Hatena::ブログ(Diary)

小人さんの妄想 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2013-09-26

白紙に近い答案はバカなのか

どうやら、そうでも無いらしい。

これは私にとって驚きの発見だった。

もし「白紙に近い答案=バカ」が成立しないのであれば、

そもそも記述式テストというものは成り立たないのではないか。

より正確に言うと、

 ・充実した答案 => 知識を持ち合わせている

は正しい。しかし、この逆である、

 ・スカスカの答案 => 知識を持ち合わせていない

は、必ずしも真ではない。

なので、記述式テストというものは半分までしか成立しない。

これを当然だと思う人と、発見だと思う人がいる。

私は後者であった。なぜかと言うと、

「知識を持っていれば、それを紙の上に落とせるのは当然」

と思っていたからである。


縁あって、私はテストを作って、採点する立場にある。

掛け持ちの非常勤ではあるが、とにかく先生と呼ばれるものの端くれである。

その記述式のテストやレポートで、時折、ほんの少ししか書かれていない答案を見かける。

わずか2〜3行程度の箇条書き。それらを繋いでも、たいした文脈は浮かんでこない。

当然ながら、そういった答案にあまり良い点は付けられない。

しかし、スカスカの答案を書いた学生は、本当に頭の中身までスカスカなのだろうか。

あるとき、試しに直接口頭で質問してみた。

すると予想に反して、口頭では多くの内容をスラスラと答えられるのである。

「それだけ喋れるのなら、なぜ、書かないのか。

 今、口で言ったことを、そのまま紙の上に落とし込むだけではないか。」

そう思って、はたと気づいた。

喋れるけれど、書けない学生が居るのである。

つまりこの学生は、頭の中に知識がありながら、それを文章化することができない。

・・・以上が私の発見である。

これまで生を受けて数十年というもの、私は頭の中に知識があれば、

それを紙の上に落とし込めるのは当然だと考えていた。

と言うより、ここに何らかの苦労やギャップが存在していようとは、思ってもみなかった。

息を吸うように、自然にできる所作であろうと思っていたのである。


私はこれまで、知識 => 文章化の間に苦労を感じたことが無い。

文章が書けないということは、即ち元になる知識やアイデアが無いということであり、

逆に、知識やアイデアがありさえすれば、必ず文章に落とし込むことができる。

そういうものだと思っていた。

別に自慢している訳ではない。

私は過去に作文コンクールで入賞したことも無ければ、立派な文芸作品を書いたことも無い。

国語の成績が取り立てて良かったわけでもない。

考えてみれば不思議ではないか。

知識があって、日本語が使えるのであれば、なぜ、それが文章にならないのか。

何か特別な名文を書け、と言っているのではない。

もっと低レベルの、誰にでもできることを言っているのである。

もちろん、文を書くにも上手い下手はあるし、良い文章を書くには、相応の力量が要求される。

そんな力量を要求しているのではなく、どんなに下手くそでも構わないから、

とにかく考えを文章に落とせと要求しているのである。

それなら、誰にでもできるはずではないか。


よく考えてみると、文章以外のことがらは、形にするのに何らかの才能や努力を伴う。

目で見た通りに描くには画才が要るだろうし、聞いた通りに奏でるには音楽の才能が必要だろう。

文章もそれらと同じで、何らかの才能ないし訓練が必要だったのである。

そんなことは、当たり前なのだろうか。

私が発見したのは、

・知識を自然に文章に落とし込める人、つまり「喋れる=書ける」タイプの人と、

・そうではなく、文章化に労力を要する人、つまり「喋れる≠書ける」タイプの人の、

2種類がいる、ということである。

だから、この事実を発見と思う人と、当たり前と思う人がいるのである。

そして、一部の人にとっての当たり前の事実を、なぜ今さら取り上げたのかというと、

どうやら「先生」と呼ばれる人たちは、文章化に何の苦労もしないタイプが大多数なのではないか、

と思い至ったからである。だからこそ「先生」なのである。

ところが、そういうタイプの人たちが先生であるとすると、1つ困った弊害が生じる。

それが、冒頭に挙げた「白紙に近い答案=バカ」という思い込みである。

先生は自分がそうであるから、答案に書けないということは、即ち知識の欠如と考える。

実際には、

・本当に知識が無くて書けない場合と、

・知識はあるのだが文章化できない場合の、

2つがある。

そしてこの2つの違いは、記述式テストだけでは分からない。

(ただし作文の授業は、文章化の知識それ自体を問うので除外する)


