●lifeリスナーの知人と阿佐ヶ谷のLoftへ。松江哲明さんの「あなたと飲みたい」という連続のイベントで今回は六回目。白石晃士監督の「暴力人間」を上映。フェイクドキュメンタリーでありながら、PFFの審査員が本物のドキュメンタリーだと勘違いして送り返されたという曰くも納得の鬼気迫る登場人物たちの存在感とそこで生じている感じ!もっとネタっぽい映画だと思っていたので度肝を抜かれた。

 最初にQ大学(白石さんは九州産業大学の映画研究会にいたらしい)の新入生歓迎コンパでの惨状や、その原因の先輩後輩関係に反旗を翻した新入生二人といった説明のテロップで始まる冒頭はネタらしいワクワク感で見ていたのだが、それが暴力のシーンで変わる。

(途中がblogの操作ミスで消えちゃった・・簡単にまとめます)
当時の新入生二人笠井と稲原は、二年前の事件をめぐってドキュメンタリーを撮りたいと押しかける白石(二人と同学年)に同意し、映研のメンバーを呼び出したり、街でばったり出くわした当時のメンバーに暴行を振るう。ここのリアリティは半端じゃなくやばい感じがするのだが、その後翻弄された撮影クルー(白石の他二人いるクルーは笠井・稲原のホモの先輩にレイプされたり、笠井の部屋にていざこざからパンツ一丁にされたりする)の後日談の語りが間抜けっぽく、フェイクと分かっていることもあって、こちら側はある程度安心して(ネタっぽく)見ていることができる。それが当時の喧嘩相手の当人で、映研OBの仲貴之(不正確です)を相手に部室に奇襲をかけるところから、不穏になる。いきなり殴りかかる笠井にうつぶせにされる仲は、絶叫(でもか細いわけではない)に近い怒号を上げながら「撮るんじゃねえよ!撮るなち言うとろうが!」とカメラと笠井に罵声を浴びせる。それを無力化するように馬乗りになって立てないようにする笠井、前蹴りで椅子や机を蹴散らして周りを威嚇する稲原の啖呵。どれを取っても演出があるようには思えず、さながら監督も名前を挙げていた原一男の『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三の突撃シーンを思わせる。この見ちゃいけないものに出合ったような不穏さは、北九州の言葉がその現場に血がめぐらせていることもあって、たまげる。

 しかしこのシーンではまだ、笠井と稲原の二人には余裕があって、部室をあとにする際にユーモア交じりの捨て台詞を吐いたりし、その後の「実際悪いことしたと思っているんですよ」などと半ばおちゃらけながら稲原・白石の三人で振り返ったるする場面、小学校教員になっている元映研のメンバーを泥酔させブランコに乗せたりする場面の楽しさのおかげで、こちら側は安堵する余地がある。そして、そのこちら側の安堵に、カメラを持った白石の悪意と暴力性が次第に滲みはじめる。先の部室での一件をとがめられる白石は、仲や映研の幹事らに呼び出され、そのドキュメンタリーの素材テープをすべて持ってくるように言われるのだが、ここでの白石が極めて不遜なのだ。折れない白石に難詰する、半ば悲鳴のように聞こえる仲のさまに同情したくなるような感情がこちらに生じる。しかも、このシーンのカメラアイは服に覆って自分の背後にカメラを隠している、白石の盗撮だ。ここでまた先の襲撃シーンが挟まれ、仲のカメラに向けた敵意の視線がカメラを持つ白石の暴力性へと照射されてくることで、カメラのこちら側の安心がどんどん無根拠なものになっていく。

 この後三人(もう一人カメラを持った撮影班の奴が後から加わる?)は、陽が落ちた大学の学園祭で飲み会をやっている映研のブースに押しかけ、謝りに来たんですよなどとふざけながら仲を連れ出し、高い壁に囲われた路地の隘路へと、追い掛け回した末たどり着く。ここでのシーンは一層凄い。稲原と仲がタイマンで暴れ合っていたところに、やや遅れて白石・笠井・もう一人のカメラがたどり着くと、打ち所が悪かったのか稲原は横に伏していて立ち上がらない。それに激昂した笠井が仲を殴り(クラし)、もつれながら倒れこんだ仲の上体を蹴り上げ、仲は異常に高いところに灯りが点いている電信柱のポールに頭を打つ。動かなくなった仲に「寝ぼけたふりしてんなや!」と執拗に暴行を加え続ける笠井に、白石がさすがにやばいってと言って止めに入る。

 止めに入る白石を振り払って、いまだ頭に血が上ったまま冷めない笠井は尚も憤懣やる方ない。業を煮やした笠井は制止しようとする白石に「お前は何なんだ」と泡を飛ばすところで、白石の方にも突然糸が切れるようにして怒りが乗り移る。それまで笠井相手には従順一方だった白石の火の点くような怒りはこちらに一瞬の停止状態と驚きをもたらし、それまでの均衡が崩れて突然字幕画面が差し込まれ、男道の音楽が流れる。「必要とされない」「さびしい」「男も女も男道」。

 音楽に回収されている、といった安易なことは決して言えなくて、ここでは白石の怒りによってもたらされた停止状態と、音楽と字幕画面が差し挟まれることで“起きているそこ”が一瞬遠のく。そのことによって歪に何かが提示されている。この歪さ、「え」という感じでこちらが一瞬置き去りにされるところに、こちら側には剥ぎ取られてしまった青春を観てもいい。でももっと重要なのは、“起きているそこ”は剥ぎ取られて取り残されたまま、ドキュメンタリーが覘いている地続きのこちらとは回路が絶たれているらしい、その断絶の方かもしれない。