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白井京月の読書メモ このページをアンテナに追加 RSSフィード


  白井京月の読書メモ  

2014-07-20 平成26年7月読書会「末裔」

末裔


昨日、第1回の「ニコ生読書会」を決行した。大失敗に終わったことは言うまでもない。ただ、クルーズが来たので、20人ほどの人が見てくれた。「棒読みちゃん」もおらず、読書会ではなく、私の独演会になった。まあ、タイムシフトで見ることが出来るので、お暇な人は・・・いないですよね。(笑)

末裔 (新潮文庫)

末裔 (新潮文庫)



絲山秋子氏については説明するまでもないだろう。現代日本を代表する作家だ。私が最初に読んだのは「ニート」だったが、マイノリティを手際よく描いた短編集だったと記憶している。

「末裔」は長編小説である。主人公の富井は50代の男性。妻を亡くし、子供たちは独立していて、一戸建ての家に一人で暮らしている公務員だ。物語は主人公が家から帰ると、ドアに鍵穴が無くなっていて家に入れないというシュールな状況から始まる。どことなく怪奇小説のようでありながら、細部がリアルに描くというのは、考え抜かれた手法なのだろう。

もっとも絲山氏は自身が躁うつ病であることを告白している。であるならば、ドアに鍵穴がない、といった想定は想像力を駆使したのではなく、夢で見た現実のようにも思える。もっとも、それが絲山氏の口から語られたところで、その真偽が不明であることに変わりはない。世の中なんて、そういうものだ。

さて、この小説の確信はどこにあるのか。それは、文庫版の160ページから161ページに書かれている、教養を失った富井家の末裔たちの堕落、そして日本の文化人の堕落だ。少し長くなるが、正確に全文を引用する。

 今でも知識人と呼ばれる人はいる。文化人もいる。だが、教養がない。圧倒的に専門知識に偏っている。教養なんて言葉自体、十九、二十歳の大学生がノルマとして単位をとる講義の範囲に押し込められてしまった。
 教養というのは理念さえあれば、気取ったものでもなんでもない。
 外国語はコミュニケーションをとるために使うものというよりも、その国で長い年月の間に培われた考え方、哲学を発見するたものものだった。ましてや外国旅行のためのツールや、出世の道具なんかじゃなかった。だからあんなに苦労して、物のない時代から洋書を手に入れて読んでいた。
 物理だって歴史だって漢文だってそうだった。文系とか理系とかではなく、上の世代は学問全体が好きだった。分野を超えて広がっていく知識は伯父という人間、祖父という人間の根本と結びついていた。
 僕にはそんな根本はない。そんな能力もない。努力もしなかった。
 大人になってわかった。
 自分はインテリではなかったということだ。知識の量なんかでは計れないがやっぱり絶対量も足りない。そして俺には哲学がない。話題の選択における独特のセンスも持っていない。
 姉や弟は、俺よりたしかに頭はいいかもしれないが、決して父や伯父、祖父のようにはなれない。あんなふうには喋れない。
 富井家の末裔は堕落した。
 俺だけじゃない。日本中の知識人の末裔が堕落したのだ。
 だが、それはなぜなんだろう。
 無責任のようだが、不思議に思う。
 なぜなんだろう。
 ※「末裔」絲山秋子(新潮文庫p160-161)

さて、本物の知識人、教養人とは何なのか。そんな議論すら成り立ちにくい時代になった。いままた、福沢諭吉が持て囃され、政府までが実学主義を声高に主張している。私がそれを嘆かわしく思うのは、自身が知識人の末裔であるという自負によるものなのかもしれないし、それだけではないかもしれない。

教養とは知を愛するということだ。そこには目的などないし、むしろ目的があってはいけない。登山家が山に登る理由を問われた時には、「そこに山があるから」と答えるのが普通である。教養もこれと同じことだろう。単なる懐古趣味などではなく、この小説には時代への怒りと失望、悲しみと嫌悪、軽蔑と救済などが混ざり合い、複雑な味のスープのように仕上がっている。

つまり、時間をかけて、味の変化を楽しみながら食べるべき小説なのであって、2、3時間で一気に読むなどというのは邪道としか言いようがない。ああ、今日は本音を書き過ぎた。この辺でお仕舞いにしておく。