もう1つ、文章化に労力を要する人たちは、たったそれだけのことで、

とてつもなく不利な人生を送っているのではないか、ということである。

端的に言って「書けない=バカ」である。

そして周囲がバカだバカだとはやし立てているうちに、本当にバカになってしまう。

当人にとっては切実な問題なのかもしれないが、実のところ文章化などという技術は、

本当に「たったそれだけのこと」に過ぎない。

私が苦労していないから、そう言っているのではない。

才能とか、頭の良し悪しとか、そんなことは一切関係ない。

その気になれば、3日程度でマスターできる小手先のテクニックに過ぎないのである。

たったそれだけのことで、損な人生を歩むのは、実にもったいない話ではないか。


では、3日でマスターできる文章化のテクニックとは何か。

それは、

  「型を身に着ける」

ことである。

書式、パターン、あるいはフォーマット、と言っても良い。

白紙にいきなり文章を書くのは難しいが、穴埋め問題なら比較的簡単にできる。

型を覚えていれば、文章題が、穴埋め問題に還元できるのである。


1つ、具体的な型を挙げよう。

  「Q&Aで始める」

今、あなたの読んでいるブログ記事が正にそうである。

最初に疑問、次に答を示し、それに続けて答に至る道筋を順番に提示する。

たったこれだけのことで、今日からあなたもブログを書き始めることができる。


一般的な論文・レポートの構成である、

  「目的、方法、結果、考察、結論」

というのも1つの型である。

これについては「レポートの書き方」といったキーワードで検索すれば、

関連サイトがわんさと出てくるので、詳細はそちらに譲る。

大切なのは、白紙の状態からスタートするのではなく、

白紙を型で区切った「穴埋め状態」からスタートすることである。


型を身に着ける最良の方法は、真似をすることである。

そもそも言葉の学習は、真似から始まる。

文章化に苦労していない人たちは、何のことはない、

過去に読んだ文章の型を無意識のうちに真似ているのである。

不幸にして真似る機会が無かった人は、今からでも遅くは無いので、

何か気に入った文章について「型」を意識して見直すことをお勧めする。

論文や名作文学だけでなく、ラノベにも、ミステリーにも、それぞれの型がある。

だからこそ、読めばいかにもラノベっぽいし、ミステリーっぽい。

なぜ、それらが○○っぽいのか。その理由を突き詰めること。

それぞれの型については、私が理屈を述べるよりも、対象そのものを真似た方が早い。

(あえて助言すれば、会話文や掲示板、ツイッターのような、短い文章の断片を真似ても意味が無い。

 ある程度以上の長さと筋道を持った文章を真似ること。)


残念ながら、今後も多くの先生たちは「白紙に近い答案=バカ」だと考えるだろうし、

仮に文章化が不得意な生徒がいることを知っていたとしても、

それを見分ける手段は事実上不十分なままだろう。

私は作文の先生ではないのだが、3日でできる小手先のテクニックであれば、きっと伝えることができる。

なので、可能な限り伝えることにしよう。これは私の決意表明でもある。

それでも、もしあなたが今現在文章化に苦労していて、損な人生を送っているのだとしたら、

結局のところは自らの努力で克服するしか無い。

そして、それは思ったよりもわずかな、ほんのちょっとの努力と工夫で乗り切れるのである。

私が言いたかったのは、そういうことである。

健闘を祈る。


--------------------------------------------------------------------------------

※ 9/30追記

たくさんのコメント&ブコメ、ありがとうございます。

予想外の反応に驚くと同時に、改めて責任の重さを実感しました。

全てのコメントについて一度にお答えできないので、以下、要点のみ追記します。


■ 型の教育不足

> 「答案/小論文を書く技術を教える科目」が小中高に無いのが不思議といえば不思議

確かに、型を学ぶ機会が日本の国語教育には少ない。

私も小中高でまともに教わったという覚えがありません。

一方、海外では型を身に着ける学習を重視する、というコメントを幾つか頂いています。

どうもこれには歴史的な理由があるようです。

* 日本の国語教育では書き方の様式を教えず、創作文を書かせませんが、それはなぜですか。

>> http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_04.html

> 「子どもが見たまま、感じたままを綴る学校作文」という唯一の型を作り上げてしまいました


では、文章の型というものを、どこで学ぶのか。

私自身のことを振り返ってみると、大学時分に書かされた「実験レポート」であったことに思い当たりました。

このレポートの書き方というものは、学校で教わって最も役に立つ事柄の1つでしょう。

 (私とて、別に先天的に型を知っていたわけではありません。単に、最初にあまり嫌がらなかった、というだけです。

  それでもレポートにはけっこう苦労した覚えがあります。)

私は運良く型を学ぶ機会に恵まれたわけですが、一般的に言って、型を教えてくれるような場所はあまり無いわけです。

あるいは大学(or専門学校)が型を教える場になるべきなのでしょう。


■ 3日の小手先では無理

大学というところは、一定水準以上の「やればできる子」たちが集まっている場所です。

だから、諸君なら3日程度でできるはず、、、と言いたいところです。

しかし上のような実情を考えると、型を全く知らない学生が居るのは何ら不思議ではなく、

そういう学生たちに「3日の小手先で乗り切れ」というのは、無理があるものと思い直しました。

私自身、昔はかなりしつこくレポートをやらされたので、どうやらその恩返し(?!)をするときがやってきたようです。


■ ディスグラフィア(書字障害)

