ロチンスキーのリハーモナイゼーションテクニックは、スタンダードディセプティブレゾリューションを使ったエクステンドケーデンスのクリエイション(カタカナ祭り)。その取っ掛かりとしてスタンダードディセプティブレゾリューション(セカンダリではないプライマリの偽終止のこと)のおさらい。なんかこの授業、harmony3、4のおさらいとしてすごく良いな。やっぱりどんなことでも2度目はすんなりできるもんね。

2度目はすんなりで思い出した。おれは今回の大学生活で「予習」というものを生まれて初めて知りました。おれはこのかたずっと、予習っていうのは予習っていうカテゴリの行為だと思っていたんですよ、言ってみれば「下見」とか「プレビュー」に近いような。でもほんとうに予習してくる子に教えてもらったんだけど、予習というのはその教科のその部分を普通に自習してくることなのだった。ぜんぜん「プレ」じゃなくてそこんとこ学習して済ませてくんの。

だから教室ではそりゃできるわけだよね、2度目なんだもん。そして自習で生じる可能性のある誤解やバイアスを修正して、そんで復習までしちゃったりすんの、つまり3周目。そりゃ出来が違うわけだよ!と思った。おれ下手したら予習復習っていうのを知らないまま、誤解したまま死んでいくところだった。ま、いまさら遅いけど、でも子供には伝えられると思うな。もっかい言うけど、予習っていうのは下見的にパラっと眺めておくことではなく、そこんとこを普通に自習してくることを指す言葉だった。誰も教えてくれなかった。うへえ。

ネデルカは出張でお休み。そのあとミッチのアドバンストハーモニーコンセプト。先週に引き続きハービーのTell me a bedtime storyとか、コルトレーンCentral park west、ビルエヴァンスのTime remenberedやMaxine、チャールズロイドのForest Flower、あとなんだっけ、John TaylorのAmblesideみたいなマルチトーナルシステムの名曲をアナライズしていく。MTSはとにかく跳躍がシステマチックになっていることが肝要で、同時にそのシステムをどこかで乱すことが鍵である、という話。

アナライズしていて思うのだが、数理的、楽理的興味を別にすると、リスナーとしての自分の限界はだいたいこのあたりの調性感覚にありそうだな、とつくづく思う。これ以上調性が薄くなると、もう音楽としてエンジョイできていない気がする。つまりはポップス耳ということだな。