このところまたヒマがなくてよそのブログを読んでいなかったのですが、匿名の方からhamachan先生のブログでいろいろ取り上げていただいているというお知らせをいただきました(ありがとうございます)。
先生のブログを読むのは「一度しか来ない列車」以来なのですが、この2週間あまりの短期間にも大量のエントリが書かれていて感心のほかありません。いくつか私と同じネタを取り上げているものもあって、微妙な?視点の違いが面白かったりもします(たとえばこれなんかhttp://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-8301.html)。
トラックバックは送られていませんので、hamachan先生ご自身はこちらからの反応は期待されていないだろうとは思うのですが、ご関心の向きもあるようなので簡単にコメントしたいと思います。
…と書き始めたら、今日も厚労省分割の話が取り上げられていました。「全体としてはやや否定的なニュアンス」と受け止められたようですが、省庁再編してすでに8年経ったわけですので、そろそろ効果を検証して必要に応じ見直すことも大切だとは思います。
学生をかえせ(笑)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-7b52.html
名指しこそされていませんが、これには私からもひとことあってしかるべきでしょう。
sociologbookさんのブログに、標記のエントリがありまして、本ブログではすでにいやというくらい論じ尽くされた話題ですが、
http://sociologbook.net/log/200905.html#eid404
いよいよ4回生は就活たけなわで、なかなかゼミも全員揃わない。一生がかかっていると言ってはいいすぎだが、まあ少なくとも今後数年の生活はかかっているので、みんなとにかく頑張れよ。3回生の特に女子のなかにはもう就活にびびって病んでいる気の早い奴がいて、毎年まいとし学生も大変だな。
ところで、ゼミに全員揃わない、ということについて、むかしから、企業の人事担当者さんたちが大学教育をどう思っているんだろう、と不思議に思っている。できれば説明会とか面接は土日か夜間にやってほしいんだけど、と思っていて、そしてそれはそれほどわがままな主張ではないと思っているのだが。平日の昼間にされると、学生はゼミや講義を休まざるをえないのだ。これはいったい、どうなってるのか。会社のひとたちはどう思ってるんだろうか。
どう思ってる、って、そんなの決まっているわけで。
このあたりから考えると、別に大学教育なんか何やっててもよい、もっといえば、しなくてもよい、ということになる。世間に名の通った偏差値の高い大学の卒業資格さえ得ていれば、その中でスポーツしかやっていなくてもよい。教育は企業がやるから。
ほんとうにそうか、と思う。企業が教育機能までぜんぶやってくれるなら、全員高卒でよいだろう。
正確に言うと、大学に入学できた高卒ね。
大学で何も教えてないかというと、まったくそんなことはない。当たり前の話だが、大学で教えているのは、特定の学問の「まねごとのまねごと」ぐらいのレベルのもんで、東大や京大なら別なんだろうが、普通の大学の経済学部で経済を学んだからといって就職したあとに直接それが何かの役に立つとかいうことはない。
大学で何を教えているかというと、ある種の「性向」「ハビトゥス」である。社会に出たあるいは会社に入ったときにすぐに役に立つ知識は、あたりまえだがほとんどがその会社のローカルな文脈でしか役に立たないので、社会に出たあるいは会社に入ったときにしか得ることができない。かわりに大学は、学生たちに、情報の集め方や分析の仕方、まとめ方、プレゼンのやり方なんかを公式のカリキュラムのなかで教えてるし、非公式のカリキュラム(ようするに「空気」みたいなものだな)によって、人との付き合いかたや、コミュニケーションのとりかた、あるいは「テスト前になるととつぜん友だちになる」みたいな、「人の利用のしかた」(笑)まで教えているのだ。
こういう知識やスキル以前の「態度」みたいなものは、いうまでもないが、それ自体として教えこむことはできないので、社会学部なり経済学部なりの具体的なディシプリンの学習を通じて一般的なハビトゥスを身につけることになる。特定のスポーツをせずに「一般的なスポーツマンなるもの」になれるかどうかを考えればわかるだろう。
大学は大学なりにがんばってやってます。
ははあ、教えている学問の内容は役に立たないけれど、「人間力」を身につけさせています、と。あるいは「官能」とでも言いましょうか。
