色彩設計と価値基準

何日か前に見たバッド・エデュケーションというスペイン映画の衣装はデザインから縫製までジャン・ポール・ゴルチエが手掛けていたそうだ。なぜ、物語の筋にも関わらない所に手間もお金も掛かることをしたのか。そう問い掛けられた監督はこの映画はスペインの映画でありどこかくすんでいる我が国の味を出すためには自らが確信した服を選びたい。なければ、作りたいと答えていた。僕はナイキのTシャツにプーマのジャージを合わせアディダスのサンダルを履いて池袋の駅前で友人を迎えた経験のある舎人であるから彼じゃなきゃ…とまでは言い切れないけど、衣装も含めないと成立しない作品と断言できる。ハリウッドみたいな派手な視覚効果は嫌だけどやはり観るものであるから視覚的に引き付けられるものがあるとつい見入ってしまう。オープニングの描写とか内容も含め、断然たるカトリック教国たるスペインにおいてこのような神って何なんだと問い掛けている監督の姿勢はとても勇気がある。本人はそんなことを意識せずにカメラ越しに俺って何なんだと自問自答してるだけかもしれない。
ここまでが前フリ。
映画における色彩設計の大切さを考えた後、他にもっと作品全体において色彩設計が高い割合を占めるものはないかと考えた。答えは僕の固有結界。僕だけではないと思うが少なからずこの人が描いてる(沙村広明氏一般)、あの人が声を吹き込んでいる(川上とも子嬢一般)とかで良い評価になる場合が多い。ジャケ買いはその最たる例だ。映画よりも高い比重で視覚・聴覚から判断して善し悪しを決めてしまう。少しならともかく多すぎるのは節操なく、ものの順序も逆な感じがして良くない。
僕の服飾関係アンテナ偏差値はたぶん50を上回らないだろうが、誰が原画を書いたか?声を吹き込んでいるか?等々の電波アンテナ偏差値ならおそらくイイところで線をなぞってる。そのことと絶対的な価値判断の基準が自分の中に存在することは全く別だ。
「この人はこれとこれに出ててうんぬんかんぬん…」お前は新大陸でも発見したのか?みたいな気分を僕の周りの人は味わったことが多々ある。自分でもひしひしと声にならない反発を感じる。すまない。そうやって得意気になるよりも、映画の衣裳が綺麗で調べてみたらゴルチエ(今はシャネルのデザイナーだって)だったとかこの声うめえと感じて確かめたら桑島さん(テイルズオブシンフォニアではプレセア一辺倒。イクナイ!)だったとかこの萌える絵の作者はみつみ美里(ToHeart2暫定Moe Of Moeは由真ちゃん。悪い?)と認識できる感覚を持ったり、あるいはなぜ作品の作り手はこのような視覚を観る人に伝えるのかを考える方が人生はきっと楽しいと形ばかりの反省。知識自体はあった方が良い。間違いない。
最後に一言ツンデレが好き。