そこに立ち現れるということ

きょう、上野の東京国立博物館に行った。日本美術なんて果たして理解できるんだろうかとか思っていたが、展示はなかなか予想以上に楽しかったのである。なんというか、前近代のいわゆる古美術・骨董品ではあるけれども、展示品を見るわたしの眼前に、展示品が現前している感じ、言い換えるならば、「今ある」ように、それがわたしの前に立ち現れている気がしたのである。ただの古美術・骨董品以上のものを感じたのである。例えば、焼き物や彫像を造った制作者が、わたしの眼前で、「たったいまそれを制作したばかりである」という錯覚のようなものが感じられた。

なぜ、展示された土器や仏像、伊万里焼などの文化財が、まるで現代のものとして、たったいまそこで作られ、差し出されたような錯覚をわたしは覚えたのだろうか。いわば土器や仏像、伊万里焼はそこに立ち現れていた。おそらく確かであることは、わたしが、感性や直観によって、展示品の現前性を認識したということである。既に持っていた知識やその知識による分析的推論をもってして、現前性を理論的に確かめた、というわけではないと思う。この体験は、今まで博物館を訪れた時には、覚えたことがなかった。

これをアニメに敷衍してみよう

アニメの現前感覚、つまりアニメがそこに立ち現れる感覚とは、どういうことだろうか。言うまでもなくそれは「感覚」である。まず、われわれはアニメを観る時、感覚をもってしてアニメを把握しているのではないか。少なくともわたしは、アニメを観始める時、直観的・感性的にアニメを把握している。

程度は多かれ少なかれ、われわれがアニメを観る時には、感覚の力がはたらいているのではないか。いわばその時の、感覚の程度の多少は、アニメに対する距離の取り方と対応しているようにも思える。わたしはアニメに対し、感覚が及ぶ範囲が広く、アニメに対する距離はまた近いということを、おぼろげながら自覚している。わたしという現実とアニメは、かなりの程度「密接」している。その思いが加速する時、わたしはわたしという現実を、アニメと同化する。

わたしは感覚によって直観的・感性的にアニメを把握し、アニメと同化するかのごとく密接している。まさにその瞬間、東京国立博物館の土器や仏像や伊万里焼に見出したような、現前感覚すなわちそこに立ち現れるという感覚と同じような、アニメが(アニメ自体として)そこに立ち現れるという感覚を覚える。アニメは、単に制作されたものとしてではなく、<そこにいきいきと生きているキャラの息遣い>のようなものとして立ち現れる。

正確に言えば、たったいまそこで土器・仏像・伊万里焼が制作されて差し出されるという、きょう博物館で覚えたような、現前感覚が生む錯覚と、ふだんわたしがアニメを観るときに経験する、<そこにいきいきと生きているキャラの息遣い>のようなものの<実感>とは、等質のものではない。土器や仏像や伊万里焼には、制作者が介在するが、わたし自身のアニメを観る行為においては、制作者はむしろ捨象されているからだ。

きょう東京国立博物館で感じたような、展示品がそこに立ち現れるという感覚のようなものを――そこに制作者の息遣いは介在しないにしても――例えばキャラの躍動感の「現前」として、肌で感じるならば、わたしはその時アニメを楽しんでいると真に言えるのである。