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繭の日々、祈りのかたちへ このページをアンテナに追加

 

2015-07-26

検索などで、今でもこのアドレスに遊びにきてくださっているかたへ。2015年現在に更新しているブログこちらです。

2010-09-22

ひとつの本を読みながらこころは「いま、ここ」を離れて同じ作家のむかしの本に向かっている。響き、におい、温度、そういったものを思い出しながら目の前の一冊とそれとなく比較している。思考している。あるいはべつの作家の作品が、錆びついた記憶の井戸の底から急に浮上して、はっと意識される。さらにあるいは存在する本を読みながら存在しない本を夢想する。まだ書かれたことのない、あの作家この作家だれでもない作家の最高傑作。


佐々木マキ『HELP!』(トムズボックス)はもともと期待値が低いまま手にとったが、やはり『佐々木マキ作品集』(青林堂)が産み落とした小さな子供のような印象を受けた。数ページ読んで直感して、あとは頭の中にある『佐々木マキ作品集』のエッセンスをすこしでも再生しようという読書に切り替わる。


佐々木マキ作品集』は素晴らしかった。「素晴らしい」という文字のように天候の晴れた心地のする稀少な体験。読み終わってしばらくは目の良さと光の感度が150パーセントになって頭も冴えるので、部屋から外に飛び出したくなる。外に出てぼくだけの言語で叫ぶ。ことを想像する。


かれの初期のマンガは「どこでもない光景」の愉快な紙芝居だ。あまりにも奇妙な状況の描かれた開幕の意味を読者が考えるひまもなく、かれはもっともっと変な絵をひきつづいて連射してくる。その光景は奇妙といっても、逆柱いみりのような夢魔の犇めく濡れた市街図とは異なる。物語にはつながっていかない。どこまでも絵だと思う。ことば本来の意味での「漫画」の伝統。西洋的なるポップアートの血。そういったものを感じさせる。なんでもないさまざまな空間にレモン爆弾をつぎつぎに置き残しては去っていく、ひとりの風のような絵描きの姿が脳裏に閃く。そしてなによりここには前衛の熱さがある。時代も関係しているのだろう、ページから掌にかあぁぁっ、と伝わってくる。そのかあぁぁっ、は今の時代のマンガだとなかなか得難いものなので、ぜひ多くのひとに知ってもらいたい。とうとうつりたくにこまで復刊してくれた青林工藝舎なら、やってくれるのではないかという期待を打ち消せない。打ち消そうとしても飛び跳ねる期待にほとんど困ってしまう。


というわけで、マンガの話なのだった。あ、トムズボックスはいろいろ面白い本を出していますよ、と最後にフォローをさせてもらおうw

2010-05-15

遠未来、荒廃した星を舞台にした物語で、かつての文明の遺品が登場する。それはたとえば一個の小さなラジオで、当時そのままのプログラムを完璧に反復しながら放送している。一時代のみに意味をもった「声」を、永遠に虚空にひびかせている。


ありきたりなシチュエーションなのかもしれないが、心臓の中心をつかまれる。


その「声」は、投壜通信ですらない。その壜は、地を離れ海の水に接した瞬間に溶解していく。届かないメッセージ、不可能なメッセージの、まさにその不可能性に由来する美しさ。未来から振り返る過去、それはすなわち《現在》であって、《現在》がとほうもなく懐かしいなんてありえないはずなのに、ありえてしまう。その感情が強さをもってしまう。


この宇宙には、どんなファンタジーよりもSFよりも不思議な世界がひとつだけあって、それはわたしたちの住む地球そのものだ……と言ってみせたのはだれだっただろう。


ほかでもない、重力に束縛されているわたしたちの想像力が、祈りが、限りなく飛翔する物語を産み落とすということ。


今日もわたしたちは、《いま、ここ》と《ここではないどこか》のはざまをたゆたっている。

2009-12-01

ぼくがまだ二人だったころ、ぼくは心の中にだけ存在するぼくと会話ができた。それはふだんは目に見えないが、つよくつよくつよく念じたときだけ浮上し、微笑みながらあらわれるもうひとりのぼくだった。ぼくたちは双子のように仲が良かった。この世でただひとり、何でも話せる友だちだった。じっさい何でも話した。かれとだったら、いくらだっておもちゃなしで時間をつぶせた。



