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2015-08-31

助けられる能力は無理やり伸ばすべきか

15:56 | 助けられる能力は無理やり伸ばすべきかを含むブックマーク

僕は人から助けられにくく、怒られやすい。困ったことが起こってもリアルでは誰も助けてくれなかった(口で思いつきレベルのアドバイスはしてくれるが)。かつて友人たちと3人ほどで多少マナー違反をしたことがあったが、なぜか僕だけ咎められ、知らないおっさんに説教されたこともある。

見た目が醜く、男なのに背が低いとこういうことになりやすい。まるで物語に出てくる貧弱いじめられキャラのようだが、どっこい現実である。そして現実には、物語のようなご都合展開などない。


助けられる人間になる方法があるというが

ネットで探してみたら結構ある。だけどまあ、提案レベルのものが多い。

大体は、助けられるならまずは自分から他人を助けようという提案であり、後は愛想良くしようという提案である。そうすれば状況が好転するらしい。助けて貰える人物になるらしい。

一言でまとめると、笑って人助けせよ、とのことである。状況によっては逆ギレされそうである。

これは、そうかもしれないけど、人と人とのつながりが希薄になってきた現代社会において、効果はあるのだろうか。助けたところでもう会うことなど一生無いわけだ。

それに男が初対面の相手にヘラヘラと笑顔を振りまくのはどうも肯定的に捉えられない

それに小柄でヘラヘラしている男など詐欺の餌食になる可能性も高い。


助けられたいなら、まず助けよと言うけど

僕はまあ、ずいぶんと助けてきた。かなりの労力と時間を費やして、助けたこともある。だけど、助けられた記憶は無い。家族(親)は別だが。*1

もちろん、親切にされた人は、「情けは人のためならず」のことわざ通りなら、どこかで誰かに親切にしているのだろうが、それが僕に回ってきたことはない。きっとこれから回ってくるのだろうと期待に胸を膨らませているが、少々遅すぎるような気がする。

最近は、時代の流れとして、助けられたらラッキーという認識があり、それは自分の運が良いからであって、他人が自分に親切にするのも当然だと思っている節がある。

特に、爺さんにそういう人が多い。感謝の心がない。なぜ車イスを押してあげたのに、若者が昼間からふらふらしてと説教をされなくてはならんのだ。理不尽である。ゴミ拾いをしていたら、泥棒か何かと勘違いされなきゃならんのだ。遺憾である。

それでも助けること自体は、まあ、やめないだろう。助けられる場面で助けなかったら後から非常にモヤモヤするのが分かっているからである。助けて疑われるより助けなくて後悔するほうが心の負担は大きい。

しかし、親切をするときは、相手に逆ギレされることも覚悟してしなければならない。そして、たとえ逆ギレされても、受け流してすぐに忘れなければならない。親切にもそれ相応の覚悟が必要なのである。


僕が助けられないタイプである原因

笑顔が足りないからである。愛想が悪いからである。僕はとにかく人見知りで、この年でも直っていない。限定された状況ならいいのだが。店員さんとか関係がはっきりしている相手ならまあできなくもない。体力はかなり消費するが。ともかく笑顔が足りないのが一つの大きな原因であると思われる。

作り笑いというか愛想笑いができないのだ。でもそれができる人って、そういう環境(笑顔が肯定される環境)があったからでは無いかと思う。女性は別だが。女性は人を殺した直後でも笑顔でスイーツを食べそうである(偏見)。もちろん全ての女性ではない。それができない女性が、底辺女子やら貧困女子やらに陥っているのかもしれない。


で、結局そういうことを意識して生きるべきか

僕は、助けられたいから愛想良くするのは、あまりいいことだとは思えない。否定はしないが積極的に肯定はできない。

結局、笑顔など苦手に育った人間が、無理にそういうことをしていると、必ずどこかに負担がいく。心のどこかにストレスがたまる。下手をしたら、人格に影響が出るかもしれない。自分がどういう存在か、自分が本当は何を考えているのかわからなくなってしまうかもしれない。

