ちろうのレイブル日記

2017-04-01

【アイドルと文学Vol.1 所収】あなたは仮面女子を推してもいい

皆さんこんにちは、ちろうです。新年度も始まりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私ちろうは昨年末に同人誌「本当によい教育を実現するための覚書」を発表いたしましたが、それ以降、充電期間を過ごして参りました。いよいよ2017年4月からいろいろ動き出していこうと思います(例えばホームページを作ったりとか)。またブログや、休眠状態になっているYoutube等でもいろいろやっていきたいなあ。とにかく、次なる展開にご期待下さい。

さて、2017年度一発目のブログ更新として、2016年11月23日に敢行されましたアイドル文学vol.1」偶像少女文学会)に寄稿しました、超絶アイドル論考「あなたは仮面女子を推してもいい」を公開いたします。こちらは刊行→即日完売してしまった(再版あるかも?)ので、この機会に是非読んでいただけると嬉しいです。なにとぞよろしくお願いします。



【あなたは仮面女子を推してもいい】


さやわか文学の読み方』(星海社新書)を読んだ。いったい、日本文学とは何なのか。明治以来一〇〇年以上に及ぶ歴史がありながら、具体的で納得できる「文学」の定義はどこを探しても見つからず、権威ある文学賞の受賞基準もいまだに一定しない。本書では、その原因はいくつかの“錯覚”にあるとし、その錯覚がどのように生まれていったのかを探るべく、日本近代文学史をさかのぼっていくという構成になっている。

ある作品の質の高さを測るのは、それがいかに現実をあるがままに描いているか、人の心を描き出しているかということではなく、またもちろん、社会あるいは自分自身をうまく描けているか、ということでもない。重要なのはただ、文字だけを使って「あたかも〜であるかのように思わせる」という錯覚をいかに喚起させるかなのだ。であるならば、文学はすべてがフィクションで、本当のことはひとつもないということを認め、いかにその錯覚を楽しむことができるかという態度を採用することが、私たちの読書体験をより豊かなものにしてくれるのではないかと提案してくれる内容だった。

筆者はこれを非常に面白く読んだ。なぜなら、アイドルの楽しみ方そのものだと思ったからだ。もちろんこれはアイドルに限らず、あらゆるエンタテインメント、そしてあらゆる価値観に言えると思う。つまり全ては幻想・錯覚であり、ある対象に「価値がある」ということ、その多寡は「どれだけ多くの人が価値があると思っているか」にすぎないのだということ。「価値がある」というロジックをより広く強く兼ね備えたものが、価値があるものなのだ。その最たるものが「貨幣」だろう。一万円札はただの紙切れだが「この価値は揺るがないだろう」と多くの人が信じているからこそ、相応のモノやサービスと交換できる。

この世界は錯覚で成り立っている。筆者はとりわけ地下アイドルが趣味だが、昨今の地下アイドルライブアイドル)ブームもまた、錯覚に満ちている世界だ。家族でも友達でもない、年齢も性別も違う相手と擬似的な信頼関係を育てる。「擬似恋愛」と言うこともあるし、本当の恋愛感情を持ってしまう場合もある。傍目にはろくでもないものだ。アイドルヲタクを公言しようものなら、二言目には「付き合いたいのか」とか「それより彼女をつくれ」などと言われる。これは世間一般でも理解されにくい趣味の一つだと言えるだろう。しかし筆者は、オタキング岡田斗司夫の「オタクとは、自分の好きなものを自分で決めることのできる強烈な意思と知性を備えた人間である」という言葉を糧にして生きている。地下アイドル現場には、いかにしてその錯覚を楽しむか、あるいはよい錯覚を引き起こしてくれる対象を選り分ける楽しさ(誰を推すのか)などに、絶対的な価値があると信じてきた。だからこそ、ある程度高尚なものとされている「文学」もまたそのような世界なのだよと言われた気がして、勇気づけられたのだ。

文学の読み方 (星海社新書)

文学の読み方 (星海社新書)



■本稿の動機


本稿は、筆者が推しているある一つのアイドルグループについての考察をすること、それによって読者に広く知ってもらうこと、そして、できることならば一緒に応援してくれる仲間を見つけることを狙いとして執筆されている。そのアイドルグループとは、秋葉原を拠点に活動する地下アイドル仮面女子である。

仮面女子の名前は、少しでもアイドル界隈に詳しい者なら一度は耳にしたことがあるだろう。「最強の地下アイドル」を自称し、女性インディーズグループとしては史上初のオリコン1位を獲得、さいたまスーパーアリーナでの単独公演などの実績や、秋葉原電気街口に掲げる巨大看板、秋葉原パセラに構える常設劇場などでも有名だ。今では地上波テレビで見かける機会も増えている。今、もっとも勢いのあるアイドルグループの一つである。

