打吹城(鳥取県)1~2

田内城・巌城(釈迦堂、路駐)
1337年(建武4)、山名時氏伯耆守護となった時に築城し、嫡男・師義を入れた。
延文年間(1356〜61)に打吹城へ引っ越して廃城になったけど、戦国期に出城として使ったよう。
 
矢印があるけど、奥は墓地。
どこから登るのかよくわからず。
  
見日千軒といわれる程に繁栄した城下町は、1544年(天文13)の大洪水で流された。
岩壁の岩阿弥陀は、亡くなった人々の供養に1714年(正徳4)に刻まれたものらしい。
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打吹城(P倉吉博物館)
1524年(大永4)、尼子経久伯耆侵攻で山名氏没落。(大永の五月崩れ)
羽衣石城・南条氏の持城となったけど、関ヶ原後は米子城中村忠一の管轄になり城番が置かれた。
 
すもう場の先から山道に入る。
暑くてフラフラだから踏み込まず。
  
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山名氏豊館(大岳院、P観光駐車場)
南条氏の家臣・山名氏豊が、打吹城の北麓に居館を構えたとか。

  
1614年(慶長19)、老中・大久保忠隣の失脚に連座して、転封という名の配流で倉吉に来た里見忠義。
南総里見八犬伝のモデルらしい。
8人の家臣と共にお墓がある。
 
荒尾家の家臣を辞めた岩室宗賢は、京で医術を学び開業。
娘・大江磐代は宮家に仕え、閑院宮典仁親王の寵愛を受けて3人の子をもうけた。
119光格天皇の生母らしい。

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★倉吉陣屋(成徳小学校)
1632年(寛永9)、池田光仲が因幡伯耆を領すると家老・荒尾嵩就を入れ、ココに陣屋を置いた。