2010-02-03
■[memo] flickr のアクセス制御
以下は自分で試して調べたメモなので仕様としてどうかは未確認。
基本: 画像そのものは public
flickr のアクセス許可は写真を表示するページに対するもので画像そのものにはアクセス制御がない。private な写真でも画像の URL に直接アクセスすれば見えてしまう。もっとも、画像の URL には予測困難なものが使用されており、写真ページの URL が知られても直ちに画像にアクセスされることはないだろう。
アクセス許可の種類
flickr のアクセス許可には大きくわけて private / public の 2 つがあり、private は何らかの形でアクセス可能なユーザが制限され、public は誰でもアクセスできる。
private には friends, family のオプションがある。何もオプションをつけなければ自分だけしか見えない純粋なプライベートで、friends を選択していれば自分が friend と設定したアカウントからアクセス可能になり、family を選択していれば自分が family と設定したアカウントからアクセス可能になる。friends, family は同時に選択することもできる。
このように friends, family のオプションはログイン中のアカウントと自分のアカウントとの関係によってアクセスが許可される仕組みだが、後述する Guest Pass 機能によって flickr アカウントを持たない人にもアクセス許可を与えることもできる。
アクセス許可のない写真やセットの見え方
アクセス許可のない写真は photostream には表示されない。また、アクセス許可のない写真だけからなるセットはセット一覧に表示されない。つまり、アクセス許可のないユーザには写真やセットの存在自体が見えないようになっている。
もっとも、アクセス許可のない写真やセットの URL に直接アクセスすると "This page is private." というエラーページが表示される。URL が無効な場合は "This is not the page you're looking for." というエラーになるので区別がつく。写真やセットのタイトルや説明は表示されないが、そこに private な写真やセットが存在している、ということはわかる。
アクセス許可のある写真が混ざっているセットはセット一覧に表示される。その場合、セットのアイコンはアクセス許可のある写真から選ばれる。含まれる写真の数にはアクセス許可のある写真のみをカウントした数が表示される。
Guest Pass
Guest Pass は flickr アカウントを持たないユーザ、あるいは friend でも family でもないユーザにアクセス許可を与える仕組み。Guest Pass を発行すると専用の URL (以下 GP URL)が生成され、その URL から private な写真にアクセスできるようになる。発行した Guest Pass は後から取り消す(expire)することもできる。
GP URL は単なる秘密の URL で、アクセスの際には一切認証は要求されない。GP URL が公開されてしまうと事実上 public になってしまうので注意。さすがに GP URL 一つで全ての private 設定が無効になってしまうのもマズいので、Guest Pass は写真単位やセット単位でも設定できる。
GP URL へのアクセス
GP URL にアクセスすると、写真やセットの本来の URL にリダイレクトされる。GP URL にアクセスすることでセッションが生成され、以後 Guest Pass の権限を持つ一時アカウントで flickr にアクセスする事になるようだ。flickr アカウントにログインするか、他の Guest Pass の GP URL にアクセスすると、以前の Guest Pass のセッションは切れる。
Guest Pass セッションによるアクセス中は、画面上部にどの Guest Pass でアクセスしているかが表示される。例えば、セットに対する Guest Pass でアクセスしていると、"You're surfing around Flickr on a Guest Pass to see {発行者名}'s {セット名} set." のように表示される。
写真やセットに対する Guest Pass
特定の写真やセットに限定した Guest Pass を発行したい場合は、対象となる写真やセットのページの右上にある [Share This] メニューで Guest Pass を発行する。
写真の Guest Pass は単純で、生成された GP URL にアクセスしたユーザは誰でもその写真を見ることができる。他の private な写真にはアクセスできない。
セットの Guest Pass はセット内にある複数の写真に対するアクセス許可で、生成された GP URL にアクセスするとセットのページだけでなく、セット内の写真のページにもアクセスできるようになる。
セット内の全ての写真ではなく特定の写真のみに Guest Pass によるアクセス許可を与えることもできる。セットの [Share This] メニューには [Friends] [Family] [Private (only you)] の三つのチェックボックスが表示されるが、チェックを入れた設定と写真に設定されたアクセス許可が一致する写真だけが Guest Pass アクセス許可が与えられる。
たとえば [Friends] のみチェックして発行した Guest Pass を使用すると、friends アクセス許可が設定された写真だけが見えて、純粋に(friends, family が設定されていない) private な写真や、family アクセス許可が設定された写真は見えない。