2013-11-11 権力に対する欲望の優位

ドゥルーズの哲学原理


ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)



ドゥルーズの定義する哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野でえある。自然主義を根幹とするドゥルーズの立ち位置と、自由間接話法という独特の方法について解説されている第1章。ヒュームとカントを引きながらドゥルーズを超越論的観念論に位置づける第2章。そして、第3章では、思考は意思によってではなく、強制によって行われるというドゥルーズの考えからと主体性概念が示される。ここに、ドゥルーズが思考の次元から行為の次元へと進むことの必然性が見てとれる。これが、一人のドゥルーズからドゥルーズ=ガタリへという転回の理由なのだ。

第4章は、「アンチ・オイディプス」(1972)を中心に書かれている。ドゥルーズ=ガタリがファルス(男根)の欠如によって欲望を説明する構造主義的なパースペクティブから脱却し、政治経済学的視点と融合することで、真の政治哲学の視座が復活したのだと國分はいう。

第5章は圧巻だ。フーコーが「知への意思」で示した権力論の頂点に対し、ドゥルーズがフーコーに宛てた手紙がある。(欲望と快楽、1977)この中でドゥルーズはフーコーの理論は袋小路であると指摘し、新しい戦略を示唆した。これは「千のプラトー」(1980)の主題と重なる。フーコーのように、権力を抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式で見ている限り、この構図から抜け出すことはできない。これがフーコーの権力論の陥った袋小路だ。これに対してドゥルーズ=ガタリはかつてスピノザが提示した質問を呼び出す。それは「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」という問題だ。そして、人々の欲望アレンジメントを前提として、それに対応する権力様式が生じるのだとする解釈を提示し、権力に対する欲望の優位を主張する。人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐えている。それこそが一つの欲望のアレンジメントだ。もっとも、「千のプラトー」は権力装置の分析に重点が置かれた書物ではあるのだが。

各章の末尾には数ページの研究ノートが付されている。これは簡潔な読み物でもあり、理解と整理に大いに役立つ。この中の一つ「個の心と衆の心」を読んで、私はとても悲しく、そして複雑な気分になった。人の心とは、その程度のものなのか。いったい、他者に何をするべきなのか。もっとも、それよりも前に、自分自身が欲望のアレンジメントを分析し、自由を求め、自由にならなければならないのだ。

2013-04-02 現代世界の構造

虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

9・11以降、世界はどう変わったのか。この本はSFという装いをしているものの、その本質は深い哲学的洞察である。この本を真に理解し楽しむには、ピンカーやチョムスキーの本に接していること、現代脳科学の潮流を理解していること、ゲーム理論や現代政治学についての最低限の知識があることが前提になると思う。

伊藤計劃(いとうけいかく)。1974年生まれ。2009年没。「虐殺器官」は伊藤氏が命を賭けて書いた哲学的活動だ。主人公は米軍大尉であるクラヴィス・シェパード。専門は暗殺。後進国で繰り返される内戦と虐殺。その背後にいる謎の男ジョン・ポール。言語学者にして広告屋の彼は虐殺を生む言語に辿り着いたのか。そのヒントはプラハでのシェパードとジョン・ポール、そしてその元彼女であるルツィアとの会話の中にある。本書では明示されていないが、伊藤氏はこの独自の理論に怯えたのではなかろうか。何かが見えていたのではないのか。これは言語学に対する一つの警鐘だとも感じられる。

合衆国の言語学に対する力の入れようには異常なものがある。インターネットという自由を世界中に強制する一方で、そのインフラを完全に支配し、すべてをデータベース化し精緻に分析する。私もこうして自由にブログを書いている一方で、巨大なデータベースに参加している。すべては掌の上。逃げ出すような力は私たちにはない。

生命とは何か、意識とは何か、人間における進化とは、文化の進化とは、そして世界の仕組みとは。知的好奇心を持つ人々の間でのみ共有できる世界観と対話。この作品は、そういうニーズを十分に満たしてくれた。少なくとも、マスメディアが流している映画を現実だなどと信じているような人々は、この本を読んでも何も理解できないだろう。彼らにとっては映画(マスメディア)の方が現実なのだ。そして世の中は大多数のそういう人たち(B層?)でできている。いったい、私たちと彼らとの間にどんな会話が成立するというのだろう。