所属事務所「アリスプロジェクト」が展開するアイドルグループ群は多岐にわたり、「仮面女子」を最上位ユニットとし、その仮面女子を構成する「アリス十番」「スチームガールズ」「アーマーガールズ」の仮面3ユニット、その候補生として「OZ」「ぱー研!」、研究生として「スライムガールズ」、さらにそのスライムガールズへの所属を目指す「AJ(アリス嬢)」といった具合に、昇格システムを有している。
彼女たちは秋葉原パセラ7階に常設劇場「P.A.R.M.S.(パームス)」を構え、365日毎日ライブを行っているほか、そのパームスの舞台に立つことを目指す者たちは、さらに規模の小さな「AKIBAエンタメステージ」という、舞台と客席がほとんど境界がないような場所で日々経験を積んでいる。

彼女たちはある程度規模が大きく、派生ユニットも含めたグループ間の流動、メンバーの入れ替わりも激しいため、一般的なグループアイドルという枠では括れない存在だと考えている。それは一つの生態系ととらえた方がよい。もっともイメージしやすいのがAKB48グループだ。そのよいところはよいところとして踏襲し、また二番煎じに甘んじることのないように独自の道も模索している。その思想は例えば「インディーズ路線を貫くこと」「国民的地下アイドルを目指すこと」などに顕著に表れている。

メンバーたちは古株はもちろん、たとえ駆け出しであっても、日々の活動の中で芸能界の厳しさをまざまざと突きつけられる。それは「皆が仲良く」「皆が平等に」という生半可なものとは無縁だ。例えば彼女たちはメンバー同士の連絡先の交換を禁じられている。恋愛は自己責任(ただし、ファンとはNG)。そして人気投票である「オタク満足度」は毎週末にその動員数が集計され、ランキングを競っている。ここでいつまでも下位に甘んじること、またそのことに危機感を持たないのであれば、その先に明るい未来はないだろう。そういう残酷な世界なのである。またこの投票がダイレクトに毎月の給料に反映されるのがユニークなところだ。

そんなふうに日々奮闘している中、それぞれのメンバーは芸能界での実績を作りつつある。例えば筆者の一推しであるスチームガールズのセンター黒瀬サラちゃんは、2016年夏に公開された土屋太鳳ちゃん主演の映画『青空エール』に、主人公の友達役として出演している。東京大学を卒業した桜雪ちゃんは、東大学士アイドルとして様々なテレビバラエティに出演する他、自身の受験記を記した『地下アイドルが1年で東大生になれた!合格する技術』を出版した。月野もあちゃんは2016年10月放送開始のTOKYO MX『TO BE HERO』そのヒロイン役で地上波アニメ声優デビューを果たした。バラエティ適性の高い森カノンちゃんは、仮面女子がテレビを含めた各種メディアでのゲストMCに呼ばれるときの最有力候補だ。このように仮面女子は多様な逸材を擁している。


■仮面と文学の関係について


そして筆者がここで仮面女子を取り上げる理由はこれだけではない。本誌のテーマは「アイドル文学」だ。文学に親しい読者ならば、「仮面」という名詞を聞いて否応なく思い浮かべてしまう作品の一つや二つはあるのではないか。そう、ミステリ、あるいは文学作品において「仮面」というものが重要なモチーフであるものは多いのである。タイトルに注目すれば、三島由紀夫の最初の自伝的長編で文学的出発点とも評される『仮面の告白』、本格的な“悪”の連鎖を描いた中村文則『悪と仮面のルール』がある。ミステリでは東野圭吾『仮面山荘殺人事件』、知念実希人『仮面病棟』、折原一『灰色の仮面』、綾辻行人『奇面館の殺人』などを挙げることができるだろう。横溝正史原作小説で、また日本映画の金字塔とされている『犬神家の一族』では、白い仮面が物語の重要な核となっていた。安部公房『他人の顔』は事故によって顔面に酷い火傷を負い「顔」を失った男が、精緻な仮面を作成し、自己回復のため妻を誘惑する物語だった。仮面を被ることによって超人的なパワーを発揮するというタイプの物語では『仮面ライダー』シリーズがあまりにも有名であるし、あんど慶周ギャグマンガ『究極!!変態仮面』も外せない。本作は「最もDVD−BOXを売る男」としても名高い福田雄一によって『HK変態仮面』『HK変態仮面アブノーマル・クライシス』として映画化もされている。

これらの作品に限らず、世に出ている多くの作品の中で「仮面」は、物語の骨格として、あるいはトリックの核として、あるいはパワーを与える存在として描かれる。そう、「仮面」というアイテムと「文学」は親和性が高いのである。