面白いことがあれば、笑えばいいし、笑いたくなければ笑わなくていい。僕自身については笑うハードルを下げる努力はするべきかもしれないが。


笑顔と親切の順序について一考

だから僕はせめて、笑顔の苦手な人を見つけたら(何となく匂いで分かるようになる)、こちらから親切にしてやろうと思う。そういう機会があれば、の話だが。

そもそも、笑顔など表情がなくても、困っていれば、皆が親切にしていればいいのではないかと思う。そうすれば、全員が無理に笑顔など作らなくても、生きやすくなるのではないか、と自分の都合に合わせた論理を展開してみる。

だいたい、親切をされてそれに感謝の意を伝えるためにするのが笑顔ではないのだろうか。最初から笑顔を求めるのは、少々、与える側の傲慢だとも言える。


参考に

私の個人主義 (講談社学術文庫)

……本エントリと直接は関係ないが、欧米的な思考に覆われている日本について考えている。漱石先生は僕たち日陰者と波長が合いすぎて困る。kindle版もある(私の個人主義

)。


小泉八雲『日本の面影』 2015年7月 (100分de名著)

……(かつての)日本人の微笑みについて面白い考察をしている。テレビで見ただけで未読。小泉八雲の入門書として手元に置きたい。笑顔というキーワードで思い出した。漱石と同時代であると考えると面白い。

*1:なんだかんだ言って黙って家に住まわせてくれるのは有難い。

峰 2015/10/17 08:53 愛されキャラの人っていますよね。
何しても仕方ないな~。って許されちゃうような人。

まず、笑顔に関してですが、不細工とかは関係ないと思います。
どんなにイケメンでも、無愛想なら最初はちやほやされても、みんなだんだん飽きていきますから。

最近、「ダイヤモンドが光り輝いているのは、傷がないからではない。小さな傷が無数にあり、それによって磨かれたからこそあれだけの光を放っている」っていう話を聞き。
あの美しく輝くダイヤモンドに無数の傷がある、なんてことに、普通は思いが至りません。
でも、見えない傷がある。無数に。
いつも笑顔でいる人って、悲しみや悩みがないからそうしているのではなくて、あなたのように無数の傷を経験してきているからこそ、そういう状態であれると思うんですよ。
笑えない状態、立ち上がれない状態、苦しくてしょうがない状態、つらくて眠れない状態・・・、そういうものを経験して、乗り越えて、折り合いをつけてきたからこそ、そこになんとも言えない魅力的で暖かな光が漂う。
私はそう思います。
こんな言葉あなたは求めていないかもしれませんが笑

それと、愛されキャラの共通点。
これは私の持論ですが、人に好かれる人の数人が、共通して言っている言葉が1つあることに、ある時、気づいたんですね。
それは、「私は人に恵まれている。私の周りには素敵な友人ばかりいる。」
ってこと。
そう思うから人に恵まれたのか、人に恵まれたからそう思うようになったのか、それはわかりません。
でも、この思考形態が今の現状を作り上げ、さらに強化していることは間違いありません。
例えば、俺のことなんてどうせ周りは助けてくれない。俺の友だちに値する人間なんて全くいない。っていう思考形態でいると、どうなるか。
周りはみんな敵に見えますから、そういう態度や目つきになります。
そういう行動を取っているいけ好かない人間に、愛をもって接してくれるマザーテレサのような人間はいません。

でも、「私の周りには素晴らしい人ばかりがいる」ってことを信じている人は、当然、態度や対応も「素晴らしい人ありがとう対応」になりますね。
人に助けられたいなら自分から助けるって、そう言うことでもあるのではないでしょうか。

ruisouruisou 2015/10/18 21:31 > 峰さん
コメントありがとうございます。
周り、敵ばっかりに見えてますね。信頼できる友人はいますが、いかんせん遠いです。地元には誰も残っていません。。
諫言ありがたく頂戴します。

ただ、悪い人に騙されないようにしてください。僕はマルチにつかまりかけたこともあります。窓ガラス割られたこともあります。他にもいろいろありますが、コメント欄に長々と書くことではありませんのでこのへんで。