可能性はあります。

もし本当に何らかの障害であったなら、非専門家である私が下手に足掻くべきではありません。

幸い大学には相談窓口もあるし、必要であれば専門家に要請を出すことも可能です。

私の役目は、本人に自覚が無い障害があった場合、それに気付くことです。


■ テスト

一応断わっておきますと、ペーパーテストだけで人の内面の全てが測れる、などと考えている先生は1人もいません。

さすがにこれは社会通念であろうと思います。

私が誤解していたのは「記述テスト=知識を測るもの」である、ということであり、

正しくは「記述テスト=知識+作文力を測るもの」だったということです。


■ 喋りができない人も多い

このコメントがかなり多い、ということからしても、いかに「喋れない人」が多いかが伺えます。

これには私も賛同します。

というのも、私自身どちらかと言えば喋れない、喋れるようになるのに苦労したクチだからです。

(しょせん人間は自分を物差しにして判断しがちなのです。)

喋れないのを気にする人が多いのは、現代社会がアウトプット社会であり、喋れる人にとって何かと有利だからでしょう。

 ・喋りも訓練によって能力を高めることができる。

 ・日本の教育では、あまり体系立った喋りの訓練を行っていない。

 ・一部には、先天的な障害で喋れない人がいる。

こうして挙げてみると、「書く」に対して当てはまったことが、「喋る」に対してもそっくり当てはまることに気付きました。


ほげほげ 2013/09/26 17:00 小手先でどうにかなる問題では無い場合がわりとあります
「書字障害」「ディスグラフィア」で調べてみるといいかと

  2013/09/26 18:30 その他にも
・文章化をするに値しないと考えている
というのもあるかと思います。
1+1=2と定義されているというようなことを書かないみたいに
テストにそれを書いてもしょうがないと思って書かないとか

BaruBaru 2013/09/26 19:09 はじめまして
あと、書けるけど離せない人もいます。
かわいそうなことに面接で落ちます。

TESTTEST 2013/09/26 23:53 テストを実施する側はテストの目的を明確にして作成し実施しなければならない。
学校のテストの他に社会では目的に合わせたテストが行われている。
その対象は人に限らないし、無生物だったりもする。

ま 2013/09/27 01:33 高2から英国で10年ほど過ごしたものですが、向こうでは
論文を書くために「型を身に着ける」学習をかなりやる印象です

「知識はあるのだが文章化できない場合」はままあり得る現象だと
認識されているようです

堺 2013/09/27 01:37 さすがです。

レポート試験採点経験者レポート試験採点経験者 2013/09/27 18:53 レポートしては通用しない文体で記事を書いていることで、説得力を損ねていることが残念です。まずは、「小手先のテクニック」として、「一文ごとに改行。改行ごとに空行を挿入」がレポートの「型」に即していないことは、押さえておきましょう。

笑える笑える 2013/09/28 08:48 レポートとブログの区別もつかない知能レベルの人が、「他人の文書を採点します」とかって何かの冗談でしょうか?
いろんな人が釣れて先生も大変だな(笑)

GanesaGanesa 2013/09/29 13:50 大反響!やった〜( ̄▽ ̄)ノ

三文芝居三文芝居 2013/10/01 02:45 こんにちは。
めっちゃ勉強になった記事でした。
こういう人っていますよね。

逆に、話すよりも文章の方が洗練された内容の人もいる気がします。
話すときは思いつくままに話して、何が重要だか説明だかわからないけど、文章にするときは起承転結を意識して書くから理解しやすい、みたいな。

聞かれたことに答えられるけど、文章で説明できない人は、何が重要で何が重要でないかという判断が苦手な人かもしれませんね。

hirrotahirrota 2013/10/02 16:55 「子どもが見たまま、感じたままを綴る学校作文」というのも変なんですよね。
子供がユニークに感じたままを綴っても教師が解釈した思い込みに直させてしまいますから。
僕は読書好きでしたので書く事も苦労しませんでしたが、作文で表現し難い事を自分なりに工夫して書いても意味の違うありきたりな事に直されてしまって作文が嫌いになりました。
(なぜそう言わなかったか?と思うかも知れませんが、書いた事よりうまく言えるとも思えませんので…別に先生が嫌いになってはいません、むしろ好きですが仕方ないなと思っただけです)
理系授業では何も問題ありません。
どっちかと言うと、理系では口より文章と図を組み合わせた説明の方が通じますね。
どうやらマンガのおかげで、僕ほどの作図説明能力は少ないようです。

