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繭の日々、祈りのかたちへ このページをアンテナに追加

 

2015-07-26

検索などで、今でもこのアドレスに遊びにきてくださっているかたへ。2015年現在に更新しているブログこちらです。

2012-03-13

再読性のセンス・オブ・ワンダーと一回性のセンス・オブ・ワンダー、ということを考えたりする。とある本を「好きすぎて読み返せない」と誰かがいうとき、そこにはなにか、真実が眠っている可能性だってあると思うのだ。

ボルヘスの『アトラス』という紀行文が好きで、これならばいつでも読みなおしたい気がする。あざやかなカラーの写真入り、いっけん素っ気なさそうでいて、秘密の解きあかせぬ文章。けれどうーん、個人的には、『伝奇集』の再読はあまりしたくない。トレーンの謎もウクバールの謎も、オルビス・テルティウスの謎も、永遠にそのままであってほしい。驚異の源泉の質がこの二冊でちがう、そういうところがあるのだろうか。ここまでは、ひとつの例。いったんボルヘスから離れてみても、アイデアが重視される小説はあまり再読したことがない。もしもするとしたら、はじめは見おとしていたような、アイデア以外の何かをすくいとりたくて読む。それがうまく行くとは限らないけど。

さてしかし、いろいろと理屈をあげつらってみても、それらはまだ未成熟のもので、自分にとってさえあまりおもしろいとは思えない。現時点での予想なんて、つぎつぎと裏切られていくことだろう。ああ『うまやはし日記』はすごい、『バスラーの白い空から』みたいな本は見たことないなあ、そんなふうに一冊の本たちに分け入っていくほうがおもしろそうだ。読み返すための本が、まだまだ幸福なかたちで訪れてくれますように。

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このブログは、とりあえず以上の更新をもってお休みとさせていただきます。またいつか、どこか別の場所でお会いしましょう。今後ともよろしくお願いします!

2010-09-22

ひとつの本を読みながらこころは「いま、ここ」を離れて同じ作家のむかしの本に向かっている。響き、におい、温度、そういったものを思い出しながら目の前の一冊とそれとなく比較している。思考している。あるいはべつの作家の作品が、錆びついた記憶の井戸の底から急に浮上して、はっと意識される。さらにあるいは存在する本を読みながら存在しない本を夢想する。まだ書かれたことのない、あの作家この作家だれでもない作家の最高傑作。


佐々木マキ『HELP!』(トムズボックス)はもともと期待値が低いまま手にとったが、やはり『佐々木マキ作品集』(青林堂)が産み落とした小さな子供のような印象を受けた。数ページ読んで直感して、あとは頭の中にある『佐々木マキ作品集』のエッセンスをすこしでも再生しようという読書に切り替わる。


佐々木マキ作品集』は素晴らしかった。「素晴らしい」という文字のように天候の晴れた心地のする稀少な体験。読み終わってしばらくは目の良さと光の感度が150パーセントになって頭も冴えるので、部屋から外に飛び出したくなる。外に出てぼくだけの言語で叫ぶ。ことを想像する。


かれの初期のマンガは「どこでもない光景」の愉快な紙芝居だ。あまりにも奇妙な状況の描かれた開幕の意味を読者が考えるひまもなく、かれはもっともっと変な絵をひきつづいて連射してくる。その光景は奇妙といっても、逆柱いみりのような夢魔の犇めく濡れた市街図とは異なる。物語にはつながっていかない。どこまでも絵だと思う。ことば本来の意味での「漫画」の伝統。西洋的なるポップアートの血。そういったものを感じさせる。なんでもないさまざまな空間にレモン爆弾をつぎつぎに置き残しては去っていく、ひとりの風のような絵描きの姿が脳裏に閃く。そしてなによりここには前衛の熱さがある。時代も関係しているのだろう、ページから掌にかあぁぁっ、と伝わってくる。そのかあぁぁっ、は今の時代のマンガだとなかなか得難いものなので、ぜひ多くのひとに知ってもらいたい。とうとうつりたくにこまで復刊してくれた青林工藝舎なら、やってくれるのではないかという期待を打ち消せない。打ち消そうとしても飛び跳ねる期待にほとんど困ってしまう。


というわけで、マンガの話なのだった。あ、トムズボックスはいろいろ面白い本を出していますよ、と最後にフォローをさせてもらおうw

2010-05-15

遠未来、荒廃した星を舞台にした物語で、かつての文明の遺品が登場する。それはたとえば一個の小さなラジオで、当時そのままのプログラムを完璧に反復しながら放送している。一時代のみに意味をもった「声」を、永遠に虚空にひびかせている。


ありきたりなシチュエーションなのかもしれないが、心臓の中心をつかまれる。


その「声」は、投壜通信ですらない。その壜は、地を離れ海の水に接した瞬間に溶解していく。届かないメッセージ、不可能なメッセージの、まさにその不可能性に由来する美しさ。未来から振り返る過去、それはすなわち《現在》であって、《現在》がとほうもなく懐かしいなんてありえないはずなのに、ありえてしまう。その感情が強さをもってしまう。


この宇宙には、どんなファンタジーよりもSFよりも不思議な世界がひとつだけあって、それはわたしたちの住む地球そのものだ……と言ってみせたのはだれだっただろう。


ほかでもない、重力に束縛されているわたしたちの想像力が、祈りが、限りなく飛翔する物語を産み落とすということ。


今日もわたしたちは、《いま、ここ》と《ここではないどこか》のはざまをたゆたっている。

2009-12-01

ぼくがまだ二人だったころ、ぼくは心の中にだけ存在するぼくと会話ができた。それはふだんは目に見えないが、つよくつよくつよく念じたときだけ浮上し、微笑みながらあらわれるもうひとりのぼくだった。ぼくたちは双子のように仲が良かった。この世でただひとり、何でも話せる友だちだった。じっさい何でも話した。かれとだったら、いくらだっておもちゃなしで時間をつぶせた。



ぼくたちは気がくるっていた。ちがう、くるっていたとみなされた。だれもまともにとりあわなかった、ぼくたちが大人たちに訴え投げかける切実な主張や問いは一過性の、「子ども」の戯れ言あつかいされた。それでもぼくたちは自分たちの正しさを信じて疑わなかった。



いつしか、もうひとりのぼくは出てこなくなった。想っても想っても呼び出せなくなった。想いそのものが弱まったのかもしれなかった。そのうち、想うことすらしなくなった。大人になったぼくは、かれを忘れたことも忘れかけている。ぼくはあのころのぼくが憎んでいた人間になってしまったのだ。当時の話の内容もひとつたりともおぼえていない。だけど、この前ある書物を読んだとき、心のどこかが刺激されてかれのことを少しだけ思い出した。思い出せそうになった。かれがたしかに「いた」ことだけは、今でも脳のどこかに焼き付けられているのだ。外傷が残っていて、ときどき疼くのだ。



よういどん。たったひとりになった大人のぼくと子どものぼくたちがかけっこを始める。大人のぼくはかれらに追いつけない。速い。どうしてそんなに速いんだ。かれらは先にゴールに到着して手招きをしているけど、からだは凍りついたようにちっとも先に進まない。