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もっと最高の夢を【〜鼻呼吸〜】

2014-04-01

そこに立ち現れるということ

きょう、上野東京国立博物館に行った。日本美術なんて果たして理解できるんだろうかとか思っていたが、展示はなかなか予想以上に楽しかったのである。なんというか、前近代のいわゆる古美術骨董品ではあるけれども、展示品を見るわたしの眼前に、展示品が現前している感じ、言い換えるならば、「今ある」ように、それがわたしの前に立ち現れている気がしたのである。ただの古美術骨董品以上のものを感じたのである。例えば、焼き物や彫像を造った制作者が、わたしの眼前で、「たったいまそれを制作したばかりである」という錯覚のようなものが感じられた。

なぜ、展示された土器仏像伊万里焼などの文化財が、まるで現代のものとして、たったいまそこで作られ、差し出されたような錯覚をわたしは覚えたのだろうか。いわば土器仏像伊万里焼はそこに立ち現れていた。おそらく確かであることは、わたしが、感性や直観によって、展示品の現前性を認識したということである。既に持っていた知識やその知識による分析的推論をもってして、現前性を理論的に確かめた、というわけではないと思う。この体験は、今まで博物館を訪れた時には、覚えたことがなかった。

これをアニメに敷衍してみよう


アニメの現前感覚、つまりアニメがそこに立ち現れる感覚とは、どういうことだろうか。言うまでもなくそれは「感覚」である。まず、われわれはアニメを観る時、感覚をもってしてアニメを把握しているのではないか。少なくともわたしは、アニメを観始める時、直観的・感性的にアニメを把握している。

程度は多かれ少なかれ、われわれがアニメを観る時には、感覚の力がはたらいているのではないか。いわばその時の、感覚の程度の多少は、アニメに対する距離の取り方と対応しているようにも思える。わたしはアニメに対し、感覚が及ぶ範囲が広く、アニメに対する距離はまた近いということを、おぼろげながら自覚している。わたしという現実とアニメは、かなりの程度「密接」している。その思いが加速する時、わたしはわたしという現実を、アニメと同化する。

わたしは感覚によって直観的・感性的にアニメを把握し、アニメと同化するかのごとく密接している。まさにその瞬間、東京国立博物館土器仏像伊万里焼に見出したような、現前感覚すなわちそこに立ち現れるという感覚と同じような、アニメが(アニメ自体として)そこに立ち現れるという感覚を覚える。アニメは、単に制作されたものとしてではなく、<そこにいきいきと生きているキャラの息遣い>のようなものとして立ち現れる。

正確に言えば、たったいまそこで土器仏像伊万里焼が制作されて差し出されるという、きょう博物館で覚えたような、現前感覚が生む錯覚と、ふだんわたしがアニメを観るときに経験する、<そこにいきいきと生きているキャラの息遣い>のようなものの<実感>とは、等質のものではない。土器仏像伊万里焼には、制作者が介在するが、わたし自身のアニメを観る行為においては、制作者はむしろ捨象されているからだ。

きょう東京国立博物館で感じたような、展示品がそこに立ち現れるという感覚のようなものを――そこに制作者の息遣いは介在しないにしても――例えばキャラの躍動感の「現前」として、肌で感じるならば、わたしはその時アニメを楽しんでいると真に言えるのである。

2013-05-22

作品の対象年齢によって態度を変える男の人って・・・・・・。

アニメ作品が想定しているであろう対象年齢によって「語り」の質を変える、つまり、対象年齢によって態度変えるの、もうやめませんか?

『ドキドキ! プリキュア』も『進撃の巨人』も、同じ土俵で語ってみませんか。

きっと、アニメは固よりひとつなんですよ……。

あらゆるアニメを、遍くフラットに語れてこそ、真にアニメファンと呼ぶに値するのではないか。
それは所詮、理想だ。でも、理想は理想として、目指すべきものとして在ると思うのです。

プリキュアだから特別扱いしない、深夜アニメだから特別扱いしないって、まあそういうこってすわ。

2013-05-14

あの頃の僕はブログに「達成」を求めていた

それは、否定出来ない。
でもそれは、間違いだ、バッテンマークだ。

ブログに達成を求めるって筋違いじゃないかな。
達成を追い求めてブログ書くのが苦痛になるのなら、本末転倒じゃないか。

むしろブログを書くのは自分を満たすためじゃないといけない。
ブログ執筆の過程で自分が浄化されなければ……!

肩の力がいい意味で抜けたということ

http://anipression.doorblog.jp/archives/51346687.html

そうか、この記事↑を書いてからもう1年近く経ったのか。

もう『アニプレッション』で記事を書く予定はないが、この、ヤケに気負ったタイトルの記事は、予想以上の反響を得た、らしい。

「ブロガーよ、優れた読み手たれ。」なんて、凄いこと言ってるね。偉そうに。

いまではもう少し肩の力も抜けて、ブロガーが皆が皆血眼になってアニメを構造分析すべきだ云々……みたいなことはツユも思っていない。
↑の記事で言ってることとは真逆に「佐天さん萌え〜!」みたいなことを巨大赤文字で叫んでるだけのブログも、今は許容出来るんだよね。

1年前のおれ、↑の記事を書いた頃の俺は気が立っていた。もっと言えばFC2界隈の感想ブログに苛立たしさを感じていた(自分は幾ばくも更新しないくせに)。
でも、今は馴れ合いも人畜無害さも心地よい肌触りになってる、うん。

いま、FC2界隈で面白いアニメ感想ブログって何処だろう? 教えてもらうんじゃなくて探す努力しなきゃな。
そういえば、『失われた何か』、いつのまにか文体変わってましたね。

2013-01-16

柳田国男で備忘録

柳田国男の『青年と学問』所収「旅行の進歩および退歩」に、こんな記述があった。

……俳諧の連句の方は、生憎と表現に無理が多くて難解ではあるが、わかりさえすればことごとく近世生活の実写であり、しかもその約四分の一は、作者自身の旅行の産物であった。四分の一と勘定したのは変であるが、その他の四分の一は家庭の日常経験から、他の四分の一は読書と瞑想から、残りは古文学の口真似であるゆえに、そう言って見たのである。(柳田国男著『青年と学問』岩波文庫 57頁より)







1.非日常。(例:旅。)
2.日常。
3.読書と、瞑想というよりも、今日的には、妄想。
4.過去の名作・名文の模倣。

なべて書いたもの(書かれたもの)とは、この4つから構成されているらしい。
だとすると、ブログも?