それこそ、それが経済学である必要もなければ社会学である必要もないのであれば、仰るような「人間力」がある学生を採用するために、ゼミや講義を休まざるを得なくなったからと言って、「どう思ってる」も糞もないわけでしょう。
ゼミや講義を休むことが致命的であると説得するためには、それが「人間力」や「官能」のための手段ではなく、その具体的なディシプリンに意味があると説得しないといけないでしょう。
ま、しかし現在の状況下において、大学の先生としてはこういうものの言い方しかしようがないのもまた確かなのでしょうね。
(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-7b52.html)
hamachan先生は「どう思ってる、って、そんなの決まっているわけで。」と一刀両断されていますが、言い訳を申し述べさせていただければ、これは案外悩ましい問題です。sociologbookさんの言われる「できれば説明会とか面接は土日か夜間にやってほしいんだけど、と思っていて」というのは、例年国公私立の大学・短大・高専の「就職問題懇談会」(現在の座長は名古屋大の平野眞一学長)から企業などの採用担当者に対する「要請」というのが示されていて、平成21年度については昨年の10月に行われています(正式名称は「平成21年度大学、短期大学及び高等専門学校卒業予定者に係る就職に関する要請」というものですが、採用の実務担当者には「要請」で通っています)。その中に「可能な限り休日や祝日等、例えば長期休暇期間に行う党、大学等の教育活動を尊重した採用活動を行うこと」というのもしっかり入っています。
当然ながら、企業としてもこの要請は尊重しなければならないわけですし、企業サイドの「倫理憲章」も「学事日程尊重」と言ってはいます…ただ、大卒となると多くは幹部候補生として採用するわけで、求める人材も多様です。大学受験みたいにマークシートのペーパーテストで割り切れれば楽ですが、なかなかそうはいきません(実際、SPIなんかは攻略本が出回っていて、正しい結果が出ないそうですし)。どうしても直接会ってみて、話をしてみて、官能的な評価で判断する必要がある部分も相当あります。多数の応募がある中で、少しでも多くの人と直接に面接しようとすれば、休日、夜間だけではどうしても時間的に限界があります。学生さんとしても、書類選考だけではなく、面着で直接に自分をアピールする機会が多いほうが望ましいのではないでしょうか。
- もちろん、このくらいのスペックの人を何人くらい、という大雑把な採用もあって、そういう場合は採用選考の相当部分を高校に投げてしまっていたりもします。それがいいかどうかはまた別の議論ですが。
企業としても、大学名をシグナルとして活用していることは否定できませんが、なにもそれだけではなく、大学教育への期待も当然あります。sociologbookさんの言われるような内容もあるでしょうし、教養教育、リベラル・アーツを身に付けて人間性豊かな人材であってほしいとの期待もあります。さらに、私としては大学で身に付けることができる「法学の考え方」とか「経済学的な発想」といったものは企業活動においても非常に有益だ、ということを企業は重視しているように思います。だから、企業が採用するのは法学部、経済学部が多くなるわけです。それも「人間力」といえば人間力かもしれませんが、法学士、経済学士たることのもう少し具体的な価値と申し上げられるのではないかと思います。
そういう意味で、むしろ問題なのは早期化で、これは学校にもたいへんなご迷惑をかけていますし、企業もいろいろとリスクを負う(今回の内定取り消し騒ぎだってそうでしょう)わけですから、おそらく当事者はみんななんとかしたいと思っているのではないでしょうか。それがなんともならないのは、結局は抜け駆けをして早くはじめたほうが得になる、と思い込んでいるからであって、だから「3回生の特に女子のなかにはもう就活にびびって病んでいる気の早い奴」も出てくるわけでしょう。これは規制で対応する必要がある問題で、実効のある就職協定の復活、というか就職協定でなくてもいいわけですが、何らかの規制強化を学校と企業(と政府)で考える必要があるのではないかと思います。
なおhamachan先生にひとこと、私が「官能」と申し上げているのは、面接者による人材の「目利き」のことでありまして、別に学生に官能を求めているわけではありませんので念のため。
山田久『雇用再生』
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bb64.html