ただし、"Private(only you)" のみを選択して発行した Guest Pass でアクセスすると、Set の写真一覧には純粋に private な写真しか表示されないが、Set 内の他の写真の URL に直接アクセスすると見えてしまう。Set の写真の枚数も Set 内の全ての写真をカウントした枚数になっている。
Guest Pass の取り消し
メニューの [Contacts - Guest Pass History] で、これまで発行した Guest Pass の一覧が表示できる。ここで Guest Pass を選んで取り消し(expire)できる。
一度取り消すと元には戻せないので必要なら Guest Pass を再発行する。[Show Expired] で取り消した Guest Pass も一覧を表示すれば、取り消した Guest Pass がどの写真(またはセット)に対するものだったか確認できる。
2009-12-12
■[memo] 安達誠司『脱デフレの歴史分析 「政策レジーム」転換でたどる近代日本』
読了。どういう本かというのは著者のあとがきの文章にまとまっています。
筆者が、本書を書くきっかけとなったのは、今回の日本のおけるデフレーションを巡る経済論争*1が、約七〇年前に起こった昭和恐慌期に闘わされたそれと全く同じレベルの議論であったことに気づき、ある種の脱力感に苛まれたことであった(これについては、拙著『平成大停滞と昭和恐慌』一〇九‐一一二頁にテーマごとに分類して掲載してある)。この七〇年の間、科学技術は目覚しい発展を遂げ、我々の生活は飛躍的に豊かになったが、我々の経済に対する考え方は全く進歩がなかったのである。筆者は、デフレーションを克服するためには、大胆なリフレーション政策が実施される必要があると考えてきたが、今回の論争では、日本で、リフレーション政策に対して反対の立場をとる経済学者がほとんどであった(不思議なことに、欧米では、リフレーション政策に反対の立場に立つ経済学者は学派に拘らずほとんど皆無といってよかった)。これは、七十年前の政策論争と全く同様であった。当時も金融政策を中心とするリフレーション政策の必要性を訴えた石橋湛山、高橋亀吉、小汀利得、山崎靖純ら「新平価四人組」の主張はことごとく退けられ、その結果、昭和恐慌は深刻化し、庶民の生活は困窮、その不満がやがて軍部による大陸進出の思想的な足がかりを作った。昭和恐慌は、高橋是清によるリフレーション政策(高橋財政)の実現によって最終的に克服されたが、荒廃した日本国民の思想までも癒すことはできなかった。「我々は今回もこの教訓を生かすことができないのであろうか」と日本の経済論壇に対して悲観的になったのをきっかけに、筆者個人の関心は、「何故、正しい政策が採用されないのか」という点、いいかえれば、経済失政のプロセスと為政者の経済思想的な背景を理解し、それをどのように改善していくかを考察しなければならないのではないか、という点に移っていった。
そこで、日本における経済思想の流れを、通常の経済思想史の手法とは逆に、現代から明治維新期まで遡ってみると、経済失政をもたらす思想的な背景として、江戸時代の朱子学的な思想、特に、金融を「虚業」として軽視する考え方が、明治時代の為政者の中に脈々と受け継がれていることがわかった。この「金融軽視」の考えが、通貨システムに対する無理解に形を変えて、日本を度々デフレーションに陥れていること、そして、幕末の攘夷思想のトラウマともいえる「アジア主義」がこの通貨システムの無理解と融合することによって、円高信仰が生まれたというのが、日本の経済学における「敗戦」に他ならなかったのではないだろうか。
それでは、戦後の日本はこのような「誤った経済思想」を克服したのであろうか。残念ながら、今回のデフレーションにおける経済論争をみると、そうではなかったと考えざるを得ない。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の出版(一九七九年)は、日本が高度経済成長を経て世界有数の経済大国の地位に上りつめたことを象徴する現象であり、一九八〇年代後半以降、日本は、軍事力ではなく、「ジャパンマネー」という経済力によって、覇権を獲得しようとしたはずであった。しかし、通貨システムに対する無理解は、今度は、日本経済を無節操な「バブルエコノミー」に巻き込み、結局、バブルの崩壊から七〇年前のデフレーションという経済学上の「伝説の」(世界大恐慌以来、忘れ去られてきたという意味で)怪物を墓場から呼び戻したのである。その意味では、本書の冒頭で言及した「近代すら超克していない」という表現は必ずしも正しい表現ではなく、むしろ、「近世すら超克していない」ということなのかもしれない。
安達誠司『脱デフレの歴史分析 「政策レジーム」転換でたどる近代日本』 p307-309
本書の最後では自民党政調会の「名目4%ターゲット論」に期待を寄せていますが、それが2006年の春のこと。結局リフレ政策は実現せず、一方で経済政策の点でリフレ派には評判の悪かった民主党に政権交代し、八方ふさがりかと思いきや、最近にわかに反デフレ論争が盛り上がり中。今度こそ「近世の超克」を達成してほしいものです。
*1:引用者注:1997年のクルーグマン論文をきっかけに起こったデフレ論争のこと。
2009-12-11
■[memo] 飯田泰之かく語りき
いわゆるリフレ派として知られる飯田泰之さんが twitter で財政政策について立場を表明していたのでメモ。
最近うけた取材での傾向を見ていると僕は財政規律派らしい.財政規律派の定義はわからないけど,以下一応僕の立場CO
- 借金が返せなくなる云々は政府統合BS,民間金融資産,保有者が国内主体,自国通貨建債務である等からあやまりである.
