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日々すれすれ日記

2014-07-30

romy_sh2014-07-30

恐怖の報酬


先日、「恐怖の報酬」(1952年)のリバイバル上映を

観に行ってきた。

恐怖の報酬」は、今から60年以上前の白黒のフランス

映画だが、題名からもわかるとおり、そこにはシャンソンも、

エッフェル塔やセーヌ河も、恋の語らいもない、残酷で殺伐

としたサスペンス映画である。


わけあって故郷(主に欧州)から逃げてきた男もいれば、貧しさゆえ

故郷に仕送りをするために仕事を求め、または一攫千金を狙って

やって来た者もいる(恐らくいずれも石油がらみの仕事狙い)。

そんな男たちの吹き溜まりのようになっている、メキシコにほど近い、

南米ヴェネズェラにある町が舞台である。


はるばる海を渡って来てみたら、仕事なんかロクにありゃしない。

毎日毎日、金がないからどこにも行けないし、そもそも行くところ

なんかなく、ひもじさからも、灼熱地獄からも逃れられない。

みんな昼間からカフェ(とはいえコーヒーなんか飲んでいる人は

いない)で安酒を飲んでくだを巻いているしかなく、ケンカや

殺傷沙汰は日常茶飯事。パーッと稼いで故郷に帰りたいと誰もが

思っているけれど、誰ひとり、稼ぐことも帰ることもできない。


そんな貧困と暑さにあえぐ町でも、全く違う一角があった。

アメリカの石油会社が陣取っている地域である。仕事も、快適な

暮らしもそこにはあり、貧しさや飢えとは無縁の世界。

吹き溜まりの男たちは言う。

「石油のにおいがするところには必ずヤツらがいる」


ある日、町から500キロ離れた油田で大火災が発生。

犠牲者も多数出ていることから、石油会社は一刻も早く消火したいため、

ニトログリセリンを使うことを決定。問題は大量のニトログリセリンを、

500キロ離れたところまで誰が運ぶか、ということだ。

石油会社には、そんな危険な仕事を引き受けるアメリカ人はただの

ひとりもおらず(そもそも社員にやらせるつもりは初めからない)、

町には食いつめた移民がゴロゴロいることから、賞金付きで、

トラック2台分の運転手4人を募集することになった。

金はなくても体力と度胸があり、数多の修羅場をくぐって生きてきた

ハングリーな男達は、募集に群がった。

こうして選ばれた、フランス人ふたり、ドイツ人ひとり、イタリア人

ひとりの、計4人の男達が乗った、それぞれ大量のニトログリセリンを

積んだ2台のトラックは、500キロ先の油田まで無事辿り着くのか…


という、手に汗握る、最後まで目が離せない、ハラハラドキドキの

第一級サスペンス映画であり、随分前にTVで観たときは、主に後半の

トラックが油田に向かって走るところからドキドキハラハラを楽しんだ

記憶があったのだが、今回久しぶりに、そのうえ劇場で観たときは、

前半の移民たちによる人間模様や背景の、あまりのリアリズムから

目が離せなかった。


こうして書いていると、食いつめ移民と、石油に群がるアメリカ野郎

しか出てこないように思えてしまうけれど、もちろん現地人もいる。

アメリカ人が、自分達の土地に好き勝手にパイプラインを引いたり、

それで富を得ていようと、どれだけ好きにされても、彼らは何も

言えない。例の賞金付きの募集に群がることもしない。