2015-08-18

現代の日本人の夢と自尊心が日本を生きづらくしている

| 18:00 | 現代の日本人の夢と自尊心が日本を生きづらくしているを含むブックマーク

僕は最近、ブログでやれ夢だ、やれ目標だと言っているが、なんというか、その”夢”という言葉はそこまで肩に力を入れたものでは無い。おそらく多くの人とのイメージにギャップがある。

今回の記事は、安定職に運良く就職した人には、特に読んでもらう必要はない。どちらかというと、そんな高い場所ではなく、底辺をのたうち回って、かつ夢を見ている人に読んで欲しい。もっとも、そういう人はとっくに分かっているといいそうだが。


夢のとらえ方

前述したように、僕は夢そんなに肩に力を入れていない。夢を叶えるといっても、基本的に、利益や地位・名誉を望んでいないし、自分一人でやろうとも思っていない*1。だいたい、ネットなどで”夢”を語る人は、金銭的利益を重要視していることが多いが、僕はあまり重要視していない。重要視しないように心がけていると言ってもいい。

まあ、もともと貧乏育ちなので、お金に執着がない。それに、ライバルとかそういう概念のない山に囲まれた田舎で育ったので、普段から競争心がない。だからあまり急ぐ心もない。爺さんになったときに形になればいいかなという程度である。

もちろん、若いうちに(金銭的に)成功しないと、結婚出産マイホームなど*2、そういう「普通の幸せな人生」というものが得られない。

しかしそれは、僕の場合は、20代で大きな病気をしてしまった時点で諦めるべきだった。実は20代の間は、結構もがいていた。結局僕は30歳という年齢の峠を越えるまで諦めきれなかった。孔子は「三十にして立つ」とか言ったらしいが、現代なら「三十にして断つ」(「普通の幸せな人生」を諦める)と言ったところか。内容が違いすぎて泣けるが……。ともかく、肩に力を入れまくって、自分の夢の早期成功に邁進している人は、自意識に飲み込まれないよう気をつけた方がいい。


現代人のプライド

現代の先進国の人間は、概してプライド、自尊心が高い。

特にテクノロジーを信仰している人間は、スマホやパソコン、自動車を使うことで、自分が高級だと思い込んでいる。テクノロジーの恩恵にあずかれる人間は、生まれた環境が良かっただけで、特にその人そのものが素晴らしいわけではない。それを開発した人たちは素晴らしいけど。もちろん、その辺をきちんと分かっている人も大勢いる。

しかしそれで自分が高級になったと勘違いしている人が、あまりに多すぎないかと心配する。そのプライドが歴史を軽視し、途上国や寂れた地方・田舎などを軽んじることに拍車をかけている。また、自然に対しても自分たちが支配・コントロールできていると思い込んでいる。

結局、それら自尊心が、自分自身を攻撃している。夢の場合と同様に。

人間としてのプライド・自尊心が無駄に高くなったのは欧米的な考え方が輸入されたからだ、と白人嫌いは批判しそうだが、白人は白人で同じような葛藤に直面していると思われる。だからシリコンバレーで禅などが流行ったりするのかもしれない。

確かに、ハイテクを使いこなすようになると、少し心に得意が生まれる。先進国の立派な人間になったような気持ちになる。しかしそれで鼻を高くするのは大学生までにしたほうがいい。恥ずかしいから。

基本的に、一般の現代日本人など、弥生時代のころから変わっていない。弥生時代の人にスマホを与えれば、普通に使いこなせるだろう。自動車を与えれば、難なく運転するだろう。ある程度のレクチャーも必要だろうが。

その程度のものなのだ。僕たちのプライド・自尊心などは。


僕たちを締め付けるもの

結局、夢とかプライドの過剰生産せいで、生き方が分からなくなってしまっている人が大勢生まれているような気がしてならない。生きることについて真剣に考えを巡らせていない、時間を割いていないからこうなるのかもしれない。

考えても一円の価値にもならないが、生きることについて真剣に考える時期がないと、人間は獣に成り下がってしまうのかもしれない。それなのに、さらに、文系科目を軽視する動きもみられる。軽視してしかるべきものも確かにあるが。