仮面女子は、なぜ仮面をかぶるのか


地下アイドル仮面女子」はなぜ仮面をかぶるのか。アイドルは顔が命なのだから、顔を隠してしまってはその魅力を大きく減じてしまっているという指摘がある。条件反射的に嫌悪感を持つ者もいる。そこに異質なもの、邪悪なものを感じ取ってしまうのだろう。そういう感覚ももちろんわからなくはない。しかしそのような判断をする者がいる一方で、熱い支持を受けている現実がある。そこには、これから地下アイドル界に起こる大きなムーブメントの胎動があるのかもしれない。筆者も仮面女子はいま、推していて最も面白いアイドルだと確信するヲタの一人だ。それは魅力的なメンバー、クオリティの高い音楽、ファンを飽きさせない展開など、いろいろな理由があるが、本稿ではあえて仮面に絞って見ていきたい。


仮面にはどのような歴史的、神話的な意味があるのだろう。中村雄二郎は『術語集−気になることば−』の中で、仮面の働きについて考えるとき、そこには四つほどの重要な霊力が認められるとする。それを大胆に抜粋しながら以下に紹介していく。


第一には、それは私たち人間を日常の空間からふたたび有機的宇宙の中に位置づけることである。一般に、生身の人間はどうしてもシンボル性が弱かったり欠けたりしているが、そこで仮面は、人間の深層の現実をアクセントの強いかたちでシンボル化し、神話的形象として示すのだ。

第二には、仮面をつけることによって人間の顔が全身体化されることである。人間では顔は身体の単なる一部分ではなく、それ自体がすでにその人の全体を表している。しかし、顔はそういう特権的な部分であることによって、かえって身体の他の部分の表現を妨げやすい。そこで仮面は、素顔の目を覆い隠すことによって、私たち人間を意識から解放しつつ、身体の他の部分の自由な表現を助ける。

第三には、仮面が私たち人間のパトス的=受苦的存在としての側面を強化し体現していることである。仮面がいきいきとした生命力あるいは霊力を持って活動する世界は、濃密な意味の充ちたシンボリズムの世界であり、そこでは万物が照応関係、互いに映し出される関係にある。そしてひとは、仮面を付けることで容易にそういう照応関係のなかに入っていくことができる。このような関係においては、自己は否応なしの他者のつよい働きかけを受けるから、パトス的(受動的、情念的、受苦的)性格を帯びるのである。

第四には、私たち人間に〈場所(トポス)〉の重要性を思い起こさせることである。仮面は私たち人間を無限空間(均質空間)から有機的宇宙に解放するだけでなく、具体的な対応物としての固有の舞台、つまり小宇宙としての場所(トポス)を要求する。それが最も顕著に現れているのが日本の能舞台であり、本舞台は四隅の柱によって区切られ、はっきり方向づけられ意味づけられている。そして高座の下手の斜め奥に伸びる橋懸りとその奥にある鏡の間は、怨霊や異類のものがこの舞台(この世)に立ち現われる他界との通路と他界そのものをなしている。つまり能舞台は、空間的にきわめて限られた広さの、一見なにもないところでありながら、豊かな意味発生の場所(トポス)を形づくっているのだ。

術語集―気になることば (岩波新書)

術語集―気になることば (岩波新書)




■私たちと仮面との関わりについて


そして私たちの日常と仮面という概念も、決して無縁ではない。現実の人間関係の中で、また文化の中で、素顔あるいは真実の顔もつねに一つであることはできない。つまり、私たちは状況に応じて様々に顔を使い分ける。それはときには夫であり、ときには親であり、ときには遊び仲間である、といったように。それぞれの役割あるいは役柄に応じて、否応なしにちがった顔をもつことになるのだ。そのとき、素顔はかえって仮面を真似ることになる。素顔はすでに他者の眼に映った、つまり特定の他者との関係のなかで成立した私の顔なのだ。

以上が中村の整理である。そしてそれを強調するために、坂部恵『仮面の解釈学』の中からとある文章を引用している。これは非常に重要だと思われるので、孫引きさせてもらおう。


「わたしの素顔もまた、わたしにとって、他者−ないし〈他者の他者〉−以外のものではなく、他者性につきまとわれることのない純粋な自己、自己への絶対的な近さ、現在、親密さなどというものは、本来、どこにも存在しない。〈わたし〉は常に〈人称〉personneないしは、〈仮面〉personaとして以外には、形どられあらわれることはないのだ。/仮面が素顔の隠喩であるのと同等の資格において、素顔は−何らかの〈原型〉などではなく−仮面の隠喩である。」
「素顔は真実に、仮面は〈偽り〉ないし〈絵空ごと〉により近い、と考えるのは、特定の文化的限定を受けた、一つの特殊な偏見以上のものではない。」