ぼくたちは気がくるっていた。ちがう、くるっていたとみなされた。だれもまともにとりあわなかった、ぼくたちが大人たちに訴え投げかける切実な主張や問いは一過性の、「子ども」の戯れ言あつかいされた。それでもぼくたちは自分たちの正しさを信じて疑わなかった。



いつしか、もうひとりのぼくは出てこなくなった。想っても想っても呼び出せなくなった。想いそのものが弱まったのかもしれなかった。そのうち、想うことすらしなくなった。大人になったぼくは、かれを忘れたことも忘れかけている。ぼくはあのころのぼくが憎んでいた人間になってしまったのだ。当時の話の内容もひとつたりともおぼえていない。だけど、この前ある書物を読んだとき、心のどこかが刺激されてかれのことを少しだけ思い出した。思い出せそうになった。かれがたしかに「いた」ことだけは、今でも脳のどこかに焼き付けられているのだ。外傷が残っていて、ときどき疼くのだ。



よういどん。たったひとりになった大人のぼくと子どものぼくたちがかけっこを始める。大人のぼくはかれらに追いつけない。速い。どうしてそんなに速いんだ。かれらは先にゴールに到着して手招きをしているけど、からだは凍りついたようにちっとも先に進まない。

2009-11-27

円城塔に「傑作しか書けないのが弱点」とまで書かれてしまったテッド・チャンの新作がいよいよ「SFマガジン」誌上に到来する。迫ってきている。



原書で読み終えた識者たちがこぞって絶賛しているところをみると、その弱点は今回もまたカバーできなかったのだな、とにやにやしてしまう。期待という花は開花をいまかいまかとうかがっている。咲き狂う花びらの一枚一枚すらも忘れがたい鮮烈な残像を残す、そんな作品であればいいと願う。たとえばジョン・ヴァーリイのそれのように。



チャンはあるインタビューの、「本屋で働くとしたらスタッフのおすすめコーナーに何を置きますか?」という質問に対する答えとしてアニー・ディラードの本をあげている。ディラードを精神的支柱に据えている作家の作品なら信頼できないわけがない。



たとえば『本を書く』。この本は進行中の書き手にすぐさまの飛翔を約束するものではないが、未来に何かを書く際の最高点を、到達の限界点を思いきり引き上げてくれるにちがいない。志(こころざし)という一語の響きの陳腐さと、その意味範囲の絶大な広さの溝を思う。



あの日誰かがイタチに出会い交感が生じたように、チャンの作品にも誰かが出会ってびっくりすればいい。その驚いた顔にチャンもまた驚くかもしれない。



いつか、かれの夢の書店に行ってみたい。ディラードの本を好きな人はディラードをまわりに勧めたがってうずうずしているにきまっているのだから。そしてチャンの本もまたそうなのだろう。そうなればいい。

2009-11-26

フィクションのなかから抜け出てきたような人間が、とても好きだ。わたしたちが虚構の大地を旅することができないときでも、そこからこちらにやってきてくれる生命。広大なこの惑星のどこかにいると知るだけで、救いに、希望になりうる存在。かれらは現実をかき乱す。豊かにしてくれる。



雪舟えま。盛田志保子。土方巽。雪雪。……この羅列はほんの一例にすぎない。あなたのまわりにもいるはずだ。なにも文章の書き手でなくたって、とびっきり面白いひとが、ひとりくらいいるはずだ。地球生まれの異星人、エイリアンが。「プーティウィッ?」



