佐々木譲:ベルリン飛行指令

ベルリン飛行指令 (新潮文庫)

ベルリン飛行指令 (新潮文庫)

本田技研の取締役で技術者であった浅野氏から、第二次世界大戦中のドイツ国内に零戦が存在したとの情報を得た著者は、浅野氏の調査資料を基にその真偽を確かめはじめる。すると、どうやらほんとうに日本からドイツへ、零戦がはるばる敵国内の領土を通過しながら移送されたらしい。そして物語は、その移送を命じられた安藤大尉と乾空曹の、日本からドイツへの壮絶な長旅の記録を描きはじめる。


まあいきなり出だしの構成にやられてしまいました。おそらく浅野氏という本田技研の技術者であった人は実在し、その方に著者が取材を申し込んだのは本当でしょう。しかし、そこで零戦について、浅野氏が長年にわたり調査を行ったこと、そしてその調査によって明らかになった事実については、もう著者の創作の世界なのか実際のことなのか判然とせず、そのまま物語は第二次世界大戦中のドイツへと流れ込んでゆきます。小説ですから、全てが創作であっても当然だとは思うのですが、このような方法で事実と創作との垣根を渾然とさせるという描き方は、あまり経験したことがなくとても斬新でした。


物語自体は、零戦に興味を示したヒトラーがそのライセンス生産をもくろみ、とりあえず性能判定用に2台の零戦を日本に求めることから始まります。しかし、時代はイギリス空軍が制空権の多くを握るという状況で、とてもまともには日本からベルリンにたどり着くことはできない。そのため、日本の情報網を駆使して飛行場を密かに駆使しつつ、あまり空軍内で評判のよろしくない安藤大尉と乾空曹にパイロットの指名が下ってしまいます。


この二人のパイロットの描写がとても素敵なのが、まずもって本書の魅力と言えます。混血で極めてリベラルな思想の安藤は、軍隊の中ではその卓越した飛行技術によって人望を得つつも組織的には疎まれ、望まぬこととは言え様々なトラブルを巻き起こし、乾とともに左遷され日本の基地でくすぶる毎日を送っています。この安藤の盟友とも言うべき乾は、安藤とは違い整備兵からのたたき上げというキャリアコースからは外れた人なのですが、そのためある種真の飛行機乗りで、面倒なことは嫌いでしかも部下からは慕われる。この二人が、絶望的なベルリンへの長旅に乗り出すことになります。


ベルリンへの飛行に乗り出すために、様々な策謀や思惑が描かれ、それはそれでとても読み込ませるものがあったのですが、僕が本書に本当にのめり込んだのは、二人が日本を飛び立ってからでした。とにかく、空を飛んでいる風景の描写が、なにか斬新なのです。日本から中国経由でインドからイラクに入り、そこからトルコを経由して同盟国のイタリアからベルリンへと至るそのらの旅の描写は、まあ雄大なものと言ってしまえばそれまえなのですが、なにか高い空の高みから世界をみおろすような、あまり高所の特異ではない僕には少し落ち着かない気分になってしまうほど、緊迫感と現実感にあふれているように思います。


この飛行経路を確保するために、各国の諜報部隊の人々が暗躍を繰り広げたり、またインドの独立運動の余波があったり、イラクでは無茶な依頼を受けたりと、様々な出来事が勃発するのですが、とにかく本書の魅力は零戦による飛行の描写にある、そんな気がしました。また繰り返しになりますが、このような虚構と現実の描き方は、本当に新鮮に感じました。日本の侵略主義に対する辛辣な批判が、登場人物たちのことばのひとつひとつに込められているのも、また著者の作家としてのあり方を強く感じさせるものがあり、なんだかとても共感できます。