仮面女子の話に戻ろう。これによって、仮面女子をその「仮面を付けている」という一点だけで批判することはできなくなった。私たちはこの人間社会で生きている限り、すでに常に仮面をつけている。もし仮面女子「仮面」を付けていることで、真実を覆い隠し、不誠実であり、邪悪であると感じるのならば、それは偏見以上のものではないと断じているのだ。そして私たちはここで、仮面女子が仮面を身につけることのポジティブな効果、その解釈について思い至らなければならない。ここでは先ほどの、仮面が持つ四つの重要な霊力を援用することができる。以下に当てはめてみよう。

アイドルグループ仮面女子」にとって、仮面はどのような役割を果たすのか。彼女たちは確かに自分たちを指し示す呼称として“仮面”を打ち出し、また秋葉原駅前の巨大看板に代表される宣材写真では、全員が仮面を身に付け、誰が誰だか分からない状態を意図的に演出している。そこで仮面は、生身ではあまりにもありふれている女子集団をある種の神話的形象としてそのシンボル性を強化する。これによってまずは、グループそのものの存在を強く意識させることに成功していると言えるだろう(仮面の効果1)。

仮面女子は曲中に激しいヘドバンをしたり、間奏では暗がりの中で何かに憑かれたような妖しい動き、檻に閉じ込められたような動きを見せる。そのときに仮面を身に付けることによって、メンバーは臆することなく、より激しいパフォーマンスができるようになるという。これはまさに、身体を意識から解放し、自由な表現を助けるという仮面の効果に他ならない(仮面の効果2)。

また全員が仮面をかぶることで、お互いに強い働きかけを受け、前述の言葉を借りれば「パトス的(受動的、情念的、受苦的)性格」を帯びることになる。その結果、エンタテインメントの強度が増し、メンバー同士だけではなく私たち観客をもその世界観に強烈に感染させることが可能になるのだ(仮面の効果3)。

そして今や仮面はアリスプロジェクトを代表するユニットの象徴として捉えられており、候補生たちは「仮面を被ること」を目標としている。仮面女子に昇格して初披露が行われる際には、ライブ前に「仮面の儀」という儀式が行われることもその価値観の形成に大きく関わっている。そこでは仮面は、単なるステージを神聖で豊かな場所へと変貌させる力を発揮する(仮面の効果4)。

このように考えると、より仮面女子への興味が湧いてくるはずだ。そしてもう一つのありがちな誤解、つまり「メンバーを見分けることができないのではないか」という誤解についても解消しておきたい。

当然のことながら、仮面女子のメンバーはライブやイベント、テレビなどの各種メディア、握手会など、多くの場面では仮面をつけていない。仮面は彼女たちを特徴付ける一つの「衣装」に過ぎないのである。そこには言うまでもなく、彼女たちの(容姿としての)素顔に触れ、推しメンを見つけ、声援を送り、信頼関係を築くという、地下アイドル現場では当たり前にある可能性に常に開かれているのである。だから安心して欲しい。一人一人のメンバーを知れば知るほど、その魅力に気付いていけるはずだ。ひとたび推しメンができれば、仮面越しに声援を送ることもできるし、ソロパートで仮面を外すという演出がこれ以上ない高まりを私たちにもたらしてくれるということも理解してもらえるにちがいない。


■まとめとお願い


議論があちらこちらに飛んでしまい、冗長な文章になってしまった。しかしアイドルグループ仮面女子」の仮面について深く掘り下げることでその魅力を考えるという点において、筆者自身、この文章を書いてよかったと思う。皆さんはどう思われただろうか。強引なこじつけなのかもしれない。それこそ錯覚なのかもしれない。しかし錯覚こそが文学の本質であるならば、これもまた筆者の文学的営みであり挑戦なのだ。


本稿の目的は、一緒に仮面女子を応援してくれる仲間を見つけることだった。この文章を書くこと、そして読まれることは、その目的の導入部分でしかない。仮面女子の具体的な魅力については、筆者が独自に作った同人誌仮面女子の研究☆』(チロウショウジ)の中でより詳しく紹介している。もしご興味を持たれたならば、筆者に一声かけてください(@

地下アイドルのライブを経験したことがない人、アイドルが嫌いではないがその楽しみ方がよくわからない人、AKBグループを始めとするメジャーアイドルのことが好きだが何か物足りなさを感じている人、これまで全くアイドルと無縁の生活を送ってきた人、そのすべての人に贈ります。そして特に、仮面女子に対してなんとなく苦手意識を持っていた人、取るに足らないものであると決めつけていたという人がもしいるならば、それは錯覚だ。ただし、人生を豊かにしないほうのそれである。同じ錯覚なら、人生を豊かにするほうの錯覚にかけてみませんか。

この文章を読まれたあなたにはもはや、何も躊躇する理由はない。あなたは仮面女子を推してもいいのだ。