ご教示いただいたのはこれでしょうかね。
労務屋さんはかなり毛嫌いしておられるようなんですが、そこまで嫌わなくてもいいんじゃないですか?と思っています。日本総研の山田久氏の『雇用再生』(日本経済新聞社)は、少なくとも大きな方向付けとしては間違っていないと思いますよ。
(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bb64.html)
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いや別に「毛嫌い」しているわけではないんですけどね。繰り返し申し上げているように『大失業』の印象が悪すぎるというか、山田氏は1999年の『大失業−雇用崩壊の衝撃』の米国型から、2007年の『ワーク・フェア−雇用劣化・階層社会からの脱却』の欧州型へと華麗なる「大転換」を遂げられましたが、これについてなんのご説明もないなあ、と思っているわけです。ということは、また情勢が変わって、世間の関心や論調が変われば、またしても米国型に大転換されるのではないか、と思わざるを得ないわけで、一言で言えば信用できないわけですね。
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「整理解雇」の新解釈
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-77d7.html
これは私のブログというよりは平家さんのコメントが紹介されているのですが。
労務屋さんのところのコメントで、平家さんが興味深い解釈を披露しておられます。
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20090515#p1
>こんばんわ。池田先生の主張は次のように考えると整合的なのではないでしょうか?
「使い物にならない」(中高年)労働者を解雇して整理することは「整理解雇」に含まれる。ふむ、「ノンワーキングリッチ」を「整理」するんだから「整理解雇」だ、と。
いわゆる一つの日本語としてはありうる用語法ではありますね。
労務屋さんは、
>なるほど、池田先生はそのように考えている可能性もありますね。だとしたら、先生にはもう少し労働法を知っていただかないと…。
とコメントされていますが、それよりも、もしそういう用語法を採用するのであれば、かつて国際大学グローバルコミュニケーションセンターの経営者が、当該センターで就労していた労働者を、「使い物にならない」と見なして「整理」しようとしたのであれば「整理解雇」になるんじゃなかろうか、と。
なかなか皮肉が利いていますが(笑)、まあ、やはり整理解雇というのは「労働者にはなんら非がないにもかかわらず、経営上の事情のみで行われる解雇」というのが普通の意味ではないかと思います。
3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b14a.html
これはhamachan先生としては当然反応されますよね。で、私への言及はこうです。
(ちなみに)
労務屋さんも意外の念を禁じ得ないようです。
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20090515#p1(今日の池田先生)
>そもそも、あれだけ「解雇自由」を連呼しておいて今さら「あれは整理解雇のことでした」というのもないだろう、とも思うわけですが、いずれにしても池田先生としては「整理解雇の規制緩和(自由化?)」を主張しておられるのであって、「一般的な不当解雇をすべて自由にせよというものではない」と、スタンスを明確にされたということでしょう。これまではそこが不明確だったわけですから、「私の過去の記事も同じである」とか「私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ」とかいうのはあまり誠実な態度とは思えませんが…。
まあ、3法則氏に「誠実な態度」を求めるなどとあまりにも高望みが過ぎるというものです。悔し紛れに今までの自分の無知蒙昧をとっさに相手になすりつけながらもなんとか正しい認識に到達したことを褒めてあげなければいけません。
その後の展開をみると「正しい認識に到達した」かどうか、怪しいもののようですが…。hamachan先生はずいぶん手厳しく言っておられますが、池田先生は結局のところ「知らなかった、間違っていた」と認めることがどうしてもできない人なのでしょう。だから「知らない、間違っている」とあからさまに指摘されると過剰に反応してしまうのでしょう。それが平気になれば、ずいぶん楽な人生になると思うのですが、おそらくはそれをエネルギーにしてここまでの業績をあげてこられたのでしょうから、他人が良し悪しを軽々に論じるべきではないのかもしれません。
清家先生の味わいのある言葉
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-5f77.html
これは特段私と関係はないのですが、感想を少々。
学生向けの雑誌『経済セミナー』の4/5月号が「制度を考える」という特集をしていて、その中に先日慶應義塾の塾長に選出された清家篤先生が「労働をめぐるトレード・オフを考える」という味わい深い文章を書いています。
…
まあ、どれもそれなりに興味深い内容ではありますが、やはり穏やかな文体の行間に痛烈な皮肉が盛り込まれた清家先生のが一番。
内容は経済学の基本中の基本概念であるトレード・オフというものの考え方を、労働を題材にわかりやすく説明しているんですが、ケーザイ学者と称して人様に偉そうに指図する人々が、実は全然トレード・オフがわかっちゃいいないことを、行間ににじみ出させる手際は見事で、さすが清家先生というところではあります。この「あちらを立てればこちらが立たず」という状況を、経済学ではよくトレード・オフの関係といったりする。そしてトレード・オフがあるということは、問題の解決にただ一つの明快な解などはないということでもある。多くの経済的、政治的な選択問題はこれに当たるといってよい。
その意味で、あまりにわかりやすい政策標語などにはよほど注意した方がいい。例えば「官から民へ」といった単純きわまりない言い方である。
「官から民へ」、「民間にできることは民間に」というのは、ほとんど定義的に正しい表現であるが、それはまた、民間にできないことは政府にやってもらう、ということに他ならない。ところが、官から民へ、民間にできることは民間にというような単純な標語は、ともすると、とにかく民が正しく、何でもかんでも民営化すればよいのだといった話になりやすい。大事なのは、どこまでを官が、どこまでを民が行うかのバランスだ。このあと、名目賃金上昇率と失業率の間のフィリップス曲線の話、仕事をする時間の価値と仕事以外の時間の価値をめぐるワーク・ライフ・バランスの話、正規と非正規の話、消費者と生産者・労働者の話など、具体的な例が並んでいます。最後の話でも、
他人を忙しく働かせておきながら、自分だけはゆとりある生活をしたいというのは虫がよすぎる話である。もし自分がゆとりある生活をしたいのなら、例えば商店やコンビニ、あるいは宅急便などサービス業の営業時間規制などにも協力すべきであろう。
といった皮肉が効いていますが、とりわけ最後の節で、ちかごろネット界にはやるインチキな連中を顔色なからしめるような台詞が繰り出されています。
いずれにしても大切なのは、スパッと割り切れるような正解はないという認識を共有することである。どちらにも理があること同士のトレード・オフなのだから、どこかで折り合いを付けるしかない。その意味で、特に労働に関わる多くの問題の解決策は、わかりにくくて当たり前なのである。
少なくとも唯一方向に進むような議論はおかしいと思うべきである。しばらく前のように、規制緩和をすると世の中何でもよくなるよう議論もおかしいし、逆に最近のように、規制を強化すれば困っている人を皆救えるというような議論もおかしい。いやあ、いますねえ、どっちの典型も。
19世紀的なむき出しの資本主義でも、また皆が貧しくなってしまう社会主義でもまずいということを我々は学習してきたはずだ。トレード・オフの両極でないような、中庸で調和のとれた民主的な経済社会を20世紀に築き上げたはずであるのに、またどちらか一方に偏したような社会に戻るのでは、何を学んだのかということになってしまう。その意味で、トレード・オフと向き合うことは、社会の成熟を問うものでもある。
中庸、成熟、いい言葉です。誰がそういう言葉にふさわしい言論を発し、誰がそういう言葉の対極に位置する言論をまき散らしているか、周りをそろりと見渡してみましょう。
hamachan先生が感心しておられるとおりで、私もこの清家先生のご意見にはまことに同感です。反省しなければ。
そのうえで、あえて余計な一言を言わせていただければ、私は「年齢差別の禁止、定年制の廃止」というのも「中庸で調和のとれた」とは申せないのではないかと思っております。もちろん、いろいろな意見のあるところだとは思いますし、議論は大いにされるべきだとも思いますが。