「現世」というあまたあるうちのひとつの世界に不時着したかれらの発するそのことばは、しばしば誤解され、狂気とみなされ、稀に天才とも呼ばれる。「はみだしもの」のかれらが「ふつうの」ことばにまみれて窒息してしまわないか、それだけを心配してしまうのだけど、じっさい生きづらそうに生きているかれらをたまに目撃してしまって、いたたまれなくなる。



かれらはたまたまたどり着いた地球での生を終えると、もとの星にもどっていくのだろうか。それとも来世では生まれ変わって適応する種族になるのだろうか。それはだれにもわからない。



いのちというものはほんとうに不可思議だ。

2009-09-22

荒巻義雄という作家が輝いていたころのことをおぼえている読者はけっして多くはない。かれの真珠は、柔らかく、脆く、涙を残して雪のように溶けた。わたしたちは、その涙の跡を踏みしめ、屍となって倒れる日まで、少しでも先へ進まねばならない。『神聖代』という物語の結末における<種子>のように、祈りを孕む風に乗り、遠くへ旅せねばならない。みなもとからどれだけ離れようと、いかな苦難を引き受けようと、彷徨わねばならない。それでもまちがいはない、出発することは正しかった。あそこにはひとつの「理想の物語」の断片が息づいていたのだから。

2009-06-05

(きょう一日、神様になってくれる?)


ある日、だれかに唐突に言われ、全能の存在になる。万物を統御できるとして、どのような望みをかなえよう。どのように世界を改変しよう。


(なにをやってもいいんだよ)


想像力を駆使して、欲望のおもむくままに。それでも、わたしたちはマンガネッリという異邦人の夢みたような王国を、おそらく創造できない。『現代イタリア幻想短篇集』(国書刊行会)におさめられた、「虚偽の王国」。


琥珀のようなオブジェに封じこめられた、この世の模造。血が流れ、殺戮が起き、残虐なできごとが息もつかせぬペースでつづく。けれどそれはどこかぼんやりと非現実的でもあって。早回しの戦争映画の鑑賞をするまなざし、かれが読者に強制するまなざしとはそのようなものだ。強い妄想は、弱い妄想をけもののように飲み込む。


かれのことを、わたしはほとんど何もしらない。ただ、書物のなかでしめされるごく短い経歴に、反抗者としての文学者という生を感じとる。既存のスタイルの否定に否定をかさね、最後の地点で選択された文体。それを、だれかは「無のポエジー」と名づけたらしい。たしかに、これは「無」だ。乾ききっている。失われた水分を求めることすら求めない、その冷徹さ。きびしさ。辛辣さ。


邦訳はこの一篇のみ。ならば待とう、超短篇集『センチュリア』を。たぶん、みられるはずのない光景だ。絶望の百物語でも、目をそらさない覚悟はもうできている。

2009-05-29

金子千佳の『遅刻者』は、エリュアールにささげられている。エリュアールとは、「自在」をキーワードに、水流が、そのかいなを地に這わせるように、ゆるやかにのびひろがっていくタイプの詩人ではなかったか。だが『遅刻者』の金子千佳は、かれとはことなり、「不在」こそをキーワードに、内部へ内部へと閉じていく。遅刻、とはつまり「ここにいない」ということだ。タイトルにしてからが、「いま、ここにあらず」のけはいを濃厚ににおわせている。「あなた」がいない、そのことに、「わたし」は諦念をいだき、自己をも無に近づけて孤独に瞑想する。そのささやかな瞑想の、あるかなしかの吐息のような瞑想の冥さに、わたしはおそれおののく。