- 財政政策の景気刺激効果はきわめて小さくなっている.したがって財政出動をもとめることには賛成できない.財政支出先はインフラ整備と再分配を軸に考えるべき.
- 借金が返せなくなることはない(内国債だから)し,全てを返す必要もない(純債務約300兆が発散しなければよい).しかし,国債費が大きくなると言うことは「広くとって(税金)」,「一部にわたす(償還)」ことであるから逆再分配であり,問題だ.
- 現下の経済環境で財政を出すのは仕方ない.しかし,その支出先は貧困層やその手前の層への緊急支援を中心とすべきである.(低所得者の支出性向を考慮しても)景気刺激効果はそれほど大きくはないだろうが必要なことである.
- 中期的な財政規律のために税制の再考が必要だ.財政再建の原資は「2%インフレと2%成長で毎年4.5%の税収増」「80兆円の相続財産への広い課税」「累進課税の90年代半ば水準への復帰」その後に消費税だと思う.
あとテクニカルな論点としては一刻も早く納税者背番号制が必要です.徴税のためにも再分配のためにも.所得捕捉率をあげれば大手を振って法人税を下げることができる.
2009-11-28
■[社会] 騙されたくない人たち (2008年夏コミVer.)
[このエントリは2008年の夏コミで販売した同人誌『ソシオクリティーク ナツカレ2008』(リンク先はSynodosの通販サイト)に寄稿した文章です。タイトルからお気づきの人もいるかと思いますがこれは2005年にこのブログに書いた「騙されたくない人たち」を改稿・加筆したものです。以前読んだ方も是非。]
「メディアリテラシー」の台頭
ネットの言論に触れていると頻繁に「メディアリテラシー」という言葉に出会う。メディアの嘘を見抜き、メディアに踊らされないためのスキル、というニュアンスで使われている。それはネットへの参加資格のようにも受け止められていて、メディアの嘘に騙された者はしばしば「嘘を嘘と(ry」のような言葉で揶揄される。この言葉の語源は、2ちゃんねる掲示板の管理人の西村博之(通称ひろゆき)の「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉だ。
「嘘を嘘と見抜けないと難しい」は元々はネットメディア、特に2ちゃんねるに流通するような出所の不確かな情報に踊らされてはいけないという警句であったが、今ではマスメディアの情報に対するメディアリテラシーを問う文脈でも使われるようになっている。マスメディア自体が不確かな情報源として懐疑の目に晒され、マスメディアの情報を批判的に検証するようなネットメディアには一定の人気があるようだ。2ちゃんねるのニュース速報板のようなマスメディアの報道について語り合う掲示板でも報道内容自体に懐疑的あるいは批判的なコメントはごく普通に見られる。
マスメディアの情報が単純に鵜呑みにされないというのは市民社会にとっては健全な傾向ではあるが、その一方でネットメディアの草の根的コミュニケーションが情報源として重視される傾向には危険が孕む。デマの発生と拡散という危険性だ。
ネットのデマ
2004年4月に発生したイラク邦人人質事件を巡るデマはネット発のデマが国政を巻き込む寸前にまで至った事例だ。2004年4月7日、イラクに入国した3人の日本人が現地の武装勢力に拉致され、翌日アルジャジーラに人質の映像と自衛隊のイラク撤退を求める声明文が届いた。映像と声明文は日本のテレビでも放送されたが、その日のうちに2ちゃんねるを中心に、事件は人質が仕組んだ自作自演だとする意見(以下、自作自演説)が広がった。
疑惑の根拠を手際よくまとめたリストは2ちゃんねるのみならず当時普及しつつあった個人ブログにもコピーされ、自作自演説は報道の翌日にはネットでは広く知られるようになっていた。あまりにあちこちで言われるようになったせいか、一部のジャーナリストや国会議員までがこれを信じて、政府の事件への対応にも影響があったと言われる。
事件発生当時に自作自演説に一定のリアリティを与えた要素はさまざまだ。当時をふりかえった時に大きな要素として挙げられるのは人質の一人がネットの掲示板に書き込んだとされる犯行予告(いわゆる『ヒミツの大計画!』)だが、当時流布していた疑惑リストは10項目あり犯行予告はその3番目に挙げられていた。
問題の書き込みの裏がとれないという難点は早くから認識されており、犯行予告自体は耳目を集める話題ではあったが決定的な証拠とは考えられていなかったと思われる。むしろ状況証拠と称する様々な疑惑が次々と指摘された流れにリアリティを感じさせるものがあったのだろう。