ともかく、夢・プライドのために、歴史を軽視し、過去の人の生き方を否定し、自分一人で生き方でも何でも切り拓いてみせる、と自己啓発本を片手に息巻いている。そしてそれが敵わぬと知ったら、燃え尽き症候群のごとく、何もしなくなる。もしくは自暴自棄になり、理性の欠けた行動をする。最近の凶悪事件は、こういうことが一因でないかと、僕は推測する。

確かに、近代国家になり、誰もが夢を見、誇りが持てる社会になった。庶民が自由を手に入れる権利を得た。しかし権利を得ただけで、自由そのものは苛酷な競争に勝たなければ得られないことがわかった。普通、他人を蹴落としてまで競争などはしたくない、しかし自由・夢は大切だから、競争しなくてはならない。だから競争する。この状態は自由と言えるのか、と頭をひねってしまう。


窮屈な世の中

この現象は、現代人(もう日本人と限定しない)の心に膨れあがった、過剰な自尊心がもたらす負の結果である。

冷静に考えたら、アメリカンドリームのごときものを誰もが達成できるわけがない。日本ではそれが「普通の幸せな人生」となっているのが実に悲しいが、ハードルが高くなりすぎているので、今は仕方がないのかもしれない。そしてたぶん、僕たちの世代とその少し上の世代はそれを我慢しなければならない。

過剰な自尊心も悪いことばかりではないが、それをもって成功できる人間は極一部なのだ。もっと、特に国土の狭い日本に住む人間は、謙虚にならねばならない。

いつでもどこでも「自分が、自分が」と己のことを推して、その自意識がたくさんの風船のように膨らんで、窮屈になっているのが今の世の中であると考えるとわかりやすい。

つい最近まで自分もそうだったので、それがどうのこうの注意などはしないが、膨らんでいることを知っていて欲しい。


参考に:

『「自分」の壁』 (新潮新書)

……『バカの壁』で有名な養老孟司先生の本。今回の記事は、この本に影響を受けた。他にもいろいろなところから影響は受けているとは思うけど……。虫好きということで、虫の世界からの比喩が多いと期待したがそうでもなかった。でも面白い。


ちなみに、近々発売されるというこの本も気になる:

「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES

……これはC・W・ニコル氏との共著なのかな?自然から見た人間の考察がなされているようで面白そう。ニコル氏は日本の自然とか大好きな人なので、虫好きの養老先生との対談は面白そう。

*1:もちろん、自分自身に最低限の力がなければ、そういうことをやろうとしてはいけないと感じているので、今は一人でコソコソやっている。

*2:僕は出産はできないが。

duke77duke77 2015/08/18 19:29 相変わらずの文章力で、引き込まれますね。
『自分の壁』は興味あったので、これを機会に読んでみます。

ruisouruisou 2015/08/19 21:21 > duke77 さん
コメントありがとうございます。
文章がつい長くなってしまうので、もう少し簡潔に書けるようにしたいんですが、お褒めに与り光栄です。
『自分の壁』はたまに文章が攻撃的になるところがありますが、その辺に下手に感化されないよう注意して読めばかなりの良本です。ゆっくり読んで下さい〜。

omaruomaru 2015/08/22 17:20 素晴らしい〜。

個人的にもタイムリーな記事です。ちょうど私も社会的成功、幸せ像など人間が創り上げた想念を求めた所で苦しみしかないなと思っていたところです。

御紹介いただいた本。『「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICALSENSES』。面白そうですね。読んでみようと思います。きっと体は自然な生き方を知っているんでしょうね。

ruisouruisou 2015/08/24 08:24 > omaru さん
コメントありがとうございます。
あまり固くならずに考えてやってください。
>きっと体は自然な生き方を知っているんでしょうね。
まさに、その通りと思います。自分もその本を読んで、ちょっと生活を改めたいと思います。

purinpurin 2015/08/25 10:23 今は、価値判断基準を個人で持つことを否定する時代。
価値判断基準を極大集団で共有しているということに幻想を持つことで自我を守ることが当たり前になっている時代。

私も常に外部に正解を求めていたことに気が付きました。
それは自分に自信がないからですよね。

どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思います。
何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ私には自分の価値観の規準が育っていないからだと思います。自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。私が自分の価値判断の基準だと思っているのは、外部に依存した「優等生な自分」「良くできる自分」という役に立たない基準。

