りばそんアーカイブズ #1

 『日本英語教育史学会月報』第161号〔2002(平成14)年3月21日(木)発行〕より、若林俊輔先生を思って書いた文章を再録します。


若林俊輔先生を追憶する


先生と僕

 東京外語の 3 ・ 4 年生のとき、先生の「英語教育学ゼミ」に学んだ。ゼミでは A.P.R. Howatt の A History of English Language Teaching を読み、卒論では A Comparative Study of English Course Books Used in Japan and Other Countries の題で、先生のご指導のもと、モンゴルと日本の教科書の語彙選定の基準について比較を試みた。
 以来、英語教育史学会、語学教育研究所、日本外国語教育改善協議会、それにCOFSという先生のお宅での読書会など、さまざまの場面でお世話になった。就職のときも職場を移るときも、たびたび推薦状を書いていただき、結婚したときには媒酌の労をとっていただいた。


先生と宮田幸一

 学生時代、先生のおっしゃることはすべてが新鮮だった。――「疑問は頭の中にあるもの。それを口にしたのなら質問になる。だから疑問文ではなく質問文と呼ぶべきだ。」「大文字と小文字、どちらが先にあったと思う?こうやってこうやって、大文字から小文字が生まれたんだよ。」などなど。
 中高の教員となって8年目、東京大学の附属学校に職を得たのがきっかけで、ここに長く勤めていた宮田幸一に興味を持ち『教壇の英文法』を読み始めた。疑問文と質問文のこと、大文字と小文字のこと、その他、先生がおっしゃっていた多くのことの原型がこの本の中に見出せた。
 あるとき、失礼ながら先生にこう申し上げたことがある。「先生のおっしゃっていたことは、『教壇の英文法』に書いてありますね。」すると、先生はこうおっしゃった。「僕は宮田先生の本を読んで、たくさんのことを教えてもらったんだよ。」
 その数か月後、大修館書店の『英語教育』が「英語教師を豊かにする100冊+α」という特集を組んだとき、先生は「英語教育を真剣に考えるのならばこのくらいは」と題して、宮田幸一くらいは読んでもらわなければ困るということをお書きになった。あのとき先生はどんな思いでおられたのだろうと今でも考えている。


先生と「女学館文字」

 3年前、山形での全国大会のとき、「東京女学館の『女学館文字』について」という題で、現在の勤務校である東京女学館で教えている手書き文字の書体について発表した。この書体はD.E.Trottという英国人女性が手本を残したもので、先生によれば、19世紀の英国における改革運動の流れをくむものではないかとのことであった。
 先生はこの文字を愛しておられた。先生はお若い頃(1964年4月から2年間)、群馬高専に勤務するかたわら、東京女学館で講師をお勤めだった。先生が手書き文字の指導に興味をもたれたきっかけは女学館でのこの書体との出会いがきっかけなのだと、ご本人からうかがったことがある。
 この2月26日のこと。この書体を現在から未来に活かすため、4月から1年をかけて、その手本を全面改訂しようということになった。先生に監修していただこう、序文をお願いしよう、きっと喜んでくださるはずだ、と同僚との話は大いに盛り上がった。しかし、そのことをご相談することもご報告することもできないまま、その週末に先生は亡くなられた。


先生と英語教育史

 過激で先鋭的なご主張が大きな魅力でもあったが、一方で、先生は常に歴史のことを頭に置いておられた。この学会に入ったとお伝えしたとき、先生はずいぶん喜んでくださった。以来、毎年の全国大会に必ずお越しくださったことは、たいへんありがたく心強いことであった。
 『教壇の英文法』のことも、女学館の書体のことも、外語の歴史のことも、どれも中途半端できちんとまとめることができないまま先生をお送りしなければならなかったことを深く悔いている。英語教育史の調査と研究こそ、先生が与えてくださった大きな宿題なのだと思う。締め切りは過ぎてしまったが、なんとかして仕上げたい。今、新たな決意とともに恩師を追憶している。


(2002年3月12日)