三鷹三鷹 2013/10/10 09:38 ブログとレポート,まあ違うけど、文章を書くという意味では同じようなもんでしょう。

さて、「書けないけど喋れる」ですが、その逆の「喋れるけど書けない」もおおいですよね。やっぱり,何事にも限界あがるのであらゆる側面から総合的に評価するということなんでしょうか。でも、書けないというのは、後々社会にでて致命的になる場面が多いと思うので、書けない学生はよくよくそのことを考えた方が良いと思います。

えねる〜ぷえねる〜ぷ 2014/01/13 23:03 このブログの別の記事を見ていた時、この記事名を見て「NO」という答えを持っていたため、興味を持ち読んでみました。

私は、自分では「喋れる人」で「書けない人」だと思っています。
そんな私が思った「違い」は相手が明確かどうかだと思います。[喋る」という状況では、相手の顔を見ながらで、「書く」という状況では、相手の顔を見れないということです。
そんなの当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、この「違い」が大きなものになると考えます。
 それは、何か?
相手の力(知識)を推し量りながら、知識を形に出来るかということです。もし、このコメントを見ている人が「志学」を超えているような人なら、何の苦もなく読むことが出来るでしょう。しかし、「志学」って何と思う人も少なからずいます。
ここで立ち返ると文章とは、相手がいることで成立するものです。相手がいなければ、文章を綴る意味はありません。文章とは、相手を思い、綴るものです。ですが、論文のような誰が読むかわからないものでは、相手を思うことが出来ません。読む人が、理数系なら運動方程式を理解できない人はいません。でも、文系の人なら何それと思う人が大多数のはずです。
人を思わないで文章を書いている人には、理解できないかもしれません。でも、私は無理なんです。そんな些細なことが気になってどこまで書けばいいかわからないからいつまでも悩み、文章を綴ることが出来ないのです。
その例は、誰しもが分かるはずです。小学校のときに書いた感想文です。採点をするのは、先生ですが、授業で発表させたりもします。ここで、相手にどちらを選ぶかによって書く内容や口調にも、小さくはない選択をせまられるはずです。
コナン君だって、金田一少年だって、犯人につながる手がかりがいくつもあって、複数の人々が犯人たりえたら、指をつきたてる事は出来ないんです。事件現場が特殊でその人にしか実行出来ないような状況だからこそ、指をつきたてられるのです。
相手の力を計ろうとするなら、そのための必要十分な条件を提示しなければならないはずです。
「書けない人」の中には、相手を思いやることの出来る日本人だからこそ、書けない人もいるのではないかと考えました。
こんな考えに基づき、今の日本の教育は、小学校、いや、もっと小さいときから、一般的(人間的)な考えの分からない社会になじめない子供たちの足きりをするために行われている、そう思います。

いわゆるいじめだって、これの一種です。多くの人とは違う「喋れない人」を少数だからといって、つながりから切り離し、孤立させてゆく。
すべては、いかにも人間的な行い(少数を軽んじて見下すこと)をしてきた、日本の教育(先生)を見て、子供が真似しただけの当たり前のことなんです。

だから、この記事を読んだとき、そこにいじめが隠れているのではと思い書かせていただきました。
なんのまとまりもない駄文ですが、読んでくれた方が少しでも、自分の行動を子供が見ていること自覚いただければと思います。
こんだけ書いて言いたいことは、これだけです。ほんとに、書けない人だなと、自分でも再認識してしまいました。
以上です。

rikunorarikunora 2014/01/15 14:07 えねる〜ぷ様

まず気付かされたのは、明確な相手を意識して「喋る」、「書く」ということです。
相手が居ることこそが、書くことの最大の鍵であったと、今更ながら気付きました。
私が何かを書くときには、必ず脳内に仮想の相手が居ます。
これも当然のことだと思っていました。(嫌味であったら申し訳ないですが。)

相手を思って喋る、書く。
言い古された言葉ですが、これこそが基本中の基本だと再認識しました。

私は小学校の頃、感想文が大嫌いでした。
感想文とは、先生に気に入られるように嘘をつくことである、と思っていたからです。
今思えば、本音を書けば良いだけの話です。

ひょっとして、書けない人というのは、相手についてあれこれ思い悩んだ末、
「嘘をつくことはできない」と頑なに貫いているのかもしれない。
あるいは、喋るのが苦手な人も、絶対嘘は言わないようにしよう、と思っているのかもしれない。
そんなことを考えました。
絶対に嘘を言わない方法は、ただ1つ、何も喋らないことです。
それ以外には無いと思います。

このコメントを読むと、非常に強い想いが伝わってきます。
つまり、書けている、ということです。
だから、えねる〜ぷさんは「書けない人」ではありません。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証