末は博士か大臣か

ちょっと古いですが、先週金曜日の日経新聞「経済教室」に、元文部官僚で熊本大学教授の大森不二雄氏が「雇用・教育一体改革 今こそ」という論考を寄せられています。なかなかの代物です。どこかでコピペできないものかと(笑)今日まで待ちましたがダメそうなので、とりあえず抜粋してタイプすることにします。まずは全体像をごらんください。

 人口減少下で中長期的な成長を確実にするにはプロフェッショナル層の「底上げ」が重要である。ところが日本は、事務系も含め、管理職や専門職が修士・博士の学位を有するという世界的な趨勢から完全に取り残されている。

 多くの日本人は、日本が「学歴社会」だと認識している。しかし、その実態は出身大学名が幅を利かせているにすぎず、焦点は相変わらず学士過程教育である。しかし、今や世界でものをいう学歴とは大学院教育であり、高学歴化する世界の趨勢に日本が取り残されているのは明らかである。…様々な産業分野のプロフェッショナル層における大学院修了者の優位性は、欧米だけではなく成長著しいアジアなど世界の常識だ。
…わが国で、大学院の学位やその表示する知が尊重されない最大の要因は、知識労働者の流動性の低さ(転職の困難さ)にあると思われる。日本で、正規雇用の外部労働市場が発達しておらず、非流動的であることは広く知られる。専門知識や学位を武器に転職することは容易ではない。
 外部労働市場が発達していれば、転職の際、学位は一定水準の知の保持証明として機能する。発達していないと、組織内の人間関係やその組織に根付く特殊的な知の方が個々人にはより重要になる一方、組織を超えて通用する普遍的な知の重要性は相対的に低くなる。逆から見れば、質・量ともに貧弱な大学院しかない高等教育システムが、非流動的・閉鎖的な知識労働市場の維持要因なのである。…
 博士課程修了者の就職が難しいというかつてのオーバードクター問題や、…現在のポスドク問題なども、この雇用。教育システムがもたらす特殊日本的な問題ととらえられる。…
 同じ問題の別の表れが、社会人大学院の限界であろう。…大学院での学修成果や学位が企業にあまり評価されない、処遇にほとんどいかされない、という現実が立ちはだかっている。

 グローバルな知識経済では、知識労働者の組織超越的・普遍的な知識技能と創造的活力が競争力を支える源である。組織の壁を超えた知の交流・融合が新たな価値を創造し、活力を生む。それには、知識労働者の流動性が不可欠である。…
流動性の低い社会では、身内の論理に忠実に行動することが合理的であり、普遍的価値観や普遍的論理(公論)は育ちにくい。グローバルな知識経済で通用する人材育成・活用システムに向けた改革が急務である。
…縦割り行政を超え、企業を含むもろもろの主体の行動変化を促す、仕事と学びの循環および人材の流動化に向けた政策パッケージが必要である。
 まず、大学院教育の質の改善、職業的レリバンスの向上が欠かせない。学士課程で注目されている、雇用につながる能力(エンプロイアビリティー)への取り組みを大学院に広げる必要がある。英国は…博士課程まで…汎用的なスキル、研究マネジメント、コミュニケーションとチームづくりなどの能力を身に付けさせる…。日本でも、産学官連携を強化し、修士・博士の汎用的な能力の育成と認知を促進すべきであろう。
…新規学卒者一括採用を支える偏差値による序列構造を崩すには、東京大学京都大学などの「銘柄大学」を学部のない大学院大学に改組することが効果的である。これにより、知識経済に適応する世界的趨勢に合わせて、グローバル人材を大学院で育成するシステムに転換できる。…さらに、銘柄大学の重しが取れることによって、これまで何をやっても受験生や社会の序列意識は変わらないと思い知らされてきた、多くの大学の活性化が期待できる。

 雇用面では、質の向上した大学院の修了者からキャリア官僚への積極採用を提言したい。事務系では、職業経験のある社会人大学院修了者の中途採用を拡充することが望まれる。大企業の総合職においても、実力本位で、中途採用を含め、修士・博士の採用が進むことが期待される。…
 採用に当たって大学教育の成果が顧みられていないという現状を放置したまま、大学に「社会人基礎力」の育成を求めても、限界があることは否定できない。…
(平成21年10月23日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)

ああ疲れた(笑)。タイポがあるでしょうがご容赦を。なおかなり中略を入れていますので、ご関心のある向きは全文にお当たりください。
さて、大森氏の問題意識は最初の部分で提示されています。

 人口減少下で中長期的な成長を確実にするにはプロフェッショナル層の「底上げ」が重要である。ところが日本は、事務系も含め、管理職や専門職が修士・博士の学位を有するという世界的な趨勢から完全に取り残されている。

 多くの日本人は、日本が「学歴社会」だと認識している。しかし、その実態は出身大学名が幅を利かせているにすぎず、焦点は相変わらず学士過程教育である。しかし、今や世界でものをいう学歴とは大学院教育であり、高学歴化する世界の趨勢に日本が取り残されているのは明らかである。…様々な産業分野のプロフェッショナル層における大学院修了者の優位性は、欧米だけではなく成長著しいアジアなど世界の常識だ。

プロフェッショナル層の「底上げ」が重要、というのはとりあえずそのとおりとして、大森氏は「日本は、…管理職や専門職が修士・博士の学位を有するという世界的な趨勢から完全に取り残されている」「今や世界でものをいう学歴とは大学院教育であり、高学歴化する世界の趨勢に日本が取り残されているのは明らかである。…様々な産業分野のプロフェッショナル層における大学院修了者の優位性は、欧米だけではなく成長著しいアジアなど世界の常識だ」と繰り返し嘆いておられます。これだけみると、日本はクジラを食べないという世界的趨勢から完全に取り残されている、それは栄養の改善が著しいアジアでも常識だ、という議論と変わらないようにも見えます。海外で管理職になろうと思うなら修士号や博士号を取っておいたほうがいいよ、クジラが大好物だなんて言わないほうがいいよ、という話ならよくわかるのですが、日本人が日本でもクジラを食べることもまかりならぬ、ということになるとそれなりの理由のご説明がほしいところです。
さて、大森氏は続いて日本人がクジラを食べる理由、もとい、日本が管理職や専門職が修士・博士の学位を有するという世界的な趨勢から完全に取り残されている理由を、日本の雇用慣行に求めます。

…わが国で、大学院の学位やその表示する知が尊重されない最大の要因は、知識労働者の流動性の低さ(転職の困難さ)にあると思われる。日本で、正規雇用の外部労働市場が発達しておらず、非流動的であることは広く知られる。専門知識や学位を武器に転職することは容易ではない。
 外部労働市場が発達していれば、転職の際、学位は一定水準の知の保持証明として機能する。発達していないと、組織内の人間関係やその組織に根付く特殊的な知の方が個々人にはより重要になる一方、組織を超えて通用する普遍的な知の重要性は相対的に低くなる。逆から見れば、質・量ともに貧弱な大学院しかない高等教育システムが、非流動的・閉鎖的な知識労働市場の維持要因なのである。…
 博士課程修了者の就職が難しいというかつてのオーバードクター問題や、…現在のポスドク問題なども、この雇用・教育システムがもたらす特殊日本的な問題ととらえられる。…
 同じ問題の別の表れが、社会人大学院の限界であろう。…大学院での学修成果や学位が企業にあまり評価されない、処遇にほとんどいかされない、という現実が立ちはだかっている。

うーん。これは日本企業の人事管理になじんだ私にはなかなかわかりにくい理屈です。とりあえず日本でも専門知識を武器に転職することはそれほど困難ではなく、例えば中国やインドで工場を立ち上げて軌道に乗せた経験のある人などはその専門知識を武器に転職することも容易でしょう。そのケーススタディを大学院で学んだ修士の転職はそれほど容易ではないかもしれませんが…。大森氏は「中国での工場立ち上げ」という「普遍的な知」のセットがあって、それは大学院教育で習得可能である、という考えを持っておられるのかもしれませんが、それは必ずしもそうではないのではないかと私は思いますが…。もちろん、そうした知の普遍化、形式知化はそれはそれで重要だとは考えますが。
同じことですが、現実の転職にあたっても、中途採用する企業のほうは学歴も見ますが、やはりそれ以上に職歴を重視するわけで、それは海外でも同様ではないかと思うのですが、違うのでしょうか?
これは結局、日本企業が大学院などの外部における普遍的技術・ノウハウの知識的教育を重視せず、社内における企業特殊的な技術・ノウハウの実践的教育を重視し、それら企業特殊的技術・ノウハウをむしろ積極的に社内に蓄積することで競争力を確保してきた、という人材戦略の帰結でもあるでしょう。これは諸外国の企業とは異なる戦略かもしれませんが、しかし無理に諸外国に合わせる必要もないように思われるわけです。
こうした雇用システムが大学教育の現状の原因なのか結果なのかはニワトリと卵の感はありますが、たしかに無関係ではありません。問題は果たして修士や博士を優遇し、「オーバードクター」や「ポスドク」問題を解消し、社会人大学院を活性化するために企業がこうした雇用システムを改めなければならないかどうかです。もちろん、改めた方がビジネス上有利であるのなら、企業はそうした主張をするでしょうし、実際問題として業種により企業により職種によってはそうした主張もあります。ただ、大森氏が訴えるように産業界あげてそちらに移行したいと考えているかというとそうではないことも間違いないようです。あとは、個別企業が自らの利益を考えて現行システムを維持しようとすることが国家経済全体にとってはマイナスであるということが言えるかどうかという問題でしょう。

 グローバルな知識経済では、知識労働者の組織超越的・普遍的な知識技能と創造的活力が競争力を支える源である。組織の壁を超えた知の交流・融合が新たな価値を創造し、活力を生む。それには、知識労働者の流動性が不可欠である。…
流動性の低い社会では、身内の論理に忠実に行動することが合理的であり、普遍的価値観や普遍的論理(公論)は育ちにくい。グローバルな知識経済で通用する人材育成・活用システムに向けた改革が急務である。

そこで大森氏は「グローバルな知識経済」という概念を担ぎ出し、「知識労働者の組織超越的・普遍的な知識技能と創造的活力が競争力を支える源である。組織の壁を超えた知の交流・融合が新たな価値を創造し、活力を生む。」と主張します。用語は格好いいのですが、はたして意味のあることを書いておられるのでしょうか。
大森氏の脳内にある「グローバルな知識経済」というのがどういうものなのかが実はよくわからないのですが、とりあえず知的労働の組織のパフォーマンスを高めるためには多様性が重要であることには私も同意します(必ずしも十分な証拠があるわけではないようなのですが)。大森氏のいわゆる「組織の壁を超えた知の交流・融合」が「新たな価値を創造し、活力を生む」というのも、組織構成員の多様性を通じて、ということであれば納得できますし、そのためにはあるいは「知識労働者の流動性」が資するでしょう(程度問題であって、その程度「不可欠」かはわかりませんが)。ただ、それは多様性を通じてですから、「組織超越的・普遍的な知識技能」が資するわけではなく、普遍的でない特殊性が資するのだということは言えそうに思います。大森氏の理屈は「流動性」をサポートするかもしれませんが、修士や博士の「普遍的な知」をサポートするに十分なものではないように思います。
身内の論理とか普遍的論理とかいうのは、省略しましたが流動性が低いと談合などの不祥事が起きやすいということを言っておられるのですが、不祥事をなくすには罰則や取締の強化といった有力な手法もあり、そのために流動性を高めるというのも妙な理屈でしょう。

…縦割り行政を超え、企業を含むもろもろの主体の行動変化を促す、仕事と学びの循環および人材の流動化に向けた政策パッケージが必要である。
 まず、大学院教育の質の改善、職業的レリバンスの向上が欠かせない。学士課程で注目されている、雇用につながる能力(エンプロイアビリティー)への取り組みを大学院に広げる必要がある。英国は…博士課程まで…汎用的なスキル、研究マネジメント、コミュニケーションとチームづくりなどの能力を身に付けさせる…。日本でも、産学官連携を強化し、修士・博士の汎用的な能力の育成と認知を促進すべきであろう。

はあ、なるほど。まずは「大学院教育の質の改善、職業的レリバンスの向上」をしていただけるわけですね。それで企業での人材育成より優れた内容が実現できるのであれば、たしかに企業も修士や博士を大歓迎するでしょう。育成コストを外部化できるわけですから、その分は賃金も上がるかもしれません。
ただ、従業員に求める能力や資質を決めるのは企業であって大学ではありません。汎用的な能力が大森氏が考えるほど素晴らしいものであり、企業がそれを知らないというのであれば、それは認知させることは大切でしょう。それはそれほど難しいことではなく、企業が「汎用的な能力」を持つ人を数人採用して就労してもらってみればわかることです。実際、コミュニケーションとかチームビルディングとか、あるいは積極性とか協調性とかチャレンジ精神とかなんとか、企業が従業員に求めるいろいろな徳目がありますが、それらの相当部分は汎用的な能力であるでしょう。問題はそれを修士、博士まで時間とカネをかけて身に付けさせるのか、というところです。学士で十分身につくものを修士、博士までかける必要もないわけで。

…新規学卒者一括採用を支える偏差値による序列構造を崩すには、東京大学京都大学などの「銘柄大学」を学部のない大学院大学に改組することが効果的である。これにより、知識経済に適応する世界的趨勢に合わせて、グローバル人材を大学院で育成するシステムに転換できる。…さらに、銘柄大学の重しが取れることによって、これまで何をやっても受験生や社会の序列意識は変わらないと思い知らされてきた、多くの大学の活性化が期待できる。

銘柄大学を大学院大学にすればグローバル人材を大学院で育成するシステムに転換できるんですか?そうすれば「これまで何をやっても受験生や社会の序列意識は変わらないと思い知らされてきた、多くの大学の活性化が期待できる」というのは、文部官僚時代に地方の教育委員会でさまざまな改革を試行し、スピンアウトして「ゆとり教育亡国論」を書いた「熊本大学教授」の本音としてはたいへんよくわかるような気はしますが…。というか、銘柄大学を大学院大学化するための理屈として「グローバルな知識経済」だの世界的趨勢だの普遍的価値観だのをこねくりまわしていたのではないか…そんなことはないか。

 雇用面では、質の向上した大学院の修了者からキャリア官僚への積極採用を提言したい。事務系では、職業経験のある社会人大学院修了者の中途採用を拡充することが望まれる。大企業の総合職においても、実力本位で、中途採用を含め、修士・博士の採用が進むことが期待される。…
 採用に当たって大学教育の成果が顧みられていないという現状を放置したまま、大学に「社会人基礎力」の育成を求めても、限界があることは否定できない。…

ほほぉ、これは東大を大学院大学化して日本版ENAを作ろうという構想でしょうか。まあ、それはそれでひとつの立派な考え方ですし、フランスではそれが機能しているわけですからそこに範をとるのもいいでしょう。別に官僚の採用については民間の立場から特に口出しすることもありません。もちろん官僚に一定の優れた人材が集まらなければ国民にとって不利益なことになりかねないわけではありますが…。
で、「事務系では、職業経験のある社会人大学院修了者の中途採用を拡充することが望まれる。大企業の総合職においても、実力本位で、中途採用を含め、修士・博士の採用が進むことが期待される」って、そんな大学にとって都合のいいことばかり言われても困るんですけど。大学院教育をやりたい大学の願望としてはそうかもしれませんが、大学の願望だけで雇用のあり方が左右されなければいけない理屈もないでしょう。というか、「実力本位で、中途採用を含め、修士・博士の採用が進むことが期待される」ってなんなんでしょう。修士は学士より、博士は修士より「実力」が高いから「実力本位」で低実力の学士なんか採るのはやめて高実力の修士や博士を採れというわけですか。まあ、現実にそのようになれば自然とそうなるだろうとは思いますが、企業で5年間みっちり鍛えあがられた学士と、職業的レリバンス大学院で育成された博士と、さて「実力」やいかに?大森氏は当然博士の実力が上だ、そうなるようにするのだ、と言われるのかもしれませんが…。
「採用に当たって大学教育の成果が顧みられていない」というのは、大学教育(というか、大学院教育)の成果が修士号・博士号の発行だというのであれば、それはたしかに「顧みられていない」かもしれません(実際には修士・博士に学士の2年過年度・5年過年度を越えた処遇をする企業も多いですが)。
ディプロマさえあれば企業に厚遇され、転職も思いのままというのは、大学関係者にとってはひとつの理想かもしれませんが、さすがに現実的ではないでしょう。大森氏は海外ではそれが趨勢のように書かれていますが、そうでもないはずだと思います。
大学教育のあり方を考えるにあたって産官学が連携することが大切であることはそのとおりだと思います。とはいえ、その結果として「特定の学位を取得すれば特定のキャリアが保証される」ことを求めるのはあまりにも無理があるというものでしょう。

  • 為念申し上げておきますが、私は大学院教育を充実させることまで否定しているわけではありません。それはそれで望ましいあり方があるだろうと思います。ただ、大学の都合で雇用管理を変更すべきだという議論や、ディプロマで採用や待遇を決定しろという議論には賛同できないというだけのことです。
  • 余談ですが、この論考はさぞかし池田信夫先生のお好みに合うだろう(笑)と思って先生のブログを参照してみたのですが、言及されていませんでした。池田先生ほどの大家になると、「経済教室」なんかバカにして読まないのかもしれません。ちなみに、「末は博士か大臣か」なんて言いますが(もう死語かもしれませんが)、世の人事担当者の例にもれず、私も学歴に関する「博士が一番偉くて学士が当たり前、高卒は…」みたいな2ちゃんねる的な言説が嫌いなので、そのせいで冷静を欠いているとは自覚しております。
  • 四の五の言うのは貴様が低学歴だからだろう、とおっしゃられれば、まあ低学歴については事実なので申し開きはございません(笑)。そこで思考停止するのもご自由といえばご自由です。