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「科学者」の誕生

ルネサンス以降ヨーロッパでは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスガリレオ・ガリレイ、天体の運動を解明したヨハネス・ケプラー、近代物理学の祖となったアイザック・ニュートンらが中心となって、大規模な科学の転換が起こった。



この転換は、当時の人々の世界観、すなわちアリストテレス的自然観を覆し、近代科学の礎を築いたとされる。歴史家ハーバート・バターフィールドは、この一連の変革を産業革命にちなんで科学革命 (Scientific Revolution)と呼んだ。



しかしながら「科学革命」という言葉とは裏腹に、コペルニクスガリレイケプラーニュートン達は「科学者」ではなかった。もちろん彼らは今日でも燦然と輝くような優れた知的業績を残したが、彼らが科学者と呼ばれたことは一度もない。



今日われわれがイメージするような、「科学」を生業とする「科学者 (Scientist)」という言葉が生まれたのは、ニュートンが没して100年以上も後の19世紀半ば、命名者は、ケンブリッジ大学の副学長をつとめた鉱物学者ウィリアム・ヒューエルである。



ニュートンの主著、「プリンキピア」の原題が「自然哲学の数学的諸原理」であるように、ニュートンの活躍した当時は、学問は現代のように細分化されておらず、世界の理を解明しようとする行為は全て「科学」ではなく、「哲学」と呼ばれていた。従って彼らも、「哲学」という一つの体系に取り組む「哲学者」だったのである。



しかし、ヒュエールが「科学者」という言葉を作った19世紀においては、かつて哲学として取り組まれてた知の体系はより細分化、専門化し、個別の諸科学へ分化しつつあった。そして同時にこの頃はじめて、科学研究を職業とする階層、すなわち「科学者」が勃興しつつあったのである。



しかしながら、イギリスのトマス・ハクスリーは、初めて「科学者」という言葉に触れた時、「このような言葉を作ったのは物知らずのアメリカ人に違いない」と毒づき、自分が「科学者」と呼ばれることを拒絶した。彼は、知識を飯のタネにするような人やその営みには我慢がならなかったという。



コペルニクスの本職は聖職者であるし、ガリレイニュートンは大学の教師を、ケプラーパトロンを見つけて宮廷につかえることで、生計を立てていた。少なくとも彼らが取り組んだ哲学そのものは、彼らの生計の基盤ではなかった。



つまり哲学者は、あくまでも「知を愛する者 (philosopher)」として、知的活動を行っていたのである。そうした態度を尊ぶ側から見れば、職業としての科学者という在り様をさげすんだのも無理はない。



しかし一方で、科学が専門化、細分化し、そこから生み出される様々な知識は、国家の近代化に既に必要不可欠なものとなっていた。そうした背景から、科学は国家政策として推進され、職業として科学者が必要とされる場が一気に増大した。



「科学者」という言葉の創出は、一方で伝統的で高尚な知的活動を尊ぶ側からは品の無い言葉に見えたであろう。しかし一方で、当時の社会において「科学」が持つ役割の変容していく様をいち早く察した、ヒューエルの洞察によるものなのである。



◆参考文献

科学者とは何か (新潮選書)

科学者とは何か (新潮選書)

パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)

パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)