いずれにせよ確たる根拠はなかったわけで今思えば「嘘を嘘と(ry」とツッコまれるべき典型のような状況だったのだが、少なからぬ人がマスメディアが報じたありのままを疑い、ネットで暴露された「真相」を信じた。
認知的不協和かゲーム的選択か
デマに踊らされる人たち、特に劣勢になってもなおデマに固執する人たちを見ると「人は信じたいものしか信じない」という格言が思い出される。人は信じられない場面に遭遇すると認知を歪めることによって不安を和らげようとする。心理学で認知的不協和と呼ばれる現象だ。人は認めたくない現実から目をそらすため、都合のいい情報に集めてくることで不安を和らげる。
確かにそれで説明がつくようにも思える。しかし、そこで前提となる「事件はデマ支持者にとって認めたくない事実である」という部分は実はあやふやだ。ネットのデマの場合、支持者の多くは匿名であり日頃何を考えているのかよくわからない人たちだ。他の説明がありえないのなら、デマを支持するからには事件を認めたくなかったのだろうと推測できるが、果たしてそうだろうか。
認知的不協和説は個人の内面に原因を求める点で問題を単純化しすぎるきらいがある。その場にいた人の大半の人が信じたデマではなく、自作自演説のように誰もが信じたわけではないデマに認知的不協和説を適用すると、それは突き詰めれば「デマを信じる人は要するにそういう人なのである」という説明になってしまう。実際にそういう面はあるかもしれないが、別の説明はないだろうか。
また、認知的不協和説ではデマを支持することはすなわちデマを信じることになる。しかし実際には信じなくても行動で支持することはある。例えば銀行が近々倒産するという情報があった場合、本気でそれを信じなくても倒産した場合に失う預金の額が大きければ預金を下ろしに行くだろう。デマだった場合に無駄になるコストはずっと低いので、デマを支持する行動をとるほうが合理的なのだ。
何らかの利益を巡るゲームのような状況がある場合、デマを支持することが不合理な反応ではなく合理的な選択になりうる。自作自演説のようなネットでよく見られるマスメディアの裏読み、深読みに基づくデマについて、そのような説明が成り立たないだろうか。
「メディアリテラシー」のゲーム
メディアから得た情報に対してプレーヤーが立ち位置を選択するゲームを考えよう。メディアの情報は「真実」か「虚偽」のいずれかだが、プレーヤーの選択時点ではどちらなのかは不明である。プレーヤーはその不明な情報に対して「信用」か「懐疑」のいずれかの態度を選択する。選択後にその情報が「真実」か「虚偽」が判明し、プレーヤーは選択に応じた得点を得られる。
平たく言えば情報の真偽を言い当てるゲームだ。得点表は次のようになる。
| 真実 | 虚偽 | |
|---|---|---|
| 信用 | a | b ( < a, d ) |
| 懐疑 | c ( < a, d ) | d |
横軸は情報の真偽、縦軸はプレーヤーの態度で、a 〜 d の変数が得点である。カッコ内は得点の制約条件で、要するに真偽を言い当てた選択(a または d の場合)は外した選択(b または c の場合)より高得点になるという意味である。得点が何を意味するか、すなわちどんな利益を巡るゲームなのかはここでは棚上げするが、たとえば他者からの評価が得点になる、ということが考えられる。
プレーヤーは得点の期待値が高い方を選択するのが合理的選択となる。情報が真実である確率を p とした場合、それぞれの選択の期待値は次のようになる。
| 期待値 | |
|---|---|
| 信用 | ap + b(1 - p) |
| 懐疑 | cp + d(1 - p) |
実際には p も a 〜 d の得点も事前に値を知ることはできない。いずれも選択時点でのプレーヤーの予期する値で期待値が計算されることになる。つまり、選択を左右する要素は、大きく分けて二つある。
- 情報の確からしさ(p)をどう見積もるか
- ゲームのルール = 得点表(a〜b)をどう認識するか
プレーヤーの情報に対する認知が歪むことで p を過小に見積もる、というのが認知的不協和説の説明に相当する。基本的には心理的な動きだが、自作自演説の10項目の疑惑のような、認知の歪みを伝達するような情報がフィードバックされる現象(いわゆるサイバー・カスケード)によって、後から来た人の p の見積もりに影響を与え、懐疑派が一定の勢力を形成するというわけだ。
しかし、期待値は p だけでは決まらない。p が同じでも得点表の構造によって期待値の大小が逆転しうる。