「虐殺器官」をフィクションとして読むのか、ノンフィクションとして読むのか、それが問題だ。もちろんフィクションなのだが、その根本には事実と科学の裏付けがある。深い洞察と閃きがある。私は「虐殺器官」の世界観を共有できる仲間を求めている。もちろんそれは危険なことだろう。しかし、今の世界には安全などない。危険を恐れる理由がどこにあるだろうか。

2013-03-22 ムフのラディカル・デモクラシー

政治的なものについて

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

シャンタル・ムフ。1943年ベルギー生まれ。女性。ラディカル・デモクラシー(闘技的民主主義)の主張で有名な女性政治学者だ。本書は政治学の専門書だが、一般人でも十分に読める内容になっている。

ムフは冷戦終了後の世界を、合衆国のヘゲモニー(覇権)に対抗する正統的な回路が存在しない一極的な世界として認識する。それは決して調和的ではなく、新しい種類の敵対性が無数に炸裂する世界だ。例えばテロリズム。それは病的な個人に発するものだはなく、広範な地政学的的条件による必然だとムフは指摘する。

本書の目的は、現在の「ポスト政治的」時代精神に対する批判の基礎となる枠組みを描くことだとムフは言う。ここで「ポスト政治的」という言葉については説明と注意が必要だろう。議論を通じて合理的な問題解決が可能であると考えるハーバーマス的なリベラリズムをムフは否定するのだ。政治的なものが、いまや道徳の作用領域で善悪として上演されていることへの強い懸念。リベラリズムの賞賛する寛容への嫌悪。その理由は、一つの権力がみずからの支配の事実を隠ぺいしつつ世界規模のヘゲモニーを確立しようとしている危機認識に由来する。

ムフは本書でリベラリズムに限らず、第3の道であるコンスモポリタン民主主義、マルチチュードといった各種対抗モデルも徹底的に切り落として行く。リベラリズムの合理主義的で個人主義的な方法は、結果として政治的なものを否認するとムフは言う。ムフの言う政治とは、その本性上の対立だ。われわれ/彼らの区別こそが、政治的なアイデンティティを形成する条件だと考える。そして、そこには宿命的に敵対性が宿る。ムフの思想では、あらゆる社会秩序の本性はヘゲモニー的なのだ。問われるのは、そのヘゲモニーの性質ということになる。

第2章では、政治と欲動についての興味深い記述がみられる。政治的な欲動には「個性と卓越性に向かうもの」とは反対に「群衆の一部として大衆と一体化する瞬間の忘我の境地」があることを指摘する。これは群衆を魅惑する性質がある。そして、合意の意義を強調することは政治的無関心を招くのだと結論づける。人びとが政治的に行動するためには集合的アイデンティティと同一化できなくてはならず、政治の情動的次元は決定的に重要なのだと。そして、政治から情念を除去することを望み、それが可能であると主張する理論家は政治的なものの力学を理解していないと付け加える。現在のネオリベラリズムのヘゲモニーにはいくつもの対抗モデルがある。ここで重要となるのは、政治の本性と目的についての徹底的な再考だとムフは言う。

第3章では、ウルリッヒ・ベックの再帰的近代の理論やリスク社会の概念、サブ政治についてなどげ検討される。さらに、アンソニー・デモンズのポスト伝統社会、つまり左派/右派が時代遅れになっているという説も取り上げる。しかし、ムフはこれが気に入らない。理由は二つある。一つには政治から対抗者の概念を除去しようとしていること。もう一つは、政治的なわかりやすさが消えていることだ。ムフはペリー・アンダーソンの以下の言葉まで引用している。「民主主義的な生活が対話であると考えることの危険は、政治のまず第一の現実が闘争であり続けることの忘却である」言い方はやや過激だが、言いたいのは暴力の肯定ではない。政治が論争の場でなく、単なる操作の場に引き下げられることが、民主主義の危機を招くと主張しているのである。

第4章では、ヨーロッパの最近の事例についての分析が加えられる。右傾化したオーストリアで何が起こったのか。ベルギーはどうだったのか。右旋回したイギルスのブレアの背景。対テロ戦争を背後で操るネオコンの戦略とは何か。この章の末尾ではハーバーマスが徹底的に槍玉にあげられる。コスモポリタンな法が世界中で受け入れられるという夢想に嘔吐を示す。そしてまた、ローティーも以下の点で批判される。ローティーは社会の客体性が、権力の作用を通して構築されていることを認めていない、と。

