量子力学序説 湯川秀樹(1947)

亡き父の書棚を整理していたら、この古い本が見つかった。

かの湯川先生の手になる著作なのだが、着目すべきはこの本が発行された時代である。
奥付を見ると、
 昭和二十二年二月一日初版印刷
 昭和二十二年二月十五日日初版發行
とある。

終戦後間もない“お腹を空かしていた”時代に、このような量子力学の本が出回っていたこと自体に驚く。
確か仁科研の逸話だったと思うのだが、食うや食わずの状況下で、
何の腹の足しにもならない“物理学研究”に固執する日本人の姿に、GHQはむしろ呆れたと言う。
それと同じ匂いが、この本から感じ取れる。
奥付には「湯川」の検印があり、何かとてもありがたい本のような気がしてくる。


不確定性原理が記述されたページ。「ガムマ線顕微鏡」の「思考實驗」というあたりがおもしろい。

序文を見ると、原稿が完成したのは「昭和十九年十月」とある。
その後「東京の印刷所の強制疎開組版がこはされてしまつたので出版が非常に遅れ」、
「今回改めて京都の印刷所で組み始めることと」なって、やっと出たのがこの本である。
序文の最後には「昭和二十年十二月」とあるので、正に終戦を境に作られたのだと分かる。
つまり、湯川先生は少なくとも昭和十九年までは原稿を執筆し、
印刷所は終戦の最中にあって、何とかこの本の印刷にこぎ着けたわけだ。

本の中身を見ると、カタカナ表記が少ないことに気付く。
エネルギーは「勢力」であり、Plank や Einstein は原語表記となっている。
ただし「ベクトル」「オブザーバル」などはカタカナ表記なので、カタカナが全く無いわけでもない。
また、「波動力学」と「行列力学」の対比から、一般理論に向かうという章立てが為されている。
 第二章 波動力學
 第三章 行列力學の方法
 第四章 量子力学の基礎概念
 第五章 一般理論
今、「波動力学」とはあまり言わないと思うのだが、原点に返ると、これが素直な順序のように思う。
私は長らく「なぜシュレーディンガー方程式は行列なのか?」と疑問に思っていたのだが、この順番にたどると成立過程がよく分かる。

本には「定價80.00」とあるのだが、終戦直後の100円の価値はいったいどの位なのか。

 ・公務員の初任給(月給)・・・540円
 ・日雇い建設労働者日給(全国平均1人1日あたり)・・・7円50銭
 ・下宿料金(月額)・・・100円
 ・食パン(1斤・450g)・・・1円20銭
   -- 所場代300円 現在の貨幣価値では?昭和21年当時の物価まとめ、より。
   >> http://locatv.com/beppin-300yen/

この数字から察するに、少なくとも数万円は下らない高価な本だったと分かる。
もし食パンに変えれば66斤になったわけで、GHQが呆れる気持ちも分からなくはない。

当時貧乏学生であった父は、何を思って66斤の食パンをがまんして、酔狂にもこの本を手にしたのだろうか。
当時の時代背景と父の年齢からして、この本の内容を深く理解していたとは到底思えない。
あるいは金額からして、父の父である祖父が本代を出したのかも知れない。
それにしても“食えない高額なもの”を買ってしまった、という事情には変わりない。
ここで、量子力学とは何なのかを思い起こすと、それが「新型爆弾」の基礎であったことに思い至る。
当時の日本は「新型爆弾」を落とされて、全く意気消沈していた時代である。
そこに、量子力学という本があった。
 「日本にも、こんなすごい学門がある。」
おそらくこれが、父がこの本から唯一確実に受け取ったメッセージであり、この本の真の価値なのではないか。

ちなみに、湯川秀樹ノーベル賞を受賞したのは1949年(昭和24年)。
なので、この本はノーベル賞の直前に発行されたものである。
そう考えると、実は二年間本屋にスタックされていたものを、
ノーベル賞のニュースに浮かれてミーハーな理由で購入したのかもしれない。

さて、現在この「量子力学序説」は刊行されているのかというと、
どうやら廃版となり、古本だけが残っている状況らしい。
さらに検索したところ、理系本の収集家である“とね”さんが同じ本を持っているとブログにしたためてあった。
* 量子力学序説(湯川秀樹著):昭和22年初版本
>> https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/bf5b874acf0b81d58d4bf8d8e66c6adf
今後、復刊されるかどうかは分からないので、興味ある方は今のうちに古本を探してみるとよいだろう。