ゲームのルールと選択
まず単純に情報の真偽を言い当てれば 1、外せば -1 の得点になるルール(ルールA)を考える。得点表と期待値は次のようになる。
| 真実 | 虚偽 | |
|---|---|---|
| 信用 | 1 | -1 |
| 懐疑 | -1 | 1 |
このルールでは p が 0.5 より大きければ信用の期待値が懐疑の期待値を上回る。つまり、単純に真実の確率の方が高ければ信用、虚偽の確率の方が低ければ懐疑を選択するのが合理的になる。これは得点表の対称性に由来する性質で、得点表が非対称になると真実の確率の方が高いにも関わらず懐疑を選択することが合理的になる場合がある。
たとえば虚偽を信用したときにペナルティが、虚偽を見破ったときにはボーナスが出るようなルール(ルールB)を考えよう。たとえば得点表が次のようになる場合だ。このルールだと7割くらいは真実だろうと思っていても合理的プレーヤーは懐疑を選択してしまう。
| 真実 | 虚偽 | |
|---|---|---|
| 信用 | 1 | -2 |
| 懐疑 | -1 | 2 |
このようにルールを変形したゲームは、情報の真偽を当てるゲームと言うよりは、騙されずに嘘を見破る「嘘つきゲーム」に近付く。冒頭で述べたネットの「メディアリテラシー」とはこのようなゲームを勝ち抜くスキルのことではなかったか。
なぜ「嘘つきゲーム」なのか
現実の「メディアリテラシー」のゲームが「嘘つきゲーム」になるとしたら、その条件は何だろうか。現実の問題に立ち戻るには、まず「嘘つきゲーム」が何を最大化するゲームなのか、つまりプレーヤーにとって何が得点なのかという問いに答える必要がある。
この問いの答えは、つきつめれば「自尊心」ということになろう。賞金が出るわけでもないテレビのクイズ番組を家族や友人で楽しむのと同様だ。ゲームに勝つと仲間の評価を通じて自尊心が満たされる。しかしそれだけなら、ルールBのような「嘘つきゲーム」になる必然性はない。単純なクイズゲームならルールAのゲームになるのが自然だ。
ゲームを「嘘つきゲーム」と認識する視点は、おそらく情報提供者を敵とみなすところから来るのではないか。まず、一般的なメディアリテラシーの基本に従って、情報は単純に目の前に転がっているのではなく、誰かが目の前に置いたと考える。そして、「メディアは敵」と考えるならどうだろう。すなわち、その誰かがプレーヤーを騙そうとする敵かもしれない、と考えるなら。
「嘘つきゲーム」の非対称性は二つある。一つは b と c の非対称性だ。「嘘つきゲーム」を嘘つきと戦うゲームと考えると、得点表の b は騙されたこと、負けたことに対する屈辱の大きさを表す。まんまとしてやられた、くやしい、みじめだ、というわけだ。一方、得点表の c は騙そうとしていない相手を攻撃してしまった時のばつの悪さ、ということになろう。
これが単なるクイズゲームならどちらも等しく不正解ということになるが、嘘つきと戦うゲームなら本当の負けは b だけだ。c は戦争で言えば誤爆に相当するような失態には違いないが、自分のミスであり、敵に負けたわけではない。相手が味方なら心も痛むが、敵か、敵のように見える誰かならそうでもない。かくして b は c より小さい(b の方が失うものが大きい)ということになる。
もう一つの非対称性は d が a より大きい点だが、これも同様だ。勝利と言えるのは d だけだ。a はいわば停戦状態であり、余計な損害を避けたという以上の積極的な意味はない。
まとめ
ここまでの議論でわかるのは、次のような状況でデマが生まれやすくなるということだ。
- 情報に対して「嘘つきゲーム」が行われる
- 提供される情報に不確かさがある
問題は、不確かさがわずかでも懐疑的な見解が支持されやすくなるため、結果的に懐疑的主張はデマになりやすいということ、そしてこれが決して偏見でも現実逃避でもなんでもなく、合理的な選択の結果であるということだ。それゆえ、懐疑的主張の蓋然性のなさを多少指摘したところでデマを食い止められないのだ。
以上の議論では可能性を検討しただけで、実証的な根拠があるわけではない。言うなれば「こうだといいな」という僕の希望を書き連ねているだけだ。ネットのデマが認知的不協和の結果に過ぎないなら、デマの発生に対してはほぼ打つ手がない。それは人間の本能に基づくもので介入の余地はほぼない。しかしデマの発生がゲーム的選択によるものならば、ゲームのルールに介入する余地がある。そこに希望があるわけだ。
