に沢山いて下さるかもしれません。せっかく出会っても、その方には伝わらないなら、それはもう仕方ないことですから。本は心から心へ届けるものです。作家である以上、売れれば嬉しい。でも、それより嬉しいのは、心が伝わったと感じた一瞬です。

ですから、原点へ帰ります。戻るではなくて、帰る。原点は故郷です。もともと、私は土佐生まれの京都育ち。

「ごちゃごちゃいわんでええ。原点へ帰らんかいな。」と、私の中の関西人がいいました。

「なんもかも気にせんでえいわえ。なんちゃあない、なんちゃあない」と私の中の土佐の女がいいました。

(※日記の一部を手違いで消してしまいました。すみません。)

「新選組血風録」シナリオ集 人情裏長屋 (新潮文庫) 燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)

2007-06-11

[][][][]十代の恋

十代の頃、私は当時先鋭的だったO先生の小劇団の芝居の代役で、劇団の稽古と撮影所の仕事を行ったり来たりしていました。主役だった女優さんが撮影所で暴力団関係の男性とかかわりができてしまい、京都にいられなくなって、故郷へ逃げ帰ってしまったというとんでもない事件が起こって、主役がぽっかりいなくなってしまったのです。でも、公演の予定は決まっているし会場もおさえてあるし、チラシもまいているし取りやめることはできないというので、劇団外部だったにかかわらず、O先生の教え子だった私が抜擢されてしまったのです。

とはいっても、当時の私は映画やドラマの脇役しかやったことはなく、ましてや舞台はほとんど素人で、もともとは女優よりシナリオライター志望の少女(十代ですから)だったのです。そんな私にはその後の稽古の怖かったこと怖かったこと。O先生の罵倒、共演者の罵倒は毎日飛んできますし、時には怒ったO先生のシナリオも飛んできました。共演者が怒ったのは、私が撮影所の仕事を休んでまでは稽古に来ないことでした。主役に抜擢されて、なぜこの芝居だけに集中できないのかと、それはそれはののしられました。でも、私は撮影所の仕事で生活をしていましたし、劇団の芝居はボランティアです。所属タレント事務所の仕事はどうしても断れませんでした。ですから、どんなにののしられても撮影所の仕事へ行きました。でも、撮影所へ行っていたのは仕事が断れないからだけではありませんでした。劇団の稽古は地獄のような苦しみでしたが、撮影所の仕事はのんびり平和だったからです。つまり、私は舞台女優に向いた人間ではなかったのだと思います。

結果、公演は私以外は素晴らしいものでした。先鋭的芸術的な舞台演出だったなあと、今でも思います。あくまでも私以外のことですけれど。

私はきりきり洗練された新劇のような仕事はとことん苦手なのでした。つまり、私は時代劇のような形式美が好きだったのです。

当時にも子供向きかぶりものヒーローのチャンバラ番組があって、その主役に抜擢された少年と出会ったのはその頃です。

Tくんは日本人ばなれして彫りが深く、眉目秀麗のそれはそれは美少年でした。ちょうど私より一つ年下でした。有名な男優さんのお弟子さんだったTくんは、その頃、芝居もドラマも初めて、チャンバラも初めてでした。その緊張からか、年頃も近い私にいろいろ話しかけてくることがありました。そのうち仲良くなって、彼は車で送ってくれたりするようになりました。気がつかないうちに、私たちは付き合うような形になっていたのです。

「きれいな女優さんはごろごろいるのに、わたしのどこがいいの?」と私は聞きました。「そんなことない。りえちゃんもきれいだよ」といってほしいのは娘心です。

ところが、彼は「ほっとするから」とこたえました。

当然です。綺麗なのは彼の方でしたから。しかし、愛想のないやつです。とまれ、美少年というのは、お世辞もいえない不器用者であることが多いのです。だって、お世辞なんぞ言われたこともないし、言う必要もない人生を歩んできたのが、本物の美少年というやつですから。

「じゃ、りえちゃんはぼくのどこがいいの?」と彼は聞きました。

「ほっとするから」と私はこたえてやりました。実際はどう答えていいのかわからなかったのです。私は綺麗な彼を見ているのは好きでした。でも、彼を好きなのかどうかは、よくわからなかったのです。(見てるのが好きとはいえんではないか)

私たちは十八と十九だったのに、とても正直でとてもうぶだったのです。

紆余曲折があって、私たちのままごとのようなお付き合いは終わりました。紆余曲折の一度目は彼が約束を破り(この時だけでなく、彼は先生である男優さんの用事でよく約束を破りました。でも、俳優にとっては時間厳守は仕事のみ。仕事の時間延長は日常茶飯事なので私事は二の次が当然の世界だったのです)、二度目は私が彼を拒否したのです。三度目は彼がやっぱりもう一度付き合いたいといい、私はもう無理とこたえて、私たちはプラトニックのまま別れました。

彼のデビューもぽしゃりました。ルックスは素晴らしいのに、彼には演技力が足りなかったのです。

あれから、なんと、恐ろしいばかりの長い月日が流れたことでしょう。

今から思えば、私は彼に同志のような友情のようなものを感じていたのだなあと思います。お互いにとって地獄のようなレッスンの日々が身近にありましたから。きっと心から「ほっとしていた」のです、私たちは。今でも思い出すと、撮影所で会うとき、私たちはいつも笑顔でした。

愛とか恋とかでなかったにしても、大切なひとときを私たちは生きていたのかもしれません。