Econ少年漂流記

2013-05-02

現象学ふたたび

以前ずいぶん売れた小熊英二氏の

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

でもそれなりのスペースを割いて現象学の説明をしていましたが、どういうことか、最近現象学って流行っているのかしら? それとも社会を語るうえでもともと現象学的発想というのは自明のもので、真新しいものでは決してなく、単にこれまで私が気づいていなかったということなのかしら?

日本や外国で多くの方々とであってきた中で感じるのは、社会って結局個人個人がバラバラの見方をしていて(間主観性)、その個人個人が交わることで合目的にコミュニティの中に合意や仕組みができあがっていく、という当たり前のことを痛切に感じるのです。

昨日は大先輩先生方とダブルヘッダーで、まずは祇園でコップ酒を数杯飲んでから、北野白梅町でのカラオケに合流する合間にフラッと四条河原町角のBook 1stで衝動買い

数の現象学 (ちくま学芸文庫)

数の現象学 (ちくま学芸文庫)




まあ1999年と2009年の出版だから、決して流行とかっていうことではないのかもな。昨年、現象学やら構築主義やらについて幾つか読んで以来、おそらくアンテナが立つようになったのでしょう。現象学について知って以来、研究者と議論をしたり、人と酒を飲んだり、業務上のやり取りをしたり、他者との誤解やすれ違いを経験するたびに、社会の仕組みを説明するには現象学的視点が腑に落ちるのです。

より良い社会をつくりたいと願うならば、私たちは他者の多様な意見に謙虚に耳を傾け、自分の意見を明確に述べ、合意形成をしてゆく必要があるのだと、当たり前のことを再認識しています。
 
 

2013-04-30

マルクスの亡霊

民主主義」の解釈は多様である。米国が民主主義教育を強調し、かたや北朝鮮だって国名に民主主義標榜している。

今日ジュンク堂の近刊コーナーでなんとなく衝動買いしてしまった。



原題が"Declaration"というくらいだから、この本がやたらと宣伝めいているのは仕方がない。ただ、「反逆」ではなく「叛逆」だったり、「闘争」の語を乱用していたり、まず語彙の面で少なくとも私の趣味ではない。

また、借金返済を拒否せよという所以は、「そうした束縛や負債から逃走するのは、『紐帯』や『負債』という言葉に新しい意味を付与し、新たな社会的関係を見出すため」(p.67)なのだそうだ。マルクスを引用して、「負債の返済を拒絶する目的は、貨幣の権力と、貨幣が創り出す束縛を粉砕すると同時に、新たな紐帯と新しい負債[=恩義]の携帯を構築すること」(p.68)とのこと。

私はどうしても、こうしてものごとを上と下に分けようとする考え方に賛同できない。「闘争」と「革命」を訴え、その末に何らかの勝利を得たならば、彼らはきっと上から旧体制派を下に見ることだろう。それは明らかな自己矛盾行為である。

今この時代だから、こういう思想が世界中でうようようごめいて来るのはわからないこともない。京都の一部のコミュニティでも、風を感じている人たちを見る。しかしその風は必ずまた逆風になる。
 
 

2013-04-23

日米経済摩擦沈静化についての集団間社会心理学的一考察

元あほあほサラリーマン・・・

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ひょんなご縁から大学教員に関心を持ってしまった

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やばい、研究しなくちゃ。誰もやらないことをしなくちゃ・・・

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日米中政治経済研究会?? 日米経済摩擦のことなんて五万と本が出てるし、何を書きゃいいんだよ・・・

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たまたま見つけた集団間社会心理学っちゅーやつを貿易摩擦にアプライしているの、どうやら誰も書いてないぞ

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An Inter-Group Socio-Psychological Analysis on Resolving Japan-U.S. Economic Frictions立命館国際地域研究37号)

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学術的意義?? 知らねぇ。

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この研究の継続性?? ないかもね。
 
 

2013-04-19

僕の英語勉強法

昨日ある学生に、夏からアメリカに留学に行くので英語力を上げたい、どうしたらいいか、と相談を受けました。

私は大学入試以来、「英語の」授業やらお勉強やらをやったことがなく、大学ではポーランド語とフランス語でした。留学に向けても特に英語を勉強したわけではなく(TOEFL対策は少しだけやりましたが)正攻法を教えられるわけではありません。大学院や仕事を通じて読み書き話しのスキルが知らない間に徐々についてきたみたい、というのが正直なところです。つまり、長い時間かけて少しずつ我々が日本語をふつうに扱うような感覚をつけてきたにすぎません。

しかし相手は数か月後には海外に行くということで、即効性のある答えが欲しいみたい。困った・・・。「そんなのないよ」というのが正直なところ。でもそれじゃあまりにも冷たすぎるので、たまに意識してやっていることを伝えてみました。