具体的なアイデアはまだないのだが、闘争心ベースのゲームではなく知的好奇心ベースのゲームになるような仕組みができないものかと思案している。「嘘か本当か」ではなく「本当はどうなのか」を巡るゲームを楽しめるように。
2009-11-23
2009-10-17
■[社会] twitter のハッシュタグ衝突問題とサイバーカスケードの制御可能性
週末 twitter で二つの大企業を巻き込んだ騒動が起こった。ここでは au2009 問題と呼ぶことにしよう。一言で言うと二つの企業が twitter 上でのプロモーション用に使ったハッシュタグ(つぶやきに含めると検索キーにできる特定の書式のキーワード)が衝突したという問題なのだが、単なる企業間の利害衝突ではなく twitter コミュニティを巻き込んだ「炎上」とも言える騒動になった。
ここまではいいのだが(?)、多くの人がこの騒動に言及するつぶやきの中で当該ハッシュタグ(#au2009)を書いてしまったため、このハッシュによる検索結果は au2009 問題関連のつぶやきで埋め尽くされ、結果として当該ハッシュタグは双方にとって使い物にならない状態になってしまった。
騒動の流れ
具体的なやりとりに関してはハッシュタグ「#au2009」競合問題に見るKDDI広報の対応の不手際さ - さまざまなめりっと - はてなグループ::ついったー部を参照してもらいたいが、簡単にまとめておこう。
事の発端は携帯電話キャリア大手の KDDI が10月19日開催の au の新製品発表会のプロモーションを twitter でも展開しようとしてハッシュタグ #au2009 を使用し始めたこと。ところがこの #au2009 はCADソフトウェア大手の Autodesk が Autodesk University 2009 というイベントのプロモーションのために既に使用していた。
それに気付いた ITmedia と一般ユーザが au の公式 twitter アカウント向けにそのことを指摘し au 側には伝わった。しかし、指摘から約4時間後の au 側の対応が騒動に火を付けた。
ハッシュタグにつきましては、すでに多くの方にいまのタグでご協力いただいている状況なので、このまま継続することさせていただきます。ご指摘いただいてありがとうございました #au2009
ハッシュタグの衝突によって Autodesk University 2009 関係者に迷惑がかかるという肝心な点が伝わらなかったのではないかとも思うのだが、指摘したユーザにはこの対応が横暴と感じられ、その感覚は事の成り行きを見守っていた多くの twitter ユーザにも共有されたようで、公然とハッシュタグを乗っ取った au を批判するという流れで騒動に発展してしまった。
間の悪いことに担当者は上の発言の直後に「明日はお休みですが、引き続きつぶやく予定です! お楽しみに☆」とつぶやいて退席している。その結果ユーザの行き場のない思いが攻撃的なつぶやきとして爆発することになってしまった。
さすがに ITmedia はハッシュタグ変更を望むこと、変更しなければ Autodesk University 2009 参加者の迷惑になることを落ち着いた調子で指摘しているが、au 退席の3分後で時既に遅し。#au2009 タグや #antiauofficial というタグを付けた抗議活動がエスカレートしていく。
関係者に騒動が伝わったのか、結局、当日深夜に au 側から謝罪とハッシュタグ変更の告知が行われた。騒動を見守っていたユーザはこれを盛んに RT したのだが、変更告知故に #au2009 タグを含んでいた発言が RT されることでかえって Autodesk 関係者に迷惑がかかる状態に。
とはいえこれ以降は落ち着くのか、と思われたが、その後もあとからこの件を知った人がよくわからないまま、あるいはお祭り騒ぎで繋がりたいという意志からなのか、#au2009 タグ付きでつぶやき続けたため決着から24時間以上経った今でもこのタグの検索結果はこの騒動関係のつぶやきで溢れかえっていて Autodesk の担当者涙目(?)という状態だ。
Folks in Japan have started to use the > #AU2009< tag - nothing to do with Autodesk University 2009 in Las Vegas とかじゃRT @au_official
Twitter / Autodesk University: Folks in Japan have starte ...
