ルパン、最後の恋

 最初に見かけたのは書店で、どこかの誰かが書いたルパンものなのかと思って買わなかったが、後々にニュース記事などで、モーリス・ルブラン本人のものだと知って驚いた。
 ルパンシリーズを読んでいたのは、どのくらい以前なのか、あまり明確に思い出せないが、小中学生の頃に学校の図書室で借りたようにも思う。読んでいると懐かしくなるような、馴染む文章というような気がした。
 相も変わらずルパンは強靭だし、美女や子供たちにアクションとしぶとい敵たちと、心踊るのだけれど、なんだかどこか悲しい何かをずっと見つめているような感じがしていた。それは分からなかったけれど、読み終えて冒頭の人物一覧に戻ったとき、怪盗紳士という記述を見て、分からなくてもいいかという気になった。
 楽しかった。

剣神の継承者

 なんとなく書店で手に取った。裏表紙の解説で、面白そうに思ったので購入した。種族の話とかも絡んでいるようで、そういう大局観のあるというのか、大きくも小さくも楽しめるものが読みたかったので。
 内容としては、まだそんなに大きな話は動きを見せていないけれど、片鱗があるように感じたし、小さい話のほうは作者があとがきで書いているように可愛い女の子とアクションが楽しめた。こういう話を久しぶりに読んだ気がして、ずいぶん楽しかったように思ったけれど、思い返してみると、もっと盛り上がっても良さそうだし、剣技とかももっと格好良くなりそうに思った。
 今後の大きい話の展開と合わせて、楽しみにできそうだ。

生きる技術

 帯に曰く「負けてくやしがるばかりでは身が持たぬ」。1990年6月に『ちくま哲学の森8 生きる技術』として刊行されたものの文庫版だそうな。
 面白く読めたものもあり、読みにくかったものもあり、つまらなかったものもあり、森毅の解説を含めて 29 編が収められているので、あるものはかなり断片的になってしまってはいる。斎藤隆介「大寅道具ばなし」や浪花千栄子徳川夢声「対談」や W・サローヤン (訳: 関汀子)「ハリー」やマーク・トウェイン (訳: 三浦朱門)「嘘つきの技術の退廃について」やロラン・バルト (訳: 篠沢秀夫)「レッスルする世界」やショーペンハウアー (訳: 石井正)「みずから考えること」や林達夫邪教問答」など面白かったものが多くあり、また石原吉郎「ある〈共生〉の経験から」のように迫りくる生々しさをもつものもあり、ケニヤッタ (訳: 野間寛二郎)「ケニヤ山のふもと」やユーハン・トゥリ (訳: 三木宮彦)「サーメの暮し」のように興味深いものもあった。個人的にはジブラーン (訳: 神谷美恵子)「結婚について/子どもについて」で神谷氏の訳文が収録されていたことが思わぬ喜びだった。氏の訳の「自省録」はごくたまに少しずつ読んでいる好きな本の一冊だからだ。
 生きる技術が身につくといったような本ではなく、かといってこれらの著者が生きる技術を持っているとも思われず、しかし収録作たちのように考えたり記述したりすることに生きることの面白味があるような、あるいは業のようなものを感じた。
 続刊も積んである。次巻を楽しみに、読み進めるとしよう。

