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もっと最高の夢を【〜鼻呼吸〜】

2014-03-29

『生徒会役員共*』を観ながら考える その1

「最初に好きになったのは声」というフレーズが『シティーハンター2』の主題歌にはあるが、わたしが2010年に放映された『生徒会役員共』第1期に抱いた最初の印象は「声」であった。具体的には浅沼晋太郎の演技が好ましいと思ったのである。津田タカトシのツッコミに生理的な快感を覚えたのである。

言うまでもなく音声の受け取り方は感受性によるものである。生理的な快もしくは不快の感覚であり主観的なものである。たとえば音声の受け取り方をことばで普遍化し客観的なものにしようとしても、一般的な観点から言ってそういう試みは不可能であるという結論になるだろう。しかしその不可能性を超越し、映像作品における音声と感覚をめぐる問題は肥沃な議論の場を提供するのである。わたしはその肥沃さを証明するためにこういった書き物を書くことでコツコツと努力しているのかもしれない。

声や音、音楽、あるいは(これが最も重要だが)音声と音声の間、が渾然一体となって「音の置き方」なる概念を形作る。少なくともわたしはそういう認識を持っている。この認識はきっと完璧には普遍化され得ないだろう。さきほども書いたように音声一般が感受性、感覚という主観的なものに依存しているからである。だがしかしこの仮に「音の置き方」という概念をあてることができるような認識を少しでも普遍的なものに近づけようとするのは空虚な試みではないだろう。少なくともわたしはそう思っているので、声や音、音楽、音声と音声の間つまり自分流のいい方を使わせてもらえば「音の置き方」にこだわるのだ。



さて、それでは『生徒会役員共』シリーズの音の置き方の特質とは何だろうか? おそらくそれを言葉で形容したとしても、完璧に共有されることは難しいだろう。しかし、ある種”詩的”といってしまえば甘い響きではあるがその実主観的でしかない自分自身の形容、換言すれば言葉でないものを言葉で形容しようとする主観的でしかない試み、に意味が皆無であるとはいえないだろう。感覚を言葉にすることに対しくじけないことは、うん、大事だ。

生徒会役員共』シリーズの音の置き方の特質。それを特徴づけるひとつの感覚として「滑らかでない感じ」という概念をわたしはひねり出す。滑らかでないということは滑らかさの反対であるから、それを一言であらわす形容詞があるはずだが、残念ながらわたしには語彙力がない。

滑らかではないということは、別の言葉を借りて言えば、ざらざらしている・ごつごつしている、ということだ。わたしにとって、『生徒会役員共』シリーズの呼吸は、それにつきる。呼吸とは勿論アニメ自身がそういうふうに呼吸しているのだ。つまりこのアニメは滑らかに呼吸しない。健康である人がすー、はー、すー、はーとする風に呼吸しない。ぜぇぜぇハァハァという荒い呼吸。そういう呼吸は、粗く、どちらかというと心地の悪い呼吸である。

滑らか/滑らかではない、という言葉遣いと呼吸という形容がマッチしているかどうかは心もとないが、ともかく「自然でない」のである。そうだ。「非・自然」な音の置き方なのだ。非・自然なアニメ自体の呼吸、息遣いなのだ。

その滑らかでない感覚、不自然な感覚は、具体的にいえば、本作品の中核といっていい「下ネタ」が繰り出される瞬間にあらわになる。下ネタが繰り出される時、映像を観るわたしの(少なくともわたしの)感覚は映像と下ネタに対し鋭敏になる。たとえば「次はどんな下ネタを繰り出してくるのだろう」という予感。その予感が実感になる瞬間、つまりわたしが下ネタに注目する瞬間、このアニメの音の置き方は滑らかでないもの、自然でないもの、ある意味”いびつなもの”になっているのだと思う。