もちろん、「良く出来る自分」というものをきっちりと咀嚼し、自分の価値観にしている人は大勢います。でも、私の場合、「他人が自分をどう思うか」という基準なのです。でも本当の価値観というのは、「自分が自分をどう思うか」というものなんですよね。ざっくり言えば、他人が私ののことをかっこ悪いと思っていても自分が自分のことをかっこよいと思っていれば動じないというもの。何をもってかっこよいとするかは、親の見方、恋人の見方、友達の見方、小説内の見方、アニメの中での見方など何に由来していてもかまわないのだけど、自分が咀嚼しているのが重要。自分が咀嚼しているならば、周りの環境が急に変わっても、自分の価値観は急には不安定にならない。

自分の中の価値観がある人は、自分が間違えることをだいたい許容できます。自分の判断基準からしてどうでも良いことならば、間違えたって直してより良いものにしていけば良いだけだから。自分の判断基準からして重要な間違いならば凹むかもしれないですが。でも、一度規準を作り上げている人ならば、規準自体を強化したり、変更したりできるので案外タフなんですよね。

一方、私のような人は、いかなる間違いも許容できない。なぜならば、判断基準は外にあるためどの間違いが自分に致命的でどの間違いが自分に致命的でないかが判断できないから。だって、判断するのは他人。完璧に振舞いたいのだけど、どう振舞えば完璧かわからなくなり、自信が無くなり、自分が嫌いになる。まるで、プライドを殻にした甲殻類みたいになります。判断基準は外にあるので、自分が取れる選択肢は「他人に嫌われないようにする」「他人にかっこ悪いと思われないようにする」「他人にできない奴とみられないようにする」というものしかない。強化も変更もできない。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が仕事だろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現です。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義です。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。

だから、どんなものでも良いから、他人が自分をどう思うかではなく、自分が自分をどう思うかを大切に、価値観をつくっていきたいです。

その当たり前に依って自我を保っている人は、無意識のうちに「個人として価値判断基準を持つ」ことを恐れ、またそういうことが出来ている人に対してコンプレックスを持っているんですよね。

まとまりのない文章ですみません

ruisouruisou 2015/09/04 10:25 > purin さん
コメントありがとうございます。返事遅れてすみません。
絶対的価値観のある芯の通った自分という理想は、やはり必要ですよね。ただ、それが固すぎると、自分でも動かせなくなってしまうかもしれません。
老子は「柔弱」を理想として、何者にもとらわれない生き方をしたそうです。柔弱とは、柔ければ折れることはないし、弱ければ無駄に争いに巻き込まれることもない、という意がこめられています。「柔弱」こそが完全なる理想としてしまっては、世の中ふにゃふにゃになってしまいますが、体が丈夫でない人間ならそれもありかもしれません。
ともかく、そういう考えもあるということを頭の片隅に置いてみるのもいいかもしれません。
意思を固めるとき、それが固すぎると、周りと衝突して無駄な労力が必要になるかもしれませんので、お節介ですが、少し書きました。

金星宏幸金星宏幸 2017/05/10 18:30 現代人はバカに為っているのだ。スマホが無くなれば分かる事だ。夢とは自分自身が物事に真剣に取り組んで努力をする事を言うのだ。今の人は行動力、経験、体験等はそっちのけで頭に知識だけを詰め込んでいるだけなのだ。100の知識があろうと1つの行動力に負けてしまうのだ。昔から成功者は一握りなのだ。今の人は何もしないで得る事も無く時間だけが過ぎて行く時代なのだ。偉人やスポーツ選手等から何を学んでいるのだろう。彼らはみな行動力、経験、体験から人生を学んでいるのだ。いかに人は時間を有効に使えないのか分かる時代に為ったと言うこと。

ruisouruisou 2017/05/12 08:00 > 金星宏幸 さん
コメントありがとうございます。
確かに、スマホの使い方がみんな間違っていますね。大昔から人間は、そのほとんどが時間を無駄に過ごしていたのでしょうね。