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2013-07-23

[] 夢のはなし ― 映画『風立ちぬ』のこと


ネタバレあります>



夢のはなしである。

実に美しい作品だと思った。

美しさ以外何もないということが、何より美しい。



「生きねば。」というキャッチコピーから最初に受けた印象とはまるで違う。

コピーが想起させるのは、喪失と失意を克己してそれでも生きる、という強い決意とメッセージだ。

だが、実際の映画は、それとは大きく異なる。喪失は、終盤、非常にさらりと描かれるだけだ。拍子抜けするくらいあっさりと。


毎度のことだが鈴木Pが作品から抽出するコピーは、映画という体験から何がかしらからを得たいと期待する人々に強く訴求する見事なもののだ。

が、一方で決して映画の本質を表しているわけではない。


主人公は、子供のころから憧れた仕事に就き、ロマンティックすぎる純愛を得、一瞬の、だが永遠の記憶に転化し得る時間を体験する。

映画は主人公の「夢」のシーンから始まり、「夢」のシーンで終わる。映画は何度も「夢」と「現実」を行き来する。

だが、僕にはそのすべてが夢のように見える。

軽井沢のホテルは桃源郷のようで、サナトリウムに降る雪は曇りなく白い。どのシーンも、どの風景も、どの言葉も、ありえないほど美しい。


夢は永遠に続くわけではない。近づく無謀な戦争、貧しい人々、非近代的な国家、様々な不条理、婚約者の病。

夢が終わることは最初から分かっている。

だが、映画が描き出すのは夢が終わる悲劇でも、それを乗り越える強さでもなく、その夢そのものに他ならない。


美しい夢を見る。朝目覚める。現実は変わらずそこにある。ただ、夢が美しかったということは変わらない。

映画の時間、僕らはその夢を目覚めながら見る。


自らの死期を悟り、主人公のもとを去った婚約者の行動を「自分の美しいところだけを見せたかったのだ」と評するセリフがある。

この映画自体も、同じだ。夢が終わったあとの現実ではなく、夢だけをただ描き切る。


芸術家はみんな、程度の差はあれ、夢の世界に生きている。

だが、その夢をここまで雑念なく描き出すことのみに執着し、そして成功した汚れなき作品を、僕はひさしぶりに観た。

2009-06-29

[] パッケージとコンテンツ


http://d.hatena.ne.jp/kawango/20090626/1246030883


元記事は、なんとなくゲーム業界を念頭において書いているような気がするのだけど、音楽の世界で言えば、パッケージ(モノ)とコンテンツ(データ)がバラバラになりうるというのが、なにより大きいと思う。かつて「音楽を売ること」と「音楽の入ったパッケージを売ること」は同義だった。が、モノからデータだけを取り出すことが出来、さらに他に移すことが出来るようになって、パッケージとコンテンツが切り離された。

それでわかったことは、レコード会社が売っていたのは、音楽ではなく、音楽の入ったパッケージだった、ということだ。商品価値があったのは、あの銀色の円盤だった。だから中身の内容に関わらず、CDの値段はほぼ一定だった。だからCDを万引きすることは犯罪だと認識されても、違法コピーでは罪悪感が小さい。それも当然と言えば当然で、データの複製コストは限りなくゼロなので、それ自体には市場価値は生まれない。音楽は、パッケージとして、コピーできないモノとして存在することによってはじめて商品価値を見出されたわけだ。

これまで、はじめは楽譜、そしてアナログレコードからCD、テープからMDなど、どういうパッケージで売るかというモノ/媒体の変遷しかなく、はじめて音楽というコンテンツそのものの価値をどう決定するか、という問いに直面している。データ自体は容易にコピーできるため、価格がつかない。じゃあ容易にコピーを出来なくしちゃおう、というのがコピーコントロールやDRMの発想だった。しかし問題は、それによって購入者の自由な視聴方法を妨げてしまったことだ。善意消費者にも不自由不便を強いるのは、商売人として正しくはない。