もちろんこの”感覚”が共有されうるとは到底思わない。それは主観的なものにとどまっている。実はこれはわたしがビジュアルを運用せずに文章だけで説明しようとしていることに起因するものである。著作権や「絵が動くことの尊厳」などお構いなしにキャプチャを多用する人なら、こういう感覚を説得することはもっと容易なのだろうけれど、わたしはそれに頑迷に抵抗している。そしてゆえに人一倍説明に難渋するようになっている。

だが、キャプチャ派なる一派が仮に在るとして、キャプチャ派には負けないぞ、書きことばでアニメをどこまでも切り取ってやるぞというわたし自身の意志は死なない。もっともこんなに決然的な言い方をしないにしても、「アニメを書きことばで切り取る」という高い理想に向かってことばを研ぎ澄まし、キャプチャ派と折り合っていけばいいだけの話ではある。

ともあれ、ひとまず、「滑らかでない」「自然ではない」「いびつである」といったことばを、『生徒会役員共』シリーズの音の置き方からひねり出せたことは収穫としよう。そうだ。もう一つつけ加えるならば、「ぎこちなさ」という5文字が『生徒会役員共』シリーズのテンポ/リズムを貫いているのではないのではないのだろうか。

「滑らかではない」「自然ではない」「いびつである」「ぎこちない」なんだかネガティブな意味の言葉遣いばかりだ。しかしこういったネガティブなモチーフが、このシリーズのポジティブな生理的感覚を形作っていることは、少なくともわたし個人としての印象では、事実なのである。わたしは『生徒会役員共』シリーズを観るとき、そこにネガティブなモチーフを見出すことで逆に快感を覚えている。つまりわたしにとって『生徒会役員共』シリーズというアニメを支配しているのは、言わばネガティブとポジティブの二律背反のようなものなのである。

(つづく)

『生徒会役員共*』を観ながら考える その2

ところで、個人的には、第2期になって、津田タカトシに向けての複数の女性キャラの恋愛感情が強調されるようになったという印象を受ける。とくに天草シノと津田タカトシの関係がわたしは気になる。1期より段違いにシノと津田の関係が「男女としての」関係に進展しつつある、という「予期」を映像を観ていておぼえるのである。

もちろんそれは、個人的で、印象論的なものにすぎない。1期よりシノと津田の関係が進展したといっても、いま1期の映像は手元にないし、1期の映像を脳裏に自動再生する能力等あるはずがない。つまり1期との比較のしようがない。ただしかし観ている人はみんな1期の記憶が薄れ、1期との比較のしようがなくなっているのかもしれない。

比較とはむずかしいものだ。ここでは1期と2期の程度の違いが問題にされている。〜より大きい/小さい、〜より多い/少ない、〜より強い/弱い、という「判断」を論理的に導くのは異常なまでに困難である(というよりもこれができたら大学者になれる)。第1段落で「1期より段違い〜」にという物言いをわたしはしたが、どうして「段違い」という物言いが安易にできるのか、むしろわたしという主観的判断の外にいる読者の方には奇っ怪に思えるだろう。

それに天草シノと津田タカトシの関係が「気になる」というのは「趣向」「趣味」の問題にすぎない。ただわたしがふたりの距離が近づいたらドキドキしちゃうだろうなと思っているだけだ。だがしかしこういったいわば「カップリングに対する趣味」の「差異」が書き手の個性を形作り今までのアニメファンダムを支えてきたこともたしかなのである。

いわば今、津田タカトシに向かい何本かの矢印付きの直線が引かれている。例えばそれは英稜高校・魚見と津田を結ぶ線なのかもしれないし、荻村スズと津田を結ぶ線なのかもしれない。言わばそのいくつかの線の中から、天草シノと津田を結ぶ線がとりわけ色濃くわたしの眼前に浮かび上がっているのだ。シノと津田を結ぶ線が、わたしにとって特権的に浮き彫りにされているのである。

