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2017-06-13

最大のゆとりは、髪がふさふさの人間

12:23 | 最大のゆとりは、髪がふさふさの人間を含むブックマーク

ちょっと真面目な感じのエントリが増えたので、ここいらでふざけたのを書く。

髪がフサフサの爺さんをみると、ちょっと殺意が芽生える。僕なんぞまだアラサーなのに、情けない密度の髪風景になっている。ストレスがかなりの原因なのはわかったが、今のところそれを取り除くのは難しい。嫁ができれば大半の薄毛ストレスからは解放されるだろうが(生物として遺伝子が残せれば、薄毛だろうと関係ないから)、薄毛だからもてない。もてないからさらに薄くなる。この負のスパイラルは人類史が始まってからずっと続くものらしい(未調査)。神様の残酷さにはあきれる。


フサフサのじいさん

人生これから!といきがっている団塊の世代は、田舎にも多い。あきれるほどの高級な道具をそろえて、スポーツとかカメラとか楽しんでいる。趣味に生きているのはすばらしいし尊敬するのだが、若者を押しのけて自分をベストポジションにおいて、牽制する姿は目に入れるのもおぞましい。何より趣味を楽しんでいる爺さんは髪がフサフサな人が多い。許せん。

何で俺より髪の毛が生えそろってるんだ。人生苦労してきましたっていうなら、髪の毛を薄くしろ。フサフサってだけで、人生の大半は成功しているようなものだ。ゲームでいうところのチートである。チートの団塊の世代、勝てる気がしない。

薄毛をごまかす方法として、スキンヘッドが考えられる。しかしスキンヘッドはスキンヘッドでいやなものである。坊さん以外のスキンヘッドはなぜか強引で強欲な人が多い。僕もスキンヘッドにしたら強欲で強引な人間になりかねない。これは避けるべきである。

それにしても、フサフサの爺さんを見ると、もう自分が生きている意味がなくなっているような気になってくる。特にフサフサがフサフサの孫を連れているのを見ると、「ああ、僕は本当にいらない遺伝子なのだ」とうなだれそうになってしまう。しかし実際にうなだれることは無い。薄毛が目立つから。


同世代の友情

友情は髪の毛の量で決まる。薄毛になるとなんていうか、会いにくくなる。金の切れ目が縁の切れ目とよく言われるが、違う。実際は、髪の切れ目が縁の切れ目である。薄毛になると、非常に会いにくくなる。特に日中、外で会おうなどと言われても、嫌な気分でいっぱいになる。明るいところでは薄毛が目立つ。外には帽子という装備無しに出たくなくなるのである。一人なら帽子を被りっぱなしでかまわないが、友人といると、屋内で食事を取るなどということになりかねない。帽子は取らねばならない。薄毛で蒸れた頭など、悲惨にもほどがある。どうしようもない悲惨さであり、どんなに優れたカウンセラーでも解決できないほどである。

屋内で帽子をとらないのはマナー違反とか言い出す輩は、マナーの前に薄毛の人間への気遣いを覚えてほしい。薄毛の人間の心は、とても繊細なのである。

カーテンを閉め切った窓から、明るい屋外を覗き込むとなぜ太陽があるのか哲学的に考えてしまう。太陽さえなければ、僕の薄毛は目立たなくてすむのに。

結局、僕はフサフサの友人と会うのをやめた。つまり誰とも会わなくなった。


人類みな早くはげろ

だいたい、人類は毛を捨てて進化してきたのである。頭と体に数箇所だけ残っているが、もっと早く捨てるべきである。みんなカツラか帽子でファッションをするようになれば平等である。

平等を目指すなら、髪の毛をみな剃るべきである。今、わかったような気がするが、僧侶が頭の毛を剃っているのは、ぼくらのような頭髪劣等の人々と平等にあろうとした結果ではなかろうか。なんとすばらしいのだろう。この考えからいうと、他の宗教なんぞエセである。頭の毛も剃る覚悟も無い宗教なんぞ、誰を救いたいかさっぱりわからん。やる気が無いなら廃業しろ。仏教万歳。


フサフサはゆとり

僕から見ると、フサフサの人間なんぞ老若男女すべてゆとりである。髪がフサフサなだけで、無い人間より、8割り増しで自信はつきやすいし、就職もしやすいし、男女関係もうまくいきやすい。男女関係にいたっては、ふさふさって言うだけで、百割増しでうまくいくレベルである。楽して生きてるんじゃねーよ、ゆとりども。

とはいうものの、自分も十年ほど前はフサフサだったはずである。だから僕も、本当は、はげる前に行動を起こすべきだったのである。若いうちに動く理由のひとつは、頭髪の豊かさである。無くなってからでは遅い。

あのとき、数打てば当たる作戦でいっていれば、今頃就職もうまくいき、嫁もいたはずである。女性は、ハゲと付き合い出すことは無いが、彼氏や旦那がハゲることは許容するらしい。

髪があるって本当に大事。無職になった後(このときすでに薄くなってきていた)、せめて薄毛でなければ、僕は順調に社会復帰できてたかもしれない。就職は見た目判断だから。うつ病もすぐに治ったかもしれない。そもそもうつ病にならなかったかもしれない。僕が周囲からやたら馬鹿にされたのは、才能云々ではなくて薄毛だったからではないのだろうか。悲しくなってきたのでこの辺で考えるのをやめる。

しかし薄毛になってからが、人生長いのである。ここからが勝負である。薄毛に打ち勝ってこそ、真の人生である。


ちょっといいこと

薄毛になると、薄毛の人から優しくされる。そして自分も優しくなる。出会った瞬間、親近感が沸く。劣等な見た目同士ならは、劣等でもいいのである。いや、劣等などなくなるのである。

「このハゲ!」なんぞ口が裂けても言えなくなるわけである。このセリフ、(髪を)持つものの傲慢さがよくわかる。

真の優しさは、髪を失ってから得られるものなのかもしれない。髪と神の発音が同じなのは偶然ではないような気がする。神は死んだとかつての哲学者は言った。神を失ってから、人類はその優しさを試されているのだ。個人においては、髪を失ってから、その人の優しさが試されるのだ。

もう自分で何を言っているのかわからなくなってきたからやめる。

また、家族のありがたみもわかる。皆は頭を見て馬鹿にするが、家族はそうではない。家族は身体の遺伝的欠点をつくことがない。同じ遺伝子だからだろうか。家族の優しさがよくわかる。家庭のぬくもりとはこういうものなのかと実感する。身を寄せ合って生きるという意味も良くわかる。

髪を失ってわかることはたくさんあるのである。

むしろ、人類は髪を失うべきである(暴論)。