The EconomistNew York Timesの国際記事などに、特集でビデオクリップがあったりしますよね。もちろんYoutubeでもいいんです。ああいうものを定期的に見る際に、耳から入る英語をまるであたかも自分が喋っているかのような感覚で0.2秒後くらいにモゴモゴ繰り返します。この「あたかも自分が喋っているかのような感覚」が大事なんじゃないかなと思っています。要は、しゃべっている人の英語を真似て盗んでいるようなものです。ついでに話の中身も自分のものにできます。そもそも関心があるテーマですしね。

感覚的に理解するパーセンテージを徐々に上げていく、という教育方法は、だめなのかな?文科省にはだめなんだろうな。
 
 

2013-04-15

なぜ私は学生の目線でいるのか

フルタイムで大学教員になってまだ3年ちょっとの私なりのアプローチであります。大学教員の大多数が私みたいになってしまっては良くないことでしょうが、そうは絶対にならないでしょう。なぜなら大学教員たちも皆、バラバラの主観でものを見ているからです。

私が内外で人々と接してきて感じるのが、社会だとか共同体だとかいうもののルールや規範などというものは、多数の人間の主観が入り混じった結果築かれていったものだということです。哲学で言うところの間主観性社会科学を分析する手法としてはいわゆる構築主義などがそのような観点から社会を見るようです。

こう考える理由は、特に前職や前々職での多国籍チームで働いていて、構成員がそれぞれてんでバラバラな考え方であることがよくあったからです。ところが、多様な構成員たちによってでも合目的に規範のようなものできあがってゆき、どちらの集団も世の中に普遍的価値を創造していたと思います。そのためには構成員が自ら考え、自ら発言し、集団で議論を重ねることになります。私が考える民主主義の価値とはこういうものであり、これを前提としたプロセスこそ好循環な社会システムを構築するのだと考えています。多様性が力を発揮する現場を身をもって体験することができたのは幸運でした。

こういう社会では、ものごとは必ずしも理屈(正確には自分が持つ主観的な理屈)通りにいきませんし、昨日の常識が今日の非常識だということもあり得ます。ところ変われば規範が変わるのは当たり前のことです。ケンカも、誹謗中傷や嫉妬も、戦争も、徒党も、合意も、友情や結婚も、全てが個人や集団が主観的であるから起こるのであり、全ては人間同士がけん制したり衝突したり融和したりしながら歴史は脈々と流れてきました。

もし現時点での集団内の合目的な規範が「A」であることを、ある一人の学生が主観的に「B」であると主張すれば、その学生はまずは壁にぶつかるでしょう。しかしその学生が「B」であることに確信しており、それを集団に説得できれば、その学生は一人の構成員として集団の規範を「A」からほんの少しだけ「B」に近づけることができるかもしれません。社会というものはそうやって構築され、変化してゆくということです。

社会や共同体をこのように捉えれば、大学の教員が社会のルールなどについて教える必要は必ずしもなく、学生自身が社会の構成員として自ら考え、自ら発言し、集団で議論ができるように促すことこそが重要なのだと思うのです。間違いなく言えるのは、何ごとも失敗しないとわからないのですから、大学教員が「答えはこうである」と言っても、ライブで直接人間同士が接するうえでの教育的効果は薄いのです。それなら、書籍やインターネットで簡単に答えを見つけることができるからです。そもそも「答え」自体が多面的で流動的ですから、学生自身が社会を見る目を養い将来自立できる大人になってもらうことしかできません。

だから私は、世界の見方がどのように変わってきたかを意識しながら、若いころの自分を仮構して学生に伝えられるように心掛けています。そうするのは、大人の社会も学生の社会も子供の社会も、日本の社会も欧米の社会も途上国の社会も、結局どれも優劣をつけられるようなものではないことを日々感じてきたからです。批判すべきものは批判すればいいのです。そして自分の経験上も共感できるのは、多くの学生が共有している、いわゆる「大人」の社会に対する不要な畏怖の念です。この畏怖の念こそ、教育現場・部活動・社会における上意下達の一方的な関係から構築されてきたものでしょう。それが不要だということを身をもって提示することが、特にビジネス出身の教員である私の役目だと信じています。私ごときでも、ひとまずどうにか生きていることを示し、何ごともとにかく行動を起こすことだと暗に伝えているつもりです。

学生諸君、私が皆さんに友達のように接することで、勘違いをしてはなりません。私は皆さんがどんな相手に対しても敬意をもって接するだろうという、捨て身の性善説に立って皆さんと日々接しようと努めています。皆さんを信じているからです。