それに対して『婚約』は、『遅刻者』の自閉した世界の殻をつきやぶり、未来への期待のよろこびにあふれている。婚約とは、まだおきていないポジティブなできごとの約束である。これから、あなたとわたしは結婚するのだ。希望が咲いている、咲いている、爆発するように咲きほこっている。読む側がいきぐるしくなるほどの、まぶしいことばの奔流。観念性はうすれ、具体的な事物のイメージがみだれとぶ。耳鳴りがする、同時に、明るすぎてまぶたを閉じたくなる。苦痛と紙一重の快楽。やめて。そのやめての声のはるかかなたに待ちうけるさいはての桃源郷をいっしんにめざすかのように、金子はことばをつむぐことをやめない。


「あなたは何がほしいか、ひとりでこうしているとまなざしのおく、かなたにやどる千の行方を思い出す(千のゆくえ)その名にふくまれた約束の花、すみわたるにおいに咲きこぼれる昔に(あなたはなにがほしいか)気配を感じていながらふりかえろうとはしない(繭の日々、祈りのかたちへ)唱えかえされた言葉の後ろ姿をおぼえている(紡がれてゆく)その日を迎えるたびに変化してゆく(からだのすみずみまで)わたしの稜線を描き出そうとする絵の中の(ひとりの女のように)名はなかったたしかその物語では(木のものだった)だきしめようにもだきしめられずにあなたはわたしの輪郭をそのあついゆびさきでなぞる(名をつけてゆく)ここはあなたの体温より低いものうく、はりだした窓のような場所、ここから何がみえるだろういったい、もうすこしひくく、いやたかくともよい。背伸びをしながら両手でつかまえようとする(いやいやをする)この帽子はわたしによく似合うでしょう、つばのひろい編み具合もやわらかくまるで、まるでこれは(なだらかに弧を描き)小鳥の巣に向けて走る波打ち際の線路か、むすばれて首筋から落ちてゆく夏の日差しがまたひとすじ、ふたすじと落とす影の言葉、影の腕にかくれてはわらってみせる、ここまでは来られないここまで来てほしいここで待っている、大きな樹木の名をわたしたちはたしかめあう木の肌に頬をつけ(ぬくもりを伝えよ)名をくりかえす影の木。
あなたはなにがほしいか、
このわたしの名をくりかえす
いちにち、ものうげにおもう、かつて天窓から差し出されたきんいろの
(あれをください)
まぶしく目をふせる
あなたはなにがほしいか、
目深に帽子をかぶり
その落とす影を踏もう、こうして。」
(金子千佳「誕生」『婚約』思潮社)


『遅刻者』にくらべ、『婚約』はよりいっそう恋愛のテーマをふかめているとみることもできる。好きという叫びを、猛り狂ったことばに分解し、それを一冊の詩集に再統合する。金子は、『婚約』をさいごに残して忽然と彼岸へと消えた。彼女がみたものをこれからわたしたちはみられるだろうか?

2009-01-13 問い

「なぜ本を読むの?」と問われた。わたしより10倍は読んできたひとに。きれいなものを見たいから。夢を見たいから。とっさにそう答えた。だけど、そのひとのことばを聞いて、その回答は自分のなかですらまったく足りていないことに気づいた。その問いに、大きな意味があることがわかった。その問いに、これから何度も苦しめられるだろうとわかった。


自分を捨てていく、解体していく読書。そういうものを目指したい。絶対に到達できなくても、向かっていくことは無駄ではないから。だけどそのための道が、まだ見つからない。そしてその道は、他者に教えられるものではない。


折り返し地点はすぎている。とっくに。自分から自分が出ていくために、何ができるか。

2008-12-09 「究極の詩集」

「究極」ということばを、いろんな角度からながめてみる。「究極の物語」には、まだ出会わない。もっともうつくしい物語だとか、もっとも格好いい物語ならば、思いさだめている。だけど、「究極」というニュアンスには合致しない。