たたずまいの美学

  • 日本人の身体技法
  • 著者:矢田部英正
  • 中公文庫
  • 中央公論新社
  • 2011年9月25日初版発行

 2004年3月に中央公論新社から刊行されたものを加筆修正したものとのこと。
 美学などというと、押しつけがましく、自分の満足を悦に入って語るだけのつまらないものに思うが、やはり著者ことだけあってメインは副題の身体技法である。思い返すに美学という言葉が本書の中には無く、たたずまいの美という言葉は特に後半でたまに見かけたくらいで、それは服飾とそれに込められた姿のあり方や、服や諸道具を使いこなすやり方から出てくるといった話だったように思う。これら方法は歴史的な裁ち方への考察や、和服の装着時のシルエットなどの比較や、履き物の調査など、かなりの量の資料から見い出されている。
 同著者の「椅子と日本人のからだ」を先に読んだが、その内容も一部は重複するものの、本書の方が論文調のようで固めで少し最初は読みにくくはあったけれど、圧倒的に本書の方が内容が濃かった。
 中に侍の立ち方が当時の日本人の身体技法を洗練させたものではないか、というような推測があった。坐り方の考察では足腰の柔軟性が日本人の坐り方には大いに必要だという、いくつかの坐り方の比較からの考察があった。私が子供の頃に祖父母の家で見た鍬などを思い出した。その道具は柄に刃が組み合わされていることは、周知だろうけれど、大抵は直角に組み合わされていると思われているような気がする。実際は、もっとずっと急だ。柄を地面に垂直に立てると、刃が自分を狙っているように感じるような角度で、この刃を地面に付き立てるには、柄がかなり低い位置にあるようにせねばならない。大きく振りかぶることは無いにしても、固い地面を掘る勢いを得るには振り上げる。そうなると足腰を使って道具の位置を高きから低きへと、ひと振りごとに変化させねばならないので、足腰の柔軟性は必要だろう。そんなことを思った。
 履き物の写真が見開きでずらっと分類されつつ並んでいるところも面白かった。足半なんていうものは始めて知った。これはむしろ、履く必要性の方が気になるくらいだ。道中下駄なんかは、気持ち悪いようにも思う。
 みっしり濃い内容で、とても面白かった。

椅子と日本人のからだ

 2004年1月に晶文社から刊行されたものだそうな。
 帯に「疲れない椅子を目指して」と「「座る技術」を探求する」とある。ひとつには疲れない椅子がどんなものかに興味があり、もうひとつには身体の使い方を考える材料として座る技術というのに興味を持ったので買ってみた。
 表紙の作りかけみたいな椅子が、実はひとつの到達点らしいことが中に書かれていて、意外に思った。
 最終的には椅子とか座ることとかからは飛躍して、作法というか所作と身体の使い方のような話になって、あまりまとまった内容とも言いがたいのだけれど、著者は体操競技をしていたということで、身体がどのようになっていて、どう扱えるかについては、妙に説得力を感じた。体軸とか中心感覚とか。
 言いたいことは、上半身を支えるのが骨盤の上ではなくて骨盤のところのが良いだろうってことだろうから、最初に全部書いちゃってあるのでそのあとが散漫に感じるのかもしれない。なので、後半は面白い事例集として読んだ。
 もう一冊、同著者の本を買ってあるので、続けてそれを読むことにする。

名人

 囲碁の話。本因坊秀哉という名人の引退碁を追いながら、終局から1年ちょっと後の名人の死を繋げて、その終わりに立ち合う。
 囲碁アミーゴというサイト (http://www.igoamigo.com/) に書かれていて知った。
 冒頭から終局と名人の死があり、死体から名人の人となりを書き起こしてゆき、一方の対局者である大竹七段は、その内弟子を含む家族から書き起こしている。しかし碁盤の上では大竹七段の粘りというか苦悩のようなものが中心で、それは消費時間の差が反映されてもいるのかもしれない。名人が描かれるのは、主に対局の姿勢やその周辺での紛糾を通してで、結局は両対局者ともに客観的に描かれている。しかし、碁は進み、名人の体は弱まってゆく。

名人が私になつかしい人となったのは、その時の姿などが私の心にしみたせいもあるだろう。(59ページ)

というのが読んでいて追体験させられる。
 解説は山本健吉。昭和37年9月のもの。

映像の原則

 前項にて書いた、WEBアニメスタイル内の首藤剛志「シナリオえーだば創作術」(http://www.style.fm/as/05_column/05_shudo_bn.shtml)で紹介されていたのが本書。編集や校正がちゃんと入っていないのか、誤字脱字が散見されるが、そうした分かりにくさを推測で乗り越えれば、内容としてはとても面白いものだと思う。
 映像に特化している部分と、映像で表現するものとの関わりについて述べている部分とが混在しているが、それによって如何に作るかという視点が明確であり、理想形と、それを現実化する工夫と妥協点が、とくに後半では軸になっているようだ。前半は、固定された枠の中に作られた絵と感覚の相関といった基礎的な話が主にある。
 前半を読んでから、画面を意識するようになった。描かれている内容はもちろん追うが、どう描いているかということを、画面という固定サイズの枠との関連で見るようになった。こういう見え方も面白い。
 中盤から後半にかけては実践的になってきて、映像表現に特化した部分の中にストーリーやその演出の話がちらほらと出てくる。演出がどういうものなのか、おぼろげに見えてきたような気がした。