「とかじゃ」のあたりに混乱ぶりがうかがわれる(?)。
元々このままでは Autodesk 関係者に迷惑がかかるという理由で始まった抗議活動だったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
どうすればよかったのか
誰かを助けるための運動が結局はその誰かを踏みつぶす方向に傾いていくという悲劇。利害当事者ではなく運動当事者の論理で設定された対立軸の周りで空中戦がくりひろげられる虚しい風景。どちらも既視感をおぼえずにはいられない。もちろん(と言ってもウヨサヨ系の話題に興味のない人にはわからないだろうけど)「反日上等」騒動を思い出しながら言っている。
「反日上等」騒動というのは在特会(在日特権を許さない市民の会)という排外主義的な右翼系市民団体のデモに対して左翼系の運動家や外国人が抗議のカウンターデモを行った際に、強制送還の危機に瀕している外国人に迷惑がかかりかねない方法で抗議行動を行って問題になった件だ。
解決すべき問題がある時にわかりやすい「敵」が目の前に現れ、「敵」を倒すという第一目標のために多くの人を巻き込むと、「敵」を倒すこと自体が目的化してしまい、問題は解決されず放置されるか、あるいは「敵」を倒す活動の副作用により、かえって悪化してしまうという現象。
「敵」との戦いは目的ではなく手段であり、解決すべき問題は別にある。ところが多くの人を巻き込んでいくうちに元々の「解決すべき問題」が忘れ去られてしまう。もちろん最初から抗議行動にコミットしてきた人は忘れてはいないだろう。しかし、気がつくと誰かが事態をコントロールできる状況ではなくなってしまう。
以前紹介した荻上チキ『ウェブ炎上』にはこういった「炎上(サイバーカスケード)」をどう制御するかという議論があった。そこでは対立する立場の意見を相互に可視化することにより同じ立場の意見が増幅する現象を防ぐという処方箋が出てくる。
しかし「敵」がわかりやすすぎる場合、さらに誰も味方しないほどわかりやすい「敵」は袋だたき状態になり、反対側の意見を見て自分の視点を相対化するような機会がなかなか得られない。twitter での運動のようにリアルタイムに事態が推移するとその傾向には拍車がかかる。
また、「わかりやすさ」はミスリーディングな議題設定効果を内包しており、反対側の意見があったとしても、最初からズレている対立軸を修正する力にはなりえない。
正直言ってどうしようもないという印象がある。最初から利害当事者同士の交渉を促すべきで、公の場で問題を指摘するべきではなかったのかもしれない。しかし誰かが気付いて公の場で議論になること自体は誰にも止められない。
あまりポジティブな結論にならないのだが、衆を恃むということは常にこういった危険を孕むのかもしれない。
おまけ: 技術的な問題
個人的にはマイナーな問題だと思っているが、技術的な問題もあったと思う。タグについての議論でタグを引用してもタグとして機能してしまうという点だ。
適切なエスケープ記法があれば今回のような結果は避けられたかもしれない。しかし、それがあったとしても RT で自動エスケープするべきかとか、そもそも「記法」の使いこなしを一般ユーザに期待できないであろう*1ということもあり、それで解決できたかというと甚だ疑問ではあるのだが。
おまけ: 企業側の教訓
twitter でプロモーション等を企画する企業側にとっての教訓は割とはっきりしている。そもそも twitter のハッシュタグは誰でもいつでも好き勝手に使い始められるゆるい仕組みで、アーキテクチャ的には権利関係の絡むビジネスできっちりと使うのには向いていない。敢えて使うのなら、
- 限界をわかった上で仕組みに過度に依存しない形で使うこと
- 実験的に先に使い始めて既成事実を作ってから展開すること
- 衝突が発生した場合は柔軟に速やかに対処すること
というあたりに注意して使えばいいのではないだろうか。
もっとも今回の騒動は、抗議する側にもそうした「ゆるさ」を許容する感覚が希薄であったからこそ発生した面がある。あるいは、企業はきっちりしてなくてはいけない、ゆるくあってはいけない、という意識が一般的にあるのかもしれない。
だとすれば twitter を企業がプロモーションに利用するという目論見はかなり無理があるということになり、twitter そのもののマネタイズにも暗雲が漂う、ということなのかも…
*1:それが期待できるならはてなはもっと栄えててもよさそう…
2009-10-10
■[memo] Winny 事件における NHK 記者の弁護妨害の件
ブクマでつぶやいてからまわりを見るとどうも人とは違うことを考えていたようで、これだと100文字では僕が何を考えてるか伝わらないだろうなと思い、少し念入りに書いてみることにした。
Winny の作者であり、Winny 事件の被告である金子氏に公判中 NHK の記者が「告白」を迫る手紙を送ったことが Winny 事件の弁護団の一人壇弁護士のブログで明らかにされた。
手紙の内容も全文ではないと思われるがかなり詳細に引用されている。弁護団を批判し有罪の見通しを語った上で、弁護方針のために語れない本音をメディアで語ればむしろ世間から理解がえられ正直に話したことが評価されて裁判でも減刑が望めるだろう、だから「神」の本音をNHKで語って欲しい、といったような内容だ。
壇弁護士はこの取材を露骨な弁護妨害と批判し、記者の態度を「これでは、デスノートの「魅上」並の狂気ではないか」と批判している。
この記事は大きな反響を呼び、NHK は謝罪、報道各紙もそれを記事にした。
さて、僕が最初思ったのはこれって「弁護妨害」なのかなーということ。弁護を妨害しかねない行為には違いないが、ニュースなどで話題になる弁護妨害といえば事件を担当する捜査官が被疑者の弁護権を侵害するという話だ。確かに今回 NHK 記者がやった行為は弁護権侵害の際に使われる手口の一つによく似ている。
しかし捜査官と被疑者の間にある権力関係に相当するものが、記者と金子氏の間にはない。メディアと容疑者ということでまったくないとは言えないし、NHK の記者がこれをやったということについては僕も嫌悪感をぬぐえない。しかし、もしこれがフリーのジャーナリストがやったことなら僕はそれほどには思わないであろう、とも思った。うまく言えないのだがそういう感覚がある。
多くの人はこの件をメディアの横暴とか被告人の権利の侵害という観点で批判しているようだ。小倉弁護士はその両面から捜査機関の下請け機関に成り下がった記者という記事を書いている。Apeman (id:apesnotmonkeys)さんも同様の問題意識から恭順戦略の強要という記事を書いている。
二人の論評はもっともだとも思うのだが、どうしても違和感をぬぐえない。というのは、僕は(そしておそらく問題の記者も)金子氏を単なる事件の容疑者とは思っていないからだ。一言で言えば良くも悪くも日本を(あるいは世界を)変えた人物だと思っている。
壇弁護士は記者の手紙を「デスノートの「魅上」並の狂気」と評している。つまり、金子氏を社会を変革する「神」と崇め、「神」が人間として裁かれるのが我慢ならない、そんな思想だと言うのだ。確かに記者の手紙を文字通り読めばそう読める。
一方で Apeman さんは「取材予定者に悪感情をもっていることを明らかにし」と評している。つまり Apeman さんは金子氏を「神」とする記者の言葉を真に受けず、記者は「魅上」などではなく容疑者をおだてて告白させたいだけだと解釈したのだろう。
記者の本心を知るすべはないが、僕には、記者は半ば本気であれを書いたのではないかと思える。壇弁護士によれば「しかも、この記者は、地裁判決後の記者会見で、何食わぬ顔で最前列に構えていた」というのだから熱心であったには違いない。
まあ、僕や記者がどう思おうと、事実として金子氏は技術で日本を動かした人物だ。しかもその技術は学術の世界でもビジネスの世界でもなくアンダーグラウンドの世界で生まれ育ったものだ。これは尋常なことではない。*1
一人のジャーナリストがそのような人物として金子氏に興味を持ち、なぜ Winny を作ったのか、そして今どう思っているのか、これからどうしたいのか、といったことを知りたいと思っても不思議はない。そういったことを記録に残すのは公共の利益にかなうことでもある。
しかしその人物が、チンケな(と言っては失礼だが)著作権法違反事件の、その幇助の罪に問われる。やっかいなことに、強引とも思われる論理で立件されたことで、チンケな事件の裁判は全ての技術者の未来を決定付けかねない大事になってしまった。こうなるともうこの事件は事件当事者だけの問題ではなくなってしまい、金子氏は自分の身の振り方だけを考えればよいという立場ではなくなってしまった。
真実がどうであろうと状況が語りうることを大きく制限している以上、普通に金子氏にインタビューをしても出てくる言葉は予定調和にしかならないだろう。仮に有罪になれば法を越えた正義について彼が語ることもありえなくはないが、彼を支えた弁護団や支援者の事を考えれば金子氏がそうする見込みは少なそうだ。逆に無罪になったとしたら法廷で語ったことが今後も真実として語られるであろう。
それでいいのか? という思いがジャーナリストの心に芽生えても不思議はない。自分の立場を利用してあらゆる方法で金子氏にゆさぶりをかけて本音を引き出したい、と思うのも、職業倫理としてどうかということは別にして、不思議はない。それは「犯罪者に反省をせまる世間」の論理とも「有罪を推定する捜査機関」の論理とも違う、別の思いだ。
もちろん金子氏がどんな人物であれ、金子氏には人権があり、彼は語りたいときに語りたいことを語ればいいのであり、語りたくない事は墓場の下まで持って行けばよいのだ、とも言える。しかし一方で、時代を変えられた側としての私たちには「どうしてこうなったのか」ということを知る権利はあるだろう。
もちろん、金子氏の未来を奪ってまで、というわけにはいかない。しかし地裁判決で罰金刑、検察の求刑は懲役1年という程度の事件で、腫れ物に触るような配慮が必要なのかとも僕は思う。そういうわけで記者に同情的なコメントを僕は書いた。
*1:単純にP2P技術のことを言っているのではない。誤解のないように。
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