こうしてみるとブログTwitterアニメを語る行為が個人的なものになるのも悪いことではないのかもしれない。むしろ確実に、益になることのほうが多い。そうだ、わたしはかつて「ブログとは個の表現である」というようなことを書いたのだ。基本的には今もそれは妥当なブログの定義だと思っている。とりわけ趣味に関するブログ、まさにアニメブログのようなものはそうだろう。わたしのアニメに対する認識は日夜流転しているが、アニメブログに対する認識はあまり変転していないのである。

例えば素朴なブロガーだったら、シノと津田の関係を面白おかしく描写することだろう。例えば素朴なSSの書き手だったら、ふたりの関係を面白おかしく二次創作に仕立て上げることだろう。こんな回りくどく読みにくい長文にしなくても本来はいいのである。

しかしだとすれば、”面白さ”をわたしのこの『もっと最高の夢を』というブログの売りにするのは筋違いというものではないだろうか。ブログが個だとしたら、わたしはブログを面白おかしく書く必要はないのである。わたしにブログが面白おかしく書けるわけがないのである。むしろ”真面目さ”をいまのわたしは売りにしたいと思っている。常時更新とかそういう更新頻度のレベルでの”真面目さ”では勿論ない。書くものの真面目さである。真面目なブログを目指そうと思う。そんな奇特なブログを積極的に閲覧してくださるような方は、おそらくそんなに多くないだろう。

キャラクター同士の関係性の話から、ひたすらブログ論にシフトしてしまった。個人的な意見を添えなければならない。なぜわたしはシノと津田の関係に、こんなにも惹かれるのだろうか?(あれれ、アニバタ的デジャブが……

わたしがシノから津田に向けられる想いに特別な感情を抱くことの理由の一端に、「シノが津田よりも年上である」という事実がある。

それは、単純すぎる事実である。姉さん女房とは素朴すぎる根拠である。ならばもっと素朴な話をしてみようか。わたし、お姉ちゃんが欲しかったんである。わたしは長男で、妹が一人いるのだ。つまり最もお姉ちゃんが欲しくなる環境で育ったのである。だから例えば『インフィニット・ストラトス』の織斑千冬みたいな女性に簡単に焦がれてしまうのである。しかも千冬と『IS』の主人公である一夏はきょうだいであるが、天草シノと津田タカトシはきょうだいでも何でもないのである。津田タカトシにわたしという存在を仮託して、わたしが本作を味わっているとすれば、どうして年上の異性であるシノと津田を結ぶ線に焦がれないだろうか?

ここで賢明な読者は疑問を抱くだろう。「津田とラブ・アフェアを起こす英稜高校の魚見会長も津田より年上じゃないか!」津田に自分をお姉さんとまで呼ばせる魚見会長とシノの差異はなにか? 魚見とシノを分かつ断絶はなにか?

それは、桜才学園の生徒会が最早「擬似家族」だからである。はじめてのアニメ化から4年を経て、視聴者にとってもアニメキャラにとっても桜才学園生徒会は最早「擬似家族」と化しているのである。シノと津田がきょうだいでないという当たり前の事実、2つ前の段落で述べたようなわたしがシノ⇔津田の関係性に色めく根拠の一つと相容れないようではあるけれども。

それほど桜才学園生徒会は視聴者にとってもアニメキャラにとっても馴染んでいるのだと思う。もちろんこれは経験的な主観論ではあるが。しかし貴方にも経験はないだろうか。ふとした瞬間に、アニメライフのなかで、アニメ作品のなかのコミュニティ(例えばこの場合桜才学園生徒会)が自分自身に定着したことが、つまり「馴染んだ」ことが。きっとあるとわたしは信じる。コミュニティでなくてもいい。国民的アニメキャラはアニメファンでなくても国民に定着しているだろう。キャラが視聴者に馴染むこともまた重要である。とにかく「馴染む」という現象が重要なのである。アニメは馴染む。

そして2010年の初アニメ化から4年を経て、擬似家族の「姉さん女房」として、天草シノはわたしが仮託する津田タカトシに「馴染んでいる」。すなわち、わたしが経験する、わたし個人の、そしてわたし自身の、アニメの経験に彼女は「馴染んでいる」のである。


(未完)