であるならば、やはりコンテンツはデータそのものではなく、何かに紐付けして売っていくことを考えなければいけないだろうと思う。僕自身は、モノでなく、権利としてそれを売っていくのが面白いのかなあ、と最近考えている。動画配信やソフトウェアの認証機能と近い。のだけど、データ自体はどっかのサーバーアーカイブされていて、それにアクセスできる管理を売るのだ。小さな端末でidとパスワードで管理されたネットワークに繋ぎ、自分が権利を買った音楽を聞ける。データベースにはidとパスワードさえあればどの端末からもアクセスでき、いつでもどこでも音楽を再生できる。ipodのように容量の限界もない。過去の購入履歴から試聴機能をつかったオススメで宣伝にも使える。権利は複製できないし、音楽を聞くという意味ではユーザーの利便性も損なわれない。なんとなくよさげな気がする。データベースの維持費とか全然考慮していないけどさ。とつれづれに考えつつ、さあ、明日からまた仕事だ。

2009-06-27

[] 「自己責任」で安易に物事を片付けるやつらが嫌い



気分のまま、好きなことを好きなときに好きなように書いてきたのだけど、おかげで思いがけず自分の習性を発見することが出来たりする。たとえば、僕は「自己責任」で安易に物事を片付けるやつらが嫌いで、もっといえば、お手軽な「自己責任」論は、思考停止した頭の悪いやつらの常套句だと思っている、ということだ。


車を運転していて、対向車が突然車線をはみ出してきて、事故になる。そういう事態は、可能性という意味では、いつ誰に起こってもおかしくはない。車を運転するということは、そのリスクを負うことに他ならない。運転者は、意識しているかどうかにかかわらず、不条理な事故に遭うリスクを背負い込みハンドルを握ることになる。

僕はそれが嫌で車を運転していない。一歩間違えれば一巻の終わりだ。たとえ自分が100%落ち度がなく完璧に注意していても、他の誰かのミスや不注意で、自分が被害者にも加害者にもなりうる。そして、それで人生が変わってしまう。だから車は運転しないと決めているわけだ。

でもだからといって、誰かの身に不幸にも起きてしまったそんな事故を、自己責任だとは言わない。だから車に乗らなければよかったのに、とも言わない。当然、言わない。


ミニスカでコンパにでかけることや老人が生活の足しにと金融商品を購入することは、車を運転することと比べて、いったいどれくらい危険で愚かしいことなのだろうか? 車線をはみ出した対向車と衝突した運転者の「まさかそんな」という呟きと、酔いつぶれて輪姦された彼女や老後のたくわえをすべて失った老婆の呟きにどれほどの違いがあるというのだろう?

もちろん人それぞれ評価基準は違う。そんな理由で車に乗らない僕を臆病者だと罵る人もいる。証券会社のセールスマンが「ここで買わないのと損ですよ。リスクを冒さなければ儲けられませんよ」と言うように。リスクの評価というものはそういうものだ。人それぞれ異なる。彼女が教員志望の男子大学生たちを「よさげな好青年の集まり」と評価したとして、それを落ち度だと言い切れるのだろうか? それは不条理な事故に遭った人に「だから車に乗るなと言ったろ」と投げかけるのとたいして変わりない、と僕は思う。

判断の過ちや誤解は、僕らみんなが共有するものだ。そして、それがそうだとわかるのはいつもコトが起こったあとだ。「いや俺は実は元々危ないと思っていた」だなんて後出し気味な結果論で悦にいっている輩だけが、罪なき愚かしさと無縁だとは僕には到底思えない。いや、それがたとえどんなに不合理な判断であっても、それによって不幸になった人がいたら留保なき同情を捧げたい、と僕は思う。たとえば、古い話だが、イラクで死んだ彼を責めたり嗤う気にもなれないのだ。

生きるということは常に冒険だ。たとえ慎ましく暮らしていても思いも寄らぬ事態に陥ることもある。誰もがみんな今は想像もしてないような「まさかそんな」と背中合わせだ。そして、僕らが憎むべきは、その「まさかそんな」につけこむ、悪意や欲望や怠慢の方のはずだ。酔った女に投げられる目配せや老婆を惑わす言葉や振り下ろされた狂信者の刃にこそ、僕らは怒るべきだ。


他人にふりかかった不幸な出来事を見聞きしたとき、それを「自己責任」と斬って捨ててしまえば、不幸を自分の周りから遠ざけたように錯覚できる。不幸を背負い込まず、気持ちがいいだろう。もちろん自分はそんなに連中とは違い愚かではない、と信じるのは自由だ。が、問題は実際はそうでもないことがありうる、ということだ。

「自己責任」論とは、もしかしたらマッチョ弱肉強食肯定思想ではなく、むしろ臆病ゆえに現実を追認するための言い訳なのかもしれない、とも思う。あるいは世のあらゆる事象にはすべて原因があり理由があると思い込む、短絡的で幼稚な世界観の発露だろうか。不条理を直視できず、「自己責任」で物事を解決した気でい続けた挙句、今度は自分が「まさかそんな」と呟く羽目になるかもしれない、と想像することはそんなに難しいことではないと思うのだが。

2009-06-25

[] 「アイドル」はロキノンを経て「アーティスト」へ至る


Perfumeの件で、ロキノンを批判するのは微妙に的外れだ。

まず、原稿が事務所のチェックを経ずに掲載されている、とは考えづらい。そういうことも普通にありうるが、今回、相手は大人気歌手であり、所属事務所はアミューズ。力関係を考えれば、当然原稿チェック済みと考えるのが妥当だと思う。

つまり今回のネガティヴな(あるいはそう読まれる可能性を含んだ)記事は、当然、Perfume新作の販促宣伝戦略の一環であり、各所で言われているロキノンというメディアの特性を当然踏まえつつ、あえて、あるいは狙ってNGなしでロキノンのインタヴューを受けたと考えるべきだろう。

んじゃ、その目的は…というのは、推測するに「アンドロイド」に自我を付与するため、だ。「アイドル」はロキノンを経て「アーティスト」へ至る、というのは常套手段だ。道を開拓したのは浜崎あゆみだっけ。

一連のフライデー騒動も同じ意図だろうなと思う。相手がテナーやカメラマン、っていうのが、まさに。どうせならリリーフランキーとか阿部和重とかの方が良かった気もするが。


http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090624/p1


ロキノン分析は分析で当たってるのかもしれないけど、いまや、それをアーティスト認定協会的なビジネスに仕上げた渋谷社長のしたたかな手腕の方が興味深い。

一方で、個人的には、アミューズのそういう「アーティスト・コンプレックス」体質って微妙な気もするけど。ジャニーズルーキーズとフライデーさせてヘキサゴンにねじ込むくらいの豪腕っぷりの方が潔くて、僕は好み。


まあ、あくまで部外者の深読みだけど。

2009-06-21

[] 無自覚な差別主義者


前回の続き。


http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/06/post-173.html

↑の「したい相手とはしたい。したくない相手とはしたくない」という論をうけて、

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51225683.html

はこう書いている。以下引用。


<この台詞が、レイピストに通用するのかを確認してみて欲しい。私には二人の娘がいる。彼女達が私の家の中で、私の家族しかいない茶の間でこの台詞を言うのは構わない。気の置けない友人どおしで話すのもいいだろう。しかし、これを公衆の面前で大声で叫ぶのは全力で止める。>


レイプというのが決して見知らぬ他人から「のみ」行われるのではない。顔見知り、恋人、近親者からの性的暴力をうけることもある。特に高校生が被害者になる場合は、「デートレイプ」の割合がもっとも高いという調査もある。

http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2004-10/ss0410-1.htm


この類の犯罪は、誰もが被害者になりえて、誰かもが加害者になりうる。レイプは、決して性的異常者「のみ」によって行われるわけではない。恋人や家族でもあっても、あるいは教員志望の普通の大学生も加害者になりうるわけだ。したがって、自分の性欲について家族や友人には話してよくて公衆の面前で言ってはならない、というのは、教訓としては非論理的だ。

であれば、「したい相手とはしたい。したくない相手とはしたくない」という真実は、公衆の面前は当然のこと、家族や友人もふくめて、誰にも話さなければいいのか。古いやまとなでしこ幻想よろしく、女なので性欲なんてありません、という顔をして。でも、残念ながら、だからといって性犯罪の対象にならないというわけではない。自分の性欲を明らかにしていようがしていまいが、どちらにしろ、誰もが被害者になりうる。黙っていても犯されることはあるし、大声で叫んでいても犯されないこともある。

とすると、女性が、男性と同じように、「したい相手とはしたい。したくない相手とはしたくない」と口にするのがなぜいけないのか、論理はどうも怪しくなる。そもそも別に誰かさんのように隠している特殊な変態性癖を開陳したわけではない。「したい相手とはしたい。したくない相手とはしたくない」というごくごく当たり前のことをいっているだけである。一体、なぜ、それを明らかにすることが、男はよくて、女はいけないのだろう?


差別主義者が自分がそうであると認識していないことはままある。そういう無自覚な差別主義者が、この差別が相手の利益になる、と(心から信じて)説くことも同じようにままある。そんなことは歴史からもう十分すぎるほど学んだはずなんだけど、ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね。