ちろうのレイブル日記

2017-05-21

「本当によい教育を実現するための覚書」を書いてから半年経って思うこと

今振り返るとずいぶん尖ったことを書いてしまったなと思う。口が悪すぎたなと、反省するところもある。この半年でまたいろいろ本を読んで勉強している。とくに公文式について知ったのが大きい。きっかけはおおたとしまさ氏の「なぜ、東大生の3人に1人は公文式なのか?」だ。あるいは東大生の2人に1人がかつてピアノを習っていたというらしいが、それはさておき、東大生の3分の1がかつて公文式に通っていたというのが本当ならばこれは驚くべきことだと思う。僕も子供時代、自分の街に「くもん」と言う名の塾があることは知っていた。そしてそんなところに行ってまで勉強する必要は全くないと考えていた。むしろ学校の勉強についていけない落ちこぼれが行く場所だと思っていた(田舎者なので)。もしかしたら僕が東大に行けなかったのは公文式をやっていなかったからかもしれない(ただし、受験もしていない、笑)。



んで、これをきっかけに創業者の公文公(くもんとおる)氏の自伝本「やってみよう」や、くもん式の国語教材を作った人たちの物語「公文式国語の「方法」」を読んだりして、やはり公文式が「本当によい教育」の雛形を既に作っているということを確信した。もちろん批判されるべき部分はあるのだろうし(特にアンチ公文式とも言うべき一派がいるのが興味深い)、フランチャイズの全国展開だからきめ細やかさは犠牲にしているのかもしれないけどね。でもその教育理念と実践には目を見張るものがある。何よりも重要なのは安価な価格設定と自主性を従事する方針だ。



数学1教科であれば月額6000円とのこと。隙あらば授業料を搾取しようというこのご時世において、月額システムは良い。そしてじゅうぶん安い。また、やっぱり勉強っていうのは自主性が絶対に欠かせないと思うのよね。というかやらされる勉強など百害あって一利なし。害悪でしかない。いかに勉強の自主性を刺激して発生させるかどうか。あ、このまえ浅田彰氏が「勉強」という言葉が大嫌いだと言っていた。「勉めることを強いる(だっけ?)」とか最悪だとかなんとか。。。たしかに「強いる」って無理やりやらせるってニュアンスだよね。ふむ。ここでは「学習」という言葉にしておこう。

そして学校のテストの点数を上げるためというよりは、学力の土台となるものを作るためという意識がいい。宿題とかいう概念もなく、ざっくりと学年ごとに合わせたレベルのものを、スモールステップで自分にあったところから、いくらでも進めていけばいいというやり方。人それぞれレベルがあるのだから、それでいいのだと思う。

くもんの方針に合う人もいれば合わない人もいるらしい。そんなのは当たり前だ。万人にフィットする教育法などあるわけがない。でもいたずらに授業料だけを搾取する巷の学習塾・予備校に比べれば良心的なのではないだろうか。来るものは拒まず・去るものは追わず、という精神だ。僕も教育には絶対にその精神が合致すると思っている(熱血教師なんかクソくらえだ)。


■現状を打破する最強の方法は何か

個別指導塾というところで実際に子供を目の前にして指導していると(ちなみに偏差値50以下がデフォ)、基本的にはストレスが溜まってくる。なぜこんなにも勉強ができないのだろう、あるいはやる気がないのだろう。言われたことをやらないのだろう。だらしがない。生気がない。覇気がない。だるそうにする。コミュ障。サボり。頭を使う前に「分からない」と言う。自分にはできるはずがないという態度、学力的弱者の立場の先取り。特にまずいのが以下の3タイプ。

1.学習障害レベル
まあこれは説明するまでもないですが、中学生であっても単純な加減の計算を間違える、四則計算の順番を無視する、九九を間違える、字がまともに書けない、ということがある。これは正直、障害なのか極端な怠惰なのか、まあつまり先天的なものか後天的なものか、分からないので難しい。ただ確実に言えることは、語彙力が圧倒的に足りていないということ。それに加えて、脳への、あるいは脳からの指令が届く速度が圧倒的に遅く感じる。シナプスのつながり具合とかそういう事なんだろうか。そもそも言葉を問いかけても返ってこない。これは重症だ。これ普通に失礼な話だからね。目の前の俺を無視するんじゃねえ!ちなみに僕は「コミュ障」という言い訳を認めない。反応しないって明確な意思表明だからね。「それ失礼なことだよ」って教えるのは大事だと思う。

2.すごく真面目なのにぜんぜん力がないタイプ
素直である、真面目であるという点においては学習に向き合う準備は整っているのだと思う。でもよくよく聞いてみると基礎が圧倒的に足りていない。英単語を知らずに英文を読もうとしていると言いますか、理科・社会の重要語句なんかまるっきり覚えていない(というか知らない)のですが、そもそも日本語の語彙が足りていない。新しい言葉を聞いても、名は体を表すといいますか、名前が意味を表しているということ(ルール)がそもそも分かっていないので、新出単語をまるで外国語か暗号くらいに捉えている。そりゃ覚えられるわけがない。これ英語でもあるよね。なんとなくだけど、あるいは習ってなくても「er」はそれをする人を表すとか、「an」「dis」は否定の意味になるとか「ism(イズムでもいい)」が考え方とか価値観を表すとかさ、そういうルールに対する感度。元になる語彙をまず覚えることが先決なのだろう。

3.やれば出来るのにやらないタイプ
比較的言葉を使いこなす力があり、理解力も早いのだが、とにかくやる気がないタイプ。これはある意味もっともいけない。驕りがあるのかもしれませんね。このタイプの対処法は「徹底的に自信を挫く」というのが一つあるんじゃないだろうかとは思っている。まだ自分の中でそれが正しいのか自信はないけど。「お前じぶんが出来ると思っているかもしれないけど、全然だからな」とかなんとか。このタイプにはあるていど厳しさが必要。

まあとにかくいろんな問題があるわけだが、目の前の、例えば一つの数学の文章問題を懇切丁寧に解説するのは抜本的な解決にならないと思う。どうせろくに理解していないし文章構成が少し変わったら解けないだろうし、もしかしたら同じ問題をもう一回やらせても解けないかもしれない。それは文章の意味を理解していないからだ。文章を論理的に読み取って、数式で表現するということができない。ある意味翻訳ですよね。日本語を英語に変える、みたいな。日本語を数式に置き換える。たとえば「十の位の数と一の位の数の和が9になる二桁の自然数」の具体例を挙げられるかどうか。これは結構試金石になりますよ。この例が挙げられないパターンって多いですよ。まず第一段階が具体例を挙げられること(45とか72とかそういう数字ですね)、その後にこれが9の倍数になることを示せってことになるわけですが(そして完答したあとに「まあ九九の9の段の数字だし当然そうなるわな。んでそれが9の倍数であるとはこんなふうに示されるのか」という感動があればなお良し)、例が挙げられない時点で解ける訳ありませんよね。日本語の意味が分かっていないということですから。他にも「○○の■割が△△」や「○○は△△の■%」における、間の日本語を全く無視しているとか、「〜割」と「〜割引き」の区別が全くできないなどです。本当に日本語を読んでいるのでしょうか??言葉を乱暴に扱っているのです。「は」とか「が」とか「の」とかちゃんと区別せずに適当に答えている。


たぶん、「言葉の意味を厳密に理解する」→「その内容を再現する」ってことを放棄してきたんじゃないかと思うんですね。そういえば内田樹先生が、大学生(最近の若者)は文章に分からない言葉があっても適当に読み飛ばすスキルを身に付けているって言っていました。だから驚くべき誤読がある。読み飛ばしがある。分からない言葉があることに対する「嫌な感じ」とか「不安」がスルーできるんですね。これがすべての根源であり、小学生か、あるいは幼少期からそういうものが始まっているんじゃないでしょうか。

中学校レベルの定期テストで点数が取れないとすれば、その「わからない言葉があっても気にしないという態度」に全ての原因があるのではないか。そんな気がしています。だからその態度を改めなければいけない。そこに学童期に最も重視すべき課題があると僕は思う。昔は漢文とか論語とか、意味も分からず素読(暗誦)させられたと言いますよね。まあそれは現代には難しいにしても、ある程度論理的に筋の通った、ついでに教養(歴史や自然に関する知識)も同時に身につけられるような短文(←これ重要)を、徹底的に読む・音読する訓練が良いと思う。そして教育者が、一字一句、すべての言葉に対して意味を説明する。意味が完全につかめていれば、確実に音読ができる。こういう経験をいかに積み重ねられるか。

そこで「公文式国語」が実に良いんですね。それが具体的にどういうものかというのは詳しく書けないんですけど、実に良いと思います。これは大きなヒントにあるなあと考えています。

言葉を正しく使う。厳密に使う。美しい言葉を使うってのは、これからの世の中においてものすごく重要になると思います(今も昔もだと思いますけど)。その正確さと豊富さって確実に相関しますよね。だからこそ語彙力なんです。コミュ力も語彙力。反射神経も語彙力。道徳も思いやりも倫理観も全部語彙力で解決ではないでしょうか。教養と言っても良い。まあこれは言いすぎかもしれませんが。「道徳」の授業とか要らないので、すべて「国語」にしよう。「国家の品格」「日本人の誇り」で著名な藤原正彦先生の言葉「一に国語、二に国語、三四がなくて、五に算数」。真理ですよね。これを数学者が言っているのだから味わい深い。

祖国とは国語 (新潮文庫)

祖国とは国語 (新潮文庫)




まあそんな感じのことを、日々もんもんとしながら考えています。

もしご興味がある方は、僕の同人誌をぜひ読んでいただけませんでしょうか→「本当によい教育を実現するための覚書」
ご意見など聞かせていただけると嬉しいです。教育関係のお仕事・塾関係のお仕事の方には特に、無償で差し上げます。コチラにご連絡下さい!→owarair@gmail.com

2017-05-19

文学フリマの雑感

5月7日、東京流通センターで文学フリマに参戦した。文フリは出展したりしなかったり、委託させてもらったりという微妙な関わり方なんですが、やはりイベントとしては面白いので何だかんだ毎回覗きに行ってしまいます。そして今回は、去年の末に「本当によい教育を実現するための覚書」を書いたところだったので、満を持して参戦した。ブース名は趣向を変えて「チロウ教育研究所」

今回の購入必須アイテムは、濱野智史さんがインタビュー&寄稿の「アレvol.2」と偶像少女文学会の「アイドル文学vol.2」でした。あとはポツポツと気になったものを購入。「ヲタ夫婦」の藍さんの新刊とか。
タイガー田中さんこと田中大牙さんが寄稿されている「エアミス13号」いただきました。ありがとうございます!ショートショート「名探偵薬2」快作ですね!

僕も前回寄稿した偶像少女文学会の新刊「アイドル文学vol.2」ではハヤケンさん仮面女子に関する文章を寄稿していましたね。仮面女子愛があふれる文章でした。今回は僕は回避してしまったんだけど、次に余裕があればまた何か書いてみようかな〜。


僕のブースはというと、まあ大して売れませんわね。いいかげん新鮮さがない。ジャンルがバラバラというものありますし。「アイドル」と「教育」ですからね。それでもやはり、「教育」というワードに引っかかって、ポツポツと話しかけてくれる人がいます。大学院で教育学を専攻している人とか、現役の高校教師という人とか。やはりそういう人は本を買ってくれましたね。僕の同人誌を読んだら、どんな感想を持たれるのでしょうか。これはマジで気になります。ぜひ感想など聞かせてくれると嬉しいなあ。結構本気で書いているので。

文学フリマって「教育」という島は特に存在しないのかしら。「評論、現代思想、哲学」っていうジャンルだったんだけど。それらしきジャンルが見当たらなかったもので。隣がPOSSEだったな。


■著名人にたくさん会えた


今回は(も?)いろいろな著名人に会えて楽しい会だった。まずは地下アイドルライターの姫乃たまさんが、漫画家西島大介氏のブース(本人は腰痛のために欠席とかw)で売り子をしていて、開場前から最後まで一日中やっていたから驚いた。とはいえファンが次から次へとやってきて物販会をやっているような感じだった。たまたま僕のブースの前を歩いていたので、声をかけて僕の同人誌献本した(押し付けた)。実は本書の最後に「本当のさいごに アイドルについて」という章があり、そこで姫乃たまさんをガッツリ扱っているくらい僕は推しているので、このタイミングで渡せてよかった。その後、チェキを撮りに行ったら「フィルム切れ」と言われたので、2ショット写メを撮ってもらった。

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「アレ」という雑誌を頒布しているブースに濱野智史さんが来ていたのでサインをもらった。また、そこに氏の師匠とも言うべき東浩紀さんもいて楽しそうに会話していた。そのタイミングでちょっと声をかけることができてよかった。僕とかコンテクチュアズ時代からの友の会会員なんでね。むろん、「ゲンロン0」も読了済みです。濱野さんは新たに情報社会論の文章を準備しているみたいなので、ファンとしても今後の活躍を期待したい。作家の大森望さんも会場にいた。声はかけられなかった。

パフェ評論家として著名な斧屋さんとは、氏がアイドル評論家だった(?)時代からお世話になっております。いつもブース前でお話ししてくれてありがとうございます!またゆっくり教育談義をしたいです。いつか、ブログでの書評を期待しています(笑)


文学フリマ、自分が創作に関わっていると、より楽しい。コミケもそうなんだけどね。


アイドル劇場で「全力少女R」を見る


そんなわけで著名人を遠目に眺めて満たされながら(ミーハーなので)、16時くらいに会場を離脱。1630〜品川アイドル劇場で全力少女Rのライブを見に行きました。ギリギリまで粘ったので、会場に入った時に一曲目が始まっていました。それでも椅子に座って鑑賞できるのがアイドル劇場のいいところ。

やはり圧倒的興奮をもたらされた。全力少女Rは素晴らしい。約30分のライブがあっという間に終わってしまった。特に今回は僕の大好きな曲「嗚呼!踊れ花吹雪」「生まれたてのラブソング」がセットリストに入ってて爆上がりしてしまった。物販では廣川かのんちゃんとチェキ。

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2017-05-10

ニコニコ超会議2017の総括

・4月29日(土)
ニコニコ超会議1日目。予想通り仮面女子の出演が告知された。ニコ超ヲタの僕としては完全に勝ち!ブースは陰陽師ブースとのこと。ソシャゲ全然やらないし、陰陽師が分からん(泣)。まあいいや。優先入場チケットを確保していたので余裕ぶっこいて会場の10時半ころに着くように行ったら、優先入場の方もなかなかの長蛇の列。これホントに優先かよ?と思ったが、まあ意外と途中から流れがスムーズになった(入場口の優先・非優先の分配をいじったのではないかと推測)。それでも結局30分弱並んだかな?11時くらいに入場。


11:30

着いてすぐに陰陽師ブースを覗く。1番目のステージ、豆まき大会が始まった。軽快な司会2人と、松崎しげるが登場!黒いwwwww声が良いww
んで仮面女子の面々が松崎しげる仕様で黒メイクで登場w。お、おぅ・・

豆まきやって、いろいろ抽選とかあって、当然当たらず、、、まああまり期待せずに眺めていました。
ステージ終了後には無料全員握手があったんだけど、メンバーは黒メイクを落としてすっぴんだったのでモノノケ(?)仮面を付けたままとのこと。これがホントの仮面女子やで!何人かマジで誰だかわからなくて焦ってしまった。


13:00

去年に引き続き、歌舞伎を見る。去年と同様、中村獅童初音ミクの共演!「花街詞合鏡(くるわことばあわせかがみ)」とりあえず無銭で見れるし、なかなか歌舞伎を生で見る機会はないので、これは外せない。ただし、チラシとかをろくに読まないでいきなり鑑賞してしまった&遠かった&さいきん目が悪くなってよく見えなかった&眠かった&上手前方にせり出している舞台が撮影セットが被って見にくかった、などの様々な要因で、ほとんど理解できなかった!

結論から言うと、次の日に家に引きこもって布団の中で生放送を見たがそれでようやっとシナリオとかを理解できた。中村獅童が歩いていてたまたま通りかかった花魁初音ミクに惚れられて、常連の非モテがそれに嫉妬して、一触即発に、そこで重音テト対決するというような話だった。


14:30

再び陰陽師ブースにて仮面女子が巨大かるたに挑戦!2チーム(十番:スチガ)に分かれてステージ上で巨大かるた対決をするというもの。かるたが尋常じゃないくらい巨大で、ゲームとして成立していなかった。もう何かとりあえず思いついて実行してみたという企画。もうああいうのって明るくワイワイしていれば何でも良いのかしら。

このステージのあとでも全員握手。これが唯一美味しかったといえば美味しかったかな。


16:00

ここからはトークステージに張り付き。よっぴー、宇野常寛さん、山本寛さんのトーク。みな吠えてた。そしておそらく今回のニコ超最大の目玉の一つ、ビートたけしのトークステージ。夏野さんと水道橋博士と、たけし軍団の芸人2人。「俺なんか40年間不倫してる」「タモリなんかビッグ3じゃねえだろ」って言ってたwwwwww


4月30日

結局現場にはいかず、スマホでだらだらと中継を見ていた。


ニコ超の総括


第1回からすべて参加しているニコ超ヲタの僕ですが、そろそろモチベ維持が難しくなってきた。というか僕の精神的なメインモチベはトークステージで、これが後でタイムシフトなりで動画で見たほうが遥かに快適ということが分かってしまっているので、必ずしもこれをリアルタイムで見る必要がない。だから現実的には、アイドルや超音楽祭のライブが生で見られるということがモチベだった。

かつては東京女子流だったりチキパだったり、超音楽祭でSUPER GiRLSとかアップアップガールズとか℃-uteとかが見れた。音楽隊もよかった。小林幸子も見れた。そして一昨年は仮面女子プロレスリングでライブ。新生仮面女子のお披露目もあって、これまでのニコ超史上で最高の高まりだった。去年はステージの規模が小さくなりながらも民進党ブースでの仮面女子ライブ。これも最高だった。枝野さんのトークも面白くて3時間くらい張り付いていた。歌舞伎も初の試みで新鮮だった。

今年はどうかというと、やはりライブがなかったのが高まりきれなかったな。将棋ブースのトークとかも見てみたかったけど、特に今年は羽生さんとひふみん参戦ということで人が多すぎて全然見れなかったし。

来年は、仮面女子のライブを期待しています!でないといよいよ幕張自体行かなくなるかもしれない、、何卒よろしくお願いします。

2017-04-19

中森明夫「アイドルになりたい!」を読んだ

アイドル評論家の中森明夫さんの新著アイドルになりたい!」ちくまプリマー新書)を読んだ。表紙の絵はベボガ(虹のコンキスタドール黄組)のぺろりん先生。新書で表紙にイラストが入っているのは珍しい。まあ最近だと画像が載ってたり、変わったデザインのものもあるけどね。

2011年に出版されたグループアイドル進化論(岡島紳士・岡田康宏共著)でアイドル戦国時代の幕開けが謳われて以降、アイドル評論というジャンルの本はいくつか出版されている。例えばアイドルのいる暮らし」「AKB48白熱論争」「前田敦子はキリストを超えた」「僕たちとアイドルの時代」「ご当地アイドルの経済学」等々、、そしてローカルアイドル・メジャーアイドルも含めて、グループアイドルというものが十分に知れ渡った(むしろ飽和状態?)2017年に満を持して世に出たのが、初のアイドル入門本と銘打たれたのが本書「アイドルになりたい!」である。

小学生から中学、高校生くらいまでのアイドルを志す若い女の子に向けて、優しく語りかける口調が貫かれている。アイドルの定義から、その仕事について、歴史について、そしてアイドルの未来について。イイこともあれば悪いこともある。本当に大切なことが、しかし難しくならないように、包み隠さず、誠実に書かれている。もちろん硬い評論というものも意義のあるものだと思うが、多くの人に届くのはこういう本だろうなと思う。評論っていうと、どうしても評論することが目的となってしまいがちで閉じてしまうからね。この本は徹底的に開かれているというかんじ。ぺろりん先生が表紙を描いているのも、それに一役買っている。

そしてこの本がもっとも響くのは、「アイドルというものに憧れがある、でもアイドルになりたいなんて表明してもいいのだろうか」と自問してたり、あるいは無意識にその欲望を封印している子だと思う。この本は「アイドルになりたいと思っていいよ」と背中を押している。やっぱり今ってやりたいことが何でもチャレンジできる時代でしょう!僕もかつてお笑い芸人を目指してたし。そのことで人生はへんな方向に行ったかもしれないけど(泣)、それも人生だし、チャレンジしなかったら絶対後悔してたと思う。

もちろん現役でアイドル活動をしている人が読めば、目指すべき方向を見つける手助けになるだろう。僕は今の推しメン全員にこの本を読んで欲しいと思うくらいです(プレゼントNGだとそれが叶わない、悲しい)。また、アイドルヲタクが読んでも様々な発見があります。この本の冒頭で語られるのはアイドルとは「好き」になってもらう仕事」だということ。アイドルを目指すにしても、ファンになるにしても、まずアイドルについて「知る」ことをしないと何も始まらないですからね。また、アイドルヲタクであれば推しメンがいるわけで、では推しメンのどこが好きなのだろう、なぜ好きなんだろうとか考えるもの面白い。





中森明夫さんというのは、「アイドル文化」というものに強烈な愛を持っている人だと感じる。それは約35年もアイドルについて語っているというのだからそれはもう筋金入りだ。ちなみに僕も過去に「アイドル〈ヲタ〉になる方法」というタイトルの同人誌を作ったりするくらい、アイドルのなり手への僕なりのアドバイスや、アイドルヲタのススメみたいなものを書いてきたつもりです。ただ特定のアイドルAKBだったり指原莉乃ちゃんだったり仮面女子だったり)を題材にしてだったから、あまり普遍的ではなかったかなあとも思う。だからより一層、この「アイドルになりたい!」には感じるものがありました。

本書の終盤では、あらゆる文化やスポーツやエンタテインメントが「信じる力」で成立しているという話で、例えば野球サッカーなんかがそうだと書かれている。それに比べて歴史の浅い「アイドル」はまだまだ十分に文化として認められていないという。たしかにそうだ!まずそういう視点に気づかせてくれるのが一つある。そしてここでも背中を押される。つまり「アイドル」だって、野球サッカーや相撲や柔道やと言ったようなものと肩を並べたっていいじゃないか、という心強い後押し。これはアイドルが好きだったり、アイドルに関わっている人にとって、とても勇気をもらえる一冊だと思います。皆さんも是非読もう!

2017-04-01

【アイドルと文学Vol.1 所収】あなたは仮面女子を推してもいい

皆さんこんにちは、ちろうです。新年度も始まりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私ちろうは昨年末に同人誌「本当によい教育を実現するための覚書」を発表いたしましたが、それ以降、充電期間を過ごして参りました。いよいよ2017年4月からいろいろ動き出していこうと思います(例えばホームページを作ったりとか)。またブログや、休眠状態になっているYoutube等でもいろいろやっていきたいなあ。とにかく、次なる展開にご期待下さい。

さて、2017年度一発目のブログ更新として、2016年11月23日に敢行されましたアイドル文学vol.1」偶像少女文学会)に寄稿しました、超絶アイドル論考「あなたは仮面女子を推してもいい」を公開いたします。こちらは刊行→即日完売してしまった(再版あるかも?)ので、この機会に是非読んでいただけると嬉しいです。なにとぞよろしくお願いします。



【あなたは仮面女子を推してもいい】


さやわか文学の読み方』(星海社新書)を読んだ。いったい、日本文学とは何なのか。明治以来一〇〇年以上に及ぶ歴史がありながら、具体的で納得できる「文学」の定義はどこを探しても見つからず、権威ある文学賞の受賞基準もいまだに一定しない。本書では、その原因はいくつかの“錯覚”にあるとし、その錯覚がどのように生まれていったのかを探るべく、日本近代文学史をさかのぼっていくという構成になっている。

ある作品の質の高さを測るのは、それがいかに現実をあるがままに描いているか、人の心を描き出しているかということではなく、またもちろん、社会あるいは自分自身をうまく描けているか、ということでもない。重要なのはただ、文字だけを使って「あたかも〜であるかのように思わせる」という錯覚をいかに喚起させるかなのだ。であるならば、文学はすべてがフィクションで、本当のことはひとつもないということを認め、いかにその錯覚を楽しむことができるかという態度を採用することが、私たちの読書体験をより豊かなものにしてくれるのではないかと提案してくれる内容だった。

筆者はこれを非常に面白く読んだ。なぜなら、アイドルの楽しみ方そのものだと思ったからだ。もちろんこれはアイドルに限らず、あらゆるエンタテインメント、そしてあらゆる価値観に言えると思う。つまり全ては幻想・錯覚であり、ある対象に「価値がある」ということ、その多寡は「どれだけ多くの人が価値があると思っているか」にすぎないのだということ。「価値がある」というロジックをより広く強く兼ね備えたものが、価値があるものなのだ。その最たるものが「貨幣」だろう。一万円札はただの紙切れだが「この価値は揺るがないだろう」と多くの人が信じているからこそ、相応のモノやサービスと交換できる。

この世界は錯覚で成り立っている。筆者はとりわけ地下アイドルが趣味だが、昨今の地下アイドルライブアイドル)ブームもまた、錯覚に満ちている世界だ。家族でも友達でもない、年齢も性別も違う相手と擬似的な信頼関係を育てる。「擬似恋愛」と言うこともあるし、本当の恋愛感情を持ってしまう場合もある。傍目にはろくでもないものだ。アイドルヲタクを公言しようものなら、二言目には「付き合いたいのか」とか「それより彼女をつくれ」などと言われる。これは世間一般でも理解されにくい趣味の一つだと言えるだろう。しかし筆者は、オタキング岡田斗司夫の「オタクとは、自分の好きなものを自分で決めることのできる強烈な意思と知性を備えた人間である」という言葉を糧にして生きている。地下アイドル現場には、いかにしてその錯覚を楽しむか、あるいはよい錯覚を引き起こしてくれる対象を選り分ける楽しさ(誰を推すのか)などに、絶対的な価値があると信じてきた。だからこそ、ある程度高尚なものとされている「文学」もまたそのような世界なのだよと言われた気がして、勇気づけられたのだ。

文学の読み方 (星海社新書)

文学の読み方 (星海社新書)



■本稿の動機


本稿は、筆者が推しているある一つのアイドルグループについての考察をすること、それによって読者に広く知ってもらうこと、そして、できることならば一緒に応援してくれる仲間を見つけることを狙いとして執筆されている。そのアイドルグループとは、秋葉原を拠点に活動する地下アイドル仮面女子である。

仮面女子の名前は、少しでもアイドル界隈に詳しい者なら一度は耳にしたことがあるだろう。「最強の地下アイドル」を自称し、女性インディーズグループとしては史上初のオリコン1位を獲得、さいたまスーパーアリーナでの単独公演などの実績や、秋葉原電気街口に掲げる巨大看板、秋葉原パセラに構える常設劇場などでも有名だ。今では地上波テレビで見かける機会も増えている。今、もっとも勢いのあるアイドルグループの一つである。

所属事務所「アリスプロジェクト」が展開するアイドルグループ群は多岐にわたり、「仮面女子」を最上位ユニットとし、その仮面女子を構成する「アリス十番」「スチームガールズ」「アーマーガールズ」の仮面3ユニット、その候補生として「OZ」「ぱー研!」、研究生として「スライムガールズ」、さらにそのスライムガールズへの所属を目指す「AJ(アリス嬢)」といった具合に、昇格システムを有している。
彼女たちは秋葉原パセラ7階に常設劇場「P.A.R.M.S.(パームス)」を構え、365日毎日ライブを行っているほか、そのパームスの舞台に立つことを目指す者たちは、さらに規模の小さな「AKIBAエンタメステージ」という、舞台と客席がほとんど境界がないような場所で日々経験を積んでいる。

彼女たちはある程度規模が大きく、派生ユニットも含めたグループ間の流動、メンバーの入れ替わりも激しいため、一般的なグループアイドルという枠では括れない存在だと考えている。それは一つの生態系ととらえた方がよい。もっともイメージしやすいのがAKB48グループだ。そのよいところはよいところとして踏襲し、また二番煎じに甘んじることのないように独自の道も模索している。その思想は例えば「インディーズ路線を貫くこと」「国民的地下アイドルを目指すこと」などに顕著に表れている。

メンバーたちは古株はもちろん、たとえ駆け出しであっても、日々の活動の中で芸能界の厳しさをまざまざと突きつけられる。それは「皆が仲良く」「皆が平等に」という生半可なものとは無縁だ。例えば彼女たちはメンバー同士の連絡先の交換を禁じられている。恋愛は自己責任(ただし、ファンとはNG)。そして人気投票である「オタク満足度」は毎週末にその動員数が集計され、ランキングを競っている。ここでいつまでも下位に甘んじること、またそのことに危機感を持たないのであれば、その先に明るい未来はないだろう。そういう残酷な世界なのである。またこの投票がダイレクトに毎月の給料に反映されるのがユニークなところだ。

そんなふうに日々奮闘している中、それぞれのメンバーは芸能界での実績を作りつつある。例えば筆者の一推しであるスチームガールズのセンター黒瀬サラちゃんは、2016年夏に公開された土屋太鳳ちゃん主演の映画『青空エール』に、主人公の友達役として出演している。東京大学を卒業した桜雪ちゃんは、東大学士アイドルとして様々なテレビバラエティに出演する他、自身の受験記を記した『地下アイドルが1年で東大生になれた!合格する技術』を出版した。月野もあちゃんは2016年10月放送開始のTOKYO MX『TO BE HERO』そのヒロイン役で地上波アニメ声優デビューを果たした。バラエティ適性の高い森カノンちゃんは、仮面女子がテレビを含めた各種メディアでのゲストMCに呼ばれるときの最有力候補だ。このように仮面女子は多様な逸材を擁している。


■仮面と文学の関係について


そして筆者がここで仮面女子を取り上げる理由はこれだけではない。本誌のテーマは「アイドル文学」だ。文学に親しい読者ならば、「仮面」という名詞を聞いて否応なく思い浮かべてしまう作品の一つや二つはあるのではないか。そう、ミステリ、あるいは文学作品において「仮面」というものが重要なモチーフであるものは多いのである。タイトルに注目すれば、三島由紀夫の最初の自伝的長編で文学的出発点とも評される『仮面の告白』、本格的な“悪”の連鎖を描いた中村文則『悪と仮面のルール』がある。ミステリでは東野圭吾『仮面山荘殺人事件』、知念実希人『仮面病棟』、折原一『灰色の仮面』、綾辻行人『奇面館の殺人』などを挙げることができるだろう。横溝正史原作小説で、また日本映画の金字塔とされている『犬神家の一族』では、白い仮面が物語の重要な核となっていた。安部公房『他人の顔』は事故によって顔面に酷い火傷を負い「顔」を失った男が、精緻な仮面を作成し、自己回復のため妻を誘惑する物語だった。仮面を被ることによって超人的なパワーを発揮するというタイプの物語では『仮面ライダー』シリーズがあまりにも有名であるし、あんど慶周ギャグマンガ『究極!!変態仮面』も外せない。本作は「最もDVD−BOXを売る男」としても名高い福田雄一によって『HK変態仮面』『HK変態仮面アブノーマル・クライシス』として映画化もされている。

これらの作品に限らず、世に出ている多くの作品の中で「仮面」は、物語の骨格として、あるいはトリックの核として、あるいはパワーを与える存在として描かれる。そう、「仮面」というアイテムと「文学」は親和性が高いのである。


仮面女子は、なぜ仮面をかぶるのか


地下アイドル仮面女子」はなぜ仮面をかぶるのか。アイドルは顔が命なのだから、顔を隠してしまってはその魅力を大きく減じてしまっているという指摘がある。条件反射的に嫌悪感を持つ者もいる。そこに異質なもの、邪悪なものを感じ取ってしまうのだろう。そういう感覚ももちろんわからなくはない。しかしそのような判断をする者がいる一方で、熱い支持を受けている現実がある。そこには、これから地下アイドル界に起こる大きなムーブメントの胎動があるのかもしれない。筆者も仮面女子はいま、推していて最も面白いアイドルだと確信するヲタの一人だ。それは魅力的なメンバー、クオリティの高い音楽、ファンを飽きさせない展開など、いろいろな理由があるが、本稿ではあえて仮面に絞って見ていきたい。


仮面にはどのような歴史的、神話的な意味があるのだろう。中村雄二郎は『術語集−気になることば−』の中で、仮面の働きについて考えるとき、そこには四つほどの重要な霊力が認められるとする。それを大胆に抜粋しながら以下に紹介していく。


第一には、それは私たち人間を日常の空間からふたたび有機的宇宙の中に位置づけることである。一般に、生身の人間はどうしてもシンボル性が弱かったり欠けたりしているが、そこで仮面は、人間の深層の現実をアクセントの強いかたちでシンボル化し、神話的形象として示すのだ。

第二には、仮面をつけることによって人間の顔が全身体化されることである。人間では顔は身体の単なる一部分ではなく、それ自体がすでにその人の全体を表している。しかし、顔はそういう特権的な部分であることによって、かえって身体の他の部分の表現を妨げやすい。そこで仮面は、素顔の目を覆い隠すことによって、私たち人間を意識から解放しつつ、身体の他の部分の自由な表現を助ける。

第三には、仮面が私たち人間のパトス的=受苦的存在としての側面を強化し体現していることである。仮面がいきいきとした生命力あるいは霊力を持って活動する世界は、濃密な意味の充ちたシンボリズムの世界であり、そこでは万物が照応関係、互いに映し出される関係にある。そしてひとは、仮面を付けることで容易にそういう照応関係のなかに入っていくことができる。このような関係においては、自己は否応なしの他者のつよい働きかけを受けるから、パトス的(受動的、情念的、受苦的)性格を帯びるのである。

第四には、私たち人間に〈場所(トポス)〉の重要性を思い起こさせることである。仮面は私たち人間を無限空間(均質空間)から有機的宇宙に解放するだけでなく、具体的な対応物としての固有の舞台、つまり小宇宙としての場所(トポス)を要求する。それが最も顕著に現れているのが日本の能舞台であり、本舞台は四隅の柱によって区切られ、はっきり方向づけられ意味づけられている。そして高座の下手の斜め奥に伸びる橋懸りとその奥にある鏡の間は、怨霊や異類のものがこの舞台(この世)に立ち現われる他界との通路と他界そのものをなしている。つまり能舞台は、空間的にきわめて限られた広さの、一見なにもないところでありながら、豊かな意味発生の場所(トポス)を形づくっているのだ。

術語集―気になることば (岩波新書)

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■私たちと仮面との関わりについて


そして私たちの日常と仮面という概念も、決して無縁ではない。現実の人間関係の中で、また文化の中で、素顔あるいは真実の顔もつねに一つであることはできない。つまり、私たちは状況に応じて様々に顔を使い分ける。それはときには夫であり、ときには親であり、ときには遊び仲間である、といったように。それぞれの役割あるいは役柄に応じて、否応なしにちがった顔をもつことになるのだ。そのとき、素顔はかえって仮面を真似ることになる。素顔はすでに他者の眼に映った、つまり特定の他者との関係のなかで成立した私の顔なのだ。

以上が中村の整理である。そしてそれを強調するために、坂部恵『仮面の解釈学』の中からとある文章を引用している。これは非常に重要だと思われるので、孫引きさせてもらおう。


わたしの素顔もまた、わたしにとって、他者−ないし〈他者の他者〉−以外のものではなく、他者性につきまとわれることのない純粋な自己、自己への絶対的な近さ、現在、親密さなどというものは、本来、どこにも存在しない。〈わたし〉は常に〈人称〉personneないしは、〈仮面〉personaとして以外には、形どられあらわれることはないのだ。/仮面が素顔の隠喩であるのと同等の資格において、素顔は−何らかの〈原型〉などではなく−仮面の隠喩である。」
「素顔は真実に、仮面は〈偽り〉ないし〈絵空ごと〉により近い、と考えるのは、特定の文化的限定を受けた、一つの特殊な偏見以上のものではない。」


仮面女子の話に戻ろう。これによって、仮面女子をその「仮面を付けている」という一点だけで批判することはできなくなった。私たちはこの人間社会で生きている限り、すでに常に仮面をつけている。もし仮面女子「仮面」を付けていることで、真実を覆い隠し、不誠実であり、邪悪であると感じるのならば、それは偏見以上のものではないと断じているのだ。そして私たちはここで、仮面女子が仮面を身につけることのポジティブな効果、その解釈について思い至らなければならない。ここでは先ほどの、仮面が持つ四つの重要な霊力を援用することができる。以下に当てはめてみよう。

アイドルグループ仮面女子」にとって、仮面はどのような役割を果たすのか。彼女たちは確かに自分たちを指し示す呼称として“仮面”を打ち出し、また秋葉原駅前の巨大看板に代表される宣材写真では、全員が仮面を身に付け、誰が誰だか分からない状態を意図的に演出している。そこで仮面は、生身ではあまりにもありふれている女子集団をある種の神話的形象としてそのシンボル性を強化する。これによってまずは、グループそのものの存在を強く意識させることに成功していると言えるだろう(仮面の効果1)。

仮面女子は曲中に激しいヘドバンをしたり、間奏では暗がりの中で何かに憑かれたような妖しい動き、檻に閉じ込められたような動きを見せる。そのときに仮面を身に付けることによって、メンバーは臆することなく、より激しいパフォーマンスができるようになるという。これはまさに、身体を意識から解放し、自由な表現を助けるという仮面の効果に他ならない(仮面の効果2)。

また全員が仮面をかぶることで、お互いに強い働きかけを受け、前述の言葉を借りれば「パトス的(受動的、情念的、受苦的)性格」を帯びることになる。その結果、エンタテインメントの強度が増し、メンバー同士だけではなく私たち観客をもその世界観に強烈に感染させることが可能になるのだ(仮面の効果3)。

そして今や仮面はアリスプロジェクトを代表するユニットの象徴として捉えられており、候補生たちは「仮面を被ること」を目標としている。仮面女子に昇格して初披露が行われる際には、ライブ前に「仮面の儀」という儀式が行われることもその価値観の形成に大きく関わっている。そこでは仮面は、単なるステージを神聖で豊かな場所へと変貌させる力を発揮する(仮面の効果4)。

このように考えると、より仮面女子への興味が湧いてくるはずだ。そしてもう一つのありがちな誤解、つまり「メンバーを見分けることができないのではないか」という誤解についても解消しておきたい。

当然のことながら、仮面女子のメンバーはライブやイベント、テレビなどの各種メディア、握手会など、多くの場面では仮面をつけていない。仮面は彼女たちを特徴付ける一つの「衣装」に過ぎないのである。そこには言うまでもなく、彼女たちの(容姿としての)素顔に触れ、推しメンを見つけ、声援を送り、信頼関係を築くという、地下アイドル現場では当たり前にある可能性に常に開かれているのである。だから安心して欲しい。一人一人のメンバーを知れば知るほど、その魅力に気付いていけるはずだ。ひとたび推しメンができれば、仮面越しに声援を送ることもできるし、ソロパートで仮面を外すという演出がこれ以上ない高まりを私たちにもたらしてくれるということも理解してもらえるにちがいない。


■まとめとお願い


議論があちらこちらに飛んでしまい、冗長な文章になってしまった。しかしアイドルグループ仮面女子」の仮面について深く掘り下げることでその魅力を考えるという点において、筆者自身、この文章を書いてよかったと思う。皆さんはどう思われただろうか。強引なこじつけなのかもしれない。それこそ錯覚なのかもしれない。しかし錯覚こそが文学の本質であるならば、これもまた筆者の文学的営みであり挑戦なのだ。


本稿の目的は、一緒に仮面女子を応援してくれる仲間を見つけることだった。この文章を書くこと、そして読まれることは、その目的の導入部分でしかない。仮面女子の具体的な魅力については、筆者が独自に作った同人誌仮面女子の研究☆』(チロウショウジ)の中でより詳しく紹介している。もしご興味を持たれたならば、筆者に一声かけてください(@

地下アイドルのライブを経験したことがない人、アイドルが嫌いではないがその楽しみ方がよくわからない人、AKBグループを始めとするメジャーアイドルのことが好きだが何か物足りなさを感じている人、これまで全くアイドルと無縁の生活を送ってきた人、そのすべての人に贈ります。そして特に、仮面女子に対してなんとなく苦手意識を持っていた人、取るに足らないものであると決めつけていたという人がもしいるならば、それは錯覚だ。ただし、人生を豊かにしないほうのそれである。同じ錯覚なら、人生を豊かにするほうの錯覚にかけてみませんか。

この文章を読まれたあなたにはもはや、何も躊躇する理由はない。あなたは仮面女子を推してもいいのだ。