プレゼント、「嫌いだ 全部 好きなのに」について

BUMP OF CHICKEN「present from you」収録の「プレゼント」の歌詞解釈(整理)について。
当初は「これほんとに9年前の歌詞か〜?」とか思ってたんですが(笑)、詞の内容についてはだんだん合点がいき始めたところです。
歌詞は個人的にはすっと入ってきたのですが、ちょっと意見の分かれそうな所について言及しておきます。
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嫌いだ 全部 好きなのに

ここでは「全部」を「自分の全部」として解釈する。とすると、「自分の全部が好き なのにもかかわらず 自分の全部が嫌い」という一見矛盾に満ちた文が構成されよう。
方法的に外部の視点からこれを解釈して、理解してみることにする。
先ほどの一文は
「自分という存在が愛おしくて仕方がないからこそ、どこか一かけらでも欠けた部分がある現在の自分が嫌い」
というふうに解釈できよう。過剰な自己愛が、現在のありのままの自分を肯定することを阻害してしまうと言う逆説。
こう記述するとやはり自己批判的な、承認性の低い言説となってしまうが、「プレゼント」はそのような事態を巧みに回避する。過剰な自己愛に苦悩する個人(すなわちラフメイカー)を描きながらも、それは聴き手に対してアイロニーを嗾けるキャラクターではなく、聴き手の共感・自己肯定を促すキャラクターとして設定される。社会学的な相互浸透の一形態と見てよいだろう。
さて、「嫌いだ 全部 好きなのにというオリジナルのフレーズに立ち返ろう。方法としての外部の視点で、一旦ゆがめてしまった歌詞本来のひびきに注視しよう。自己のこうした矛盾に対する苛立ち。しかしそれすらも肯定的に包摂してしまおうと試みる「プレゼント」という物語。大胆にalthoughとbecauseを入れ替えて説明したが、フレーズの意図せんとするところが伝わっただろうか。

参考:
「太陽」という楽曲の日常性

例のおじさん


余談:
改めてラフメイカー、プレゼントを聴いてみると、これってものすごく面白い形式のテクストなんじゃないかと感じた。他者を語るように見せて実は自己(藤原基央自身)を語る。しかしその自己というのはラフメイカーという「キャラクター」に媒介され、ゆえにリスナーは「物語」の中へ登場人物として引込まれてゆく。相互浸透の極み。その結節点としての「嫌いだ 全部 好きなのに」というブレイクポイント。また、ラフメイカーという物語の中の住人がさらに物語をプレゼントしているところも面白い、まあもちろんこういう階層的メタを提示する形式はたくさんの童話とかで取られてきてるのだろうけども、それが「歌」というジャンルで行われてることにある種の特殊性を感じるのだ。「才悩人応援歌」が「『頑張れ』に代わる新たな発明」たる所以――その形式・構造――について、というネタがあるのだが、その時にもう少し細かく書くかもしれない。