我がもの顔のアメリカ、四方八方からやって来たハングリー移民

そして、よそ者に好き放題にされ、時代に取り残される形になって

しまった、貧困を静かに受け入れるしかない現地人…


相も変わらず米国の顔色を伺い、かの国への依存心丸出しである

我が国は、少子高齢化による労働力不足と、人口減少の解決策として、

今後50年間で1000万人の移民を受け入れるという提言を現政権

与党がしているそうで、彼らが反対していたはずの外国人参政権

かわいく思えてくるほどである。

移民政策と並行して、グローバリズムが隅々にまで行き渡り、

格差はますます広がり、貧困層は厚くなっていく一方となる。

恐怖の報酬」の現地人と、50年後(いや、もっと近い未来)の

日本人がだぶって見えてしまったのは私だけだろうか。



2013-08-16

romy_sh2013-08-16

白いドレスの女


それにしても暑い。昨夜の東京の最低気温は28度

だったとか。

行きもしない海外の天気予報を、ときどき見ることが

あるけれど、アメリカラスヴェガスフェニックス

天気や気温を見てみると、雨マークがついているのに

40度だとか、おや、今日は低めで32度なのね、と思いつつ

よくよく見ると深夜の気温だったりする。


この映画の舞台も、うだるような暑さのフロリダ南部

主役のキャスリーン・ターナーはこの作品がデビュー作らしい。

だからなのか、演技は上手いとは言い難いけど、この役はぴったりだった。

何がよかったって、体の中が透けて見えるような、裸よりもいやらしい、

薄く白いブラウスと、卑猥な体の線をより淫らに見せるために作られた

ような白のタイトスカートがとてもよく似合っていた。

これがなければこの映画は始まらない。あと、うだるような暑い夜が

なくても始まらない。理由はもちろん、ウイリアム・ハート演じるネッドを

惑わせるために、だ。


夏以外の季節に観ても、エアコンが快適に効いた室内で観ても、

画面の外まで、じっとりした不快な暑さが伝わってくる。

効いているのかどうかわからない小さく鈍い扇風機、男たちのシャツの襟は

汗でべたつき、背中や脇は同じく汗で色が変わり、誰もがぬらぬらとしていた。

そして、マティとネッドが情事の後に入る氷風呂!

熱帯夜だから暑いのか、情事の直後だから熱いのか、

マティとネッドは一緒にバスタブにつかり、「ああ、暑い・・」と言いながら

大きな氷を、ひとつふたつとバスタブの中に入れていく。


ストーリー自体はよく出来てはいるものの、それこそナントカ劇場の

2時間ドラマとそう変わらない。ミステリーには違いないけれど、

ミステリーとしての合理性を楽しむ映画では決してない。

卑猥な白い服を纏ったキャスリーン・ターナージョン・バリー

気怠い音楽など、ねっとり絡みつくような不快な暑さとともに、

映画全体に漂う妖しい雰囲気を味わう作品である。


邦題の「白いドレスの女」も悪くないけれど、

やはり原題の方がしっくりくる、というか、納得する(笑)

“Body Heat”


※「白いドレスの女」のあらすじはこちらネタバレあり)



2013-02-10

「恋に落ちて」とチェーホフ


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メリル・ストリープロバート・デ・ニーロ主演の「恋に落ちて」(1984年)。