第5章は「どの世界秩序を目指すのか」という題だ。いろいろな学者の著作や文献に批判が加えられる。ダニエル・アーチブスの「コスモポリティカル民主主義」に対しては、構成員のあいだで権力が不均等に配分されている国連を強化し、より民主的に改革することが可能と考えるのは非現実的であるとして却下する。さらに、メアリーカルドーのように、民主主義的な手続きをグローバルなレベルで再構成できるとも考えてはいない。マルチチュードに至っては何の戦略もないもので、第二インターナショナルを想起すると一刀両断だ。とにかく、ムフは統一された世界という幻想を捨てようと呼びかけているのであり、多元主義を真剣に検討しようと呼びかけているのである。

結論でも示される通り、多元主義にも限界はある。そして、社会の分裂の認識と対立の正当性を認めることこそが重要なのだという。民主主義は必然的に対抗的でなければならない。これがムフの主張だ。例えば、人権の普遍性についてだが、これもまた西洋文化的発想なのだとムフはいう。それをアジア諸国などに押しつけるのは良くないことであり、ヨーロッパはヨーロッパ中心的な発想を破棄するべきだとムフは主張するのである。

ムフの希望はユートピア的ではもちろんない。ただ、現在の一極化してヘゲモニーとポスト政治的状況に対抗して、多元的なものに賭けている。オルタナティブはヘゲモニーを多元化することでしかないという。なんというリアルな政治学なのだろう。一読をお勧めする。

2013-03-17 大きな物語から大きなゲームへ

日本文化の論点

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本の論壇をリードする宇野常寛氏の最新刊だ。
今、日本には二つの世界がある。大企業やマスメディアによる<昼の世界>と、オタクやインターネットによる<夜の世界>だ。昼の世界は衰退し機能不全に陥る一方で、夜の世界はガラパゴス的、文化的に花が開いている。この不意義な現象がインターネットというテクノロジーによって生じている。宇野氏は日本の未来を夜の世界から生まれる想像力の中にあると見る。その洞察は実に深い。
私自身、新しいものには一通り手を出して来た。(私は52歳)ブログはもちろん、Ustream、twitter、facebook、SKype、Youtube。去年はニコ生の放送も何十回とやった。特にニコ生は画期的だった。放送には色々なソフトを使うのだが、分からないと若者が親切に教えてくれる。そして距離も年齢も関係なく、すぐに友達が出来る。私は青森に住む大学生と放送で出会ったが、そのコミュニティのメンバーは日本各地にいる。もちろん会ったことはない。それでも深夜にニコ生とSKYPEの両方でつながりながら、まるで一緒に居酒屋で飲んでいるような雰囲気で語り合う。これは私にとって画期的な体験だった。
本書では、なるほどという箇所がいくつも登場するが、次の文章には大きく頷いた。

オタクたちの「日常」の交流の場はすでにインターネットの場に移動しており、現実の空間に求められるのは「祝祭」の場でしかない。

オタクの定義は知らないが、オタクを若者に置き換えても良いのではないかと思われる明快な分析だ。
このほか、音楽コンテンツや二次創作、ゲームフィケーション、戦後政治などについても縦横に語られて行く。失礼な言い方かもしれないが、軽く新書1冊を書ける人なのだと思う。ふーふー言いながら書いたダメな新書とはレベルが違い過ぎる。
終章は「<夜の世界>から<昼の世界>を変えていくために」だ。ここでは政治と文学の意味を問い直したうえで、政治思想を四つの象限に分ける。
1.第1象限 構造改革+アンリベラル
2.第2象限 構造改革+リベラル
3.第3象限 体制保存+リベラル
4、第4象限 体制保存+アンリベラル
宇野氏は都市部の新しいホワイトカラー層を結集して、第2象限的なリベラルの勢力を強化したいと考えているようだ。ただ、詳しくは書かれていないが、それは新しいリベラルであって、ユートピア的なものではないのだろう。
ますます、宇野氏の言動から目が離せない。