「究極の詩集」ならば、知っている。きょう出会った。


嵐のように猛り狂った激しいことばを目で追っていく。加速度的に、スピードを上げていく。脳のなかの既知の語彙が、消失していく。銃弾のように、次から次へと新たな文字が襲来する。世界が、風景が、叫び声とともに変貌していく。意識が、早送りで生まれ変わっていく。後記に突入したときに、まだ作品がつづいているのだと思って、そのまま心の冒険をやめなかった。それほどまでに、空前絶後の散文だった。速度と熱が限界すれすれに近づき、言葉の眩しさにもはや耐えられそうになりつつ、やっとの思いでページをめくる。そこには空白、虚無がひろがっていた。勢いあまってなにかを飛びこえてしまったのだ。


帷子耀(かたびらあき)、ただ一冊の詩集、『スタジアムのために』(書肆山田、1973)。忘れない。きっと忘れない。

2008-12-05 (泳ぎ来て…、)

泳ぎ来て背中の星を振り落とす 光の巣という水を飼うべし
(江田浩司『ピュシス ピュシス』北冬舎、2006)

2008-12-03 夢の入口夢の出口

夜明けの草地を散策していて発見した、ひそやかな露。触れると濡れて、ひんやりとする。奇妙な清涼感。あるいはこれは、何か孤独な生き物が落とした涙ではないのか。


コッパードの作品が、そんな情景を生成する。


彼の物語は水分、色彩、光量、音量、あらゆる要素がすべて微妙に保たれている。それらが混然となって、幽玄の雰囲気をつくることに成功している。『郵便局と蛇』(国書刊行会西崎憲編訳、1996)という唯一の邦訳本は、まさに「魔法の本棚」という叢書名にふさわしい。


アンソロジー収録作、雑誌掲載作は十数作あり、ほぼチェックしているが、ひとつ選ぶなら、「アダムとイヴ」を推す。読み返さない。その必要はない。主人公が誕生していない子供を幻視した、その幻視の残像が、まだ脳裏に焼きついているからだ。


郵便局と蛇 (魔法の本棚)
A.E. コッパード
国書刊行会
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2008-12-02 かけらの呼ぶ声

書店で雑誌をめくる。ひとつの文章も精読せず、断片だけを意識に流し込む。少したって、何事もなかったかのように棚に返す。店を出て、家に帰ろうとする。途中、さっき拾ったあることばが突然明滅する。輝く石のように。気になって気になって道で立ちどまり、とうとう店にもどってからその文章ぜんぶを読んでしまう。


はじめてお母さんに出会ったのは、一九七八年の夏だった。
(谷崎由依母たちの国に迷う 極私的お母さん遍歴記」『ユリイカ』2008年12月号 特集:母と娘の物語 青土社)

エッセイの内容が、この書き出しが想像/創造させる全体像に優っていたかどうか、ここでは書かない。しかし、いい一文だと思う。

2008-11-30 読む前が面白い本と読んでからが面白い本

読んでいないのに面白い本がある。


と、書くとぎょっとするかもしれないが、つまり読んでいないけどタイトルが魅力的な本のこと。あれこれ内容を想像してみるのも楽しみのひとつで、じっさいインターネットでそういう遊びをしているひともいる。今、ちょっとやってみよう。


ラフィク・シャミ「神様がまだ祖母だった時」はふしぎなふしぎな創世伝説、
石川喬司『世界から言葉を引けば』は筒井康隆『残像に口紅を』みたいな言葉が世界から消失する物凄い作品、
川上弘美『どこから行っても遠い町』はカフカばりの不条理譚、
ジョヴァンニ・パピーニ『逃げてゆく鏡』は文字通り鏡が逃げていくぶっとび奇想小説だ!


とか。なかにはいざ読んでみて失望するものもある。無残にも物語の中身がタイトルの喚起力に敗北を喫したのだ。


反対に、読んでいる途中は理解にとおく及ばなかったり印象が薄かったりするのに、ページをめくり終えて閉じた瞬間から、記憶に占める領域が増大していく本が存在する。風船が少しずつ少しずつ膨らんでいくように。


その風船は、けっして弾けることがない。