ずいぶん前、まだ鼻タレ娘のときに観たときは、甘すぎて最後までとても

食べられないシュークリームのような印象だったが、今観ると、なんのなんの、

ひと味もふた味も深みと捻りのある、大人向けにラム酒を効かせたカスタード

クリームのような大人の恋物語だ。

もちろんそれは、シンプルなストーリーながらも、抑制の効いた、細やかで

情感豊かなメリル・ストリープとデ・ニーロという、味わい深い芸達者の

二人が演じたからかもしれない。

よって公開当時、本国アメリカでは当たらなかったのは、さもありなんかな、

と思う。


二人が出会って間もない頃の、来るか来ないかわからないモリー(メリル・

ストリープ)を駅で待つフランク(デ・ニーロ)、会う日に何を着て行こうか

迷ってなかなか決められないモリー等々、いくつになっても恋をしたときの

愚かながらも微笑ましい姿が、ひとつひとつ機微に富んでいて本当に素敵だ。

恋をした相手を目の前にすると、自分が抱いている思いとは全く関係ない

言葉が口から出てしまう不器用な大人を(大人だからがゆえなのだが)、

ロシア映画監督ニキータ・ミハルコフは、チェーホフの小説で描かれる

恋に例えて、

「”あなたを愛してます”と言いたいときに、口から出てきてしまう

言葉が”今日はいいお天気ですね”となってしまうのがチェーホフだ」

と言っていた。


一歩進めては踏みとどまって、でもついついもう一歩踏み出しそうに

なっている二人が、初めて出会ったリゾリ書店で待ち合わせをしたときに

ひょっこり顔を出すチェーホフ

そしていろいろあって、なんとか踏みとどまったけれど、その帰りの電車の

中での、相手への愛おしさが抑えられない二人の視線や指先がせつない。

このときのメリル・ストリ−プとデ・ニーロふたりの所作のひとつひとつ、

そしてその後の、会いに行くか行かざるべきか、と逡巡するときのメリルの

演技は、もうただただ素晴らしい。


そしてラスト間際。

ここまで二人の、後から後から溢れ出てくる熱い想いや、それを抑える

せつなさを、ずっと観てきた観客には、ここでもついつい出てきてしまう

チェーホフに気づくはずだ。


最後に余談。

フランクは妻に、

「電車で女性に出会った。そして何もないまま終わった」

と告白するが、それに対して妻が言ったのは、

「なお悪いわ」

だったが、そのセリフはどうも観客の共感を得なかったらしい。

しかしながら、それはただ女を知らないだけだと思う。

何かあれば、なお悪い、

何もなくても、なお悪い、

妻とは、女とは、そういうものなのである。



2013-01-26

「ゴッドファーザー」を考察してみる


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ゴッドファーザーは文句なく素晴らしい作品だが、

観る度にひっかかっていたというか、気になっていたことがある。

それは作品の中で、一番多く使われているセリフなのではないかと

思われる、「ファミリー」というものの意味合いである。

我々一般の日本人が考える家族とはどうも違うし、

この国の反社会的組織の「組」とやらとも性質がかなり違うように思える。

彼らの言うファミリーというものを、ある程度感覚としてわかっておかないと、

この作品を本当には理解できないというか、面白さが半減するというか、

逆に言えば、それが多少なりでも感覚的にわかっているともっと楽しめる

のではないかと、漠然とではあるが感じていた。


彼らの言うファミリーにとって、裏切りは即粛清を意味するということが、

映画が始まって程なくするとわかってくるし、コルレオーネ兄弟で唯一血が

繋がっていない養子であるトムは、part1でもpart2でも、あえてわざわざ

「信頼している」とか、「裏切らない」とか、兄弟に言われたり、

自ら言葉にしたりするシーンが何度も出てくる。

どうやらこれは、シチリアの歴史に大きく起因しているようだ。


ロバート・デ・ニーロはpart2で若き日のヴィトーを演じるにあたって、

シチリア語をマスターするために、クランクイン前の数ヶ月間、シチリアに滞在した。

(余談だが、デ・ニーロはpart1のときにマイケルとソニーのオーディションを受け、

そのときはいずれの役も手にできなかったけれど、コッポラの印象に強く残っており、

part2を作ることが決定したときに、若き日のヴィトーの役はデニーロ

即決したらしい)

デ・ニーロはシチリア入りすると、シチリアの哀しい歴史と、それにより、

一見人懐こそうに見えるシチリア人の心の奥底に潜む警戒心、

よそ者を受け入れない心性を、シチリア語の習得と同時に知ることになった。


シチリアはほぼ全てのヨーロッパ人に侵略、統治された歴史があり、

王様がいても税金だけ取り立てて何の役にも立たず、近代になって警察組織が

できても、汚職がはびこり、島民を守る組織として機能せず、その結果、為政者

公的な権力も当てにならないため、土地に根を張ったボス(ドン)が非合法的に

支配することになった。それがマフィアの起源になるようである。

また、共に生きる(闘う)唯一信じられる存在がファミリーであり、

その自分たちが生きるための絶対的な存在であるファミリーを裏切る者は、

誰であろうと決して許すわけにはいかないのだ。


part2は、地元マフィアのドン・チッチオに背いたために殺された、ヴィトーの

父親の葬儀から始まる。自分の家族を殺した者は決して許さないということを

誰よりも知っているチッチオは、いつか必ず自分に仕返しに来るであろう

まだ幼いヴィトーをも殺そうとするが、ヴィトーの母親が自ら身を挺して

息子を逃がし、その後ヴィトーはたったひとりでアメリカへ渡ることになる。

そしてチッチオの予想どおり、数十年して、ヴィトーは妻や子どもを連れて

シチリアへ里帰りした際に、年老いたチッチオに復讐を遂げるのである。


part1でヴィトーを狙撃した首謀者はタッタリアと手を組んでいたソロッツォだが、

その手引きをしたのはヴィトーの運転手であるポーリー。自分の裏切りがバレて

いることも知らず、ニューヨーク郊外まで走らせた車の中で射殺される。

コルレオーネファミリーの長男であるソニーを殺した首謀者はヴァルジーニだが、

ソニーをおびき出すためにハメたのは妹の夫であるカルロだった。

彼も、高飛びさせてもらえると喜んだのも束の間、クレメンザに殺される。

そしてファミリーの古参幹部のひとりだったテッシオ。前の二人と同じように

ファミリーを密かに裏切り、ヴァルジーニと手を組んでマイケルの暗殺を

企んだのがバレて粛清される。

part2では、結果的に敵がマイケルの寝室を襲撃する手引きをしたことになって

しまったが、性格的に弟を裏切っている自覚をさほど持ち合わせていなかったと

思われる、実の兄のフレドまで殺されてしまう。

(またまた余談だが、part1でマイケルはソロッツォらを殺したことで、

ほとぼりがさめるまでシチリアに潜伏するが、アメリカにケイという恋人がいる

にもかかわらず、一目惚れした地元の女性、アポロニアと結婚する。

そのアポロニアは、マイケルのボディーガードであるファブリツィオの裏切りで

爆死してしまうが、どうも後日談としてマイケルがファブリツィオに復讐する

シーンも撮られていたようである。結構重要なエピソードだと思えるのだが、

なぜか劇場版ではカットされてしまった)


以上、考察はまだまだ途中だが、シチリアの哀しい歴史と、

それに基づき脈々と伝承されてきたシチリア人の気質が、

この作品のベースに根強くあるということが少しわかってきたところである。



2012-10-02

変わらない人は、変わり続ける人


つい最近図書館で、チャップリンについて書かれた本を読んだところ、

私なりの新たな発見があった。

チャップリンは1936年に、機械化は人間を幸せにするという、

当時常識になりつつあった価値観にアンチテーゼを投げかけ、

人間が機械化してしまうことを問題にした「モダンタイムス」という作品を

撮ったが、どちらかいえばサヨクマルキストコミュニストではない)

であり、ヒューマニストであったチャップリンらしい作品だろうと

単純にも以前は思ってしまっていた。

ところが今回の本を読んでみると、どうも1930年くらいまで彼は、

「機械は人間の知恵が生んだもので、人類の進歩に貢献するものだ」

と考えていたようである。これはかなり意外であった。


そして1931年に世界旅行へ出発する。旅行中、世界の名だたる芸術家

政治家などにたくさん会い、彼らの話に耳を傾け、忌憚なく議論をした。

数ヶ月に及ぶ長い船旅の中で彼は、知らなかった自分、気づかなかった

自分を知り、そして、彼の人間性や人生哲学、経験、それまでの輝かしい

実績という、すこぶる頼もしい土台の上に、さらに新たな自分を積み上げた

のではないか。

そして出来上がった作品が「モダンタイムス」だったのではないか。


天才の名を欲しいままにし、富も名声も若くして手にしたチャップリン

あったが、そんな自分に驕ることも、満足することもなく、同じところに

とどまることもせず、死ぬまで成長し、進化し続けた。

柔軟だったからこそ成りえた、頑固な天才だったのだ。


チャーリー本人の表現を拝借すれば、

「ロングショットで見て、一貫して変わらない人というのは、

クローズアップで見ると、日々進化し変わり続けている